第五十六話 世界から勇者が消える日
王都の空に、再び青い輪が浮かんだ。
だが、今度は人々が逃げ惑うだけではなかった。
ゾイドの指揮で避難路が開かれ、ダグが作った地図を手に、村人たちが子供と老人を安全な場所へ運んでいる。
『王都の避難は進んでいます』
通信石から声が届く。
『谷の作業を続けてください』
俺は石を握りしめた。
「分かった」
オルフェンは操作盤の前に立った。
「中継塔が修復を始めています。まず強制召喚の供給を一系統ずつ遮断し、王都から青い輪の縮小を確認してもらいます。三系統の遮断が終わっても、それだけでは契約は消えません。最後に本人の拒否を認める新しい規則を確定します」
「何分だ」
「分かりません。だからこそ、手順を省かず急ぎます」
俺たちは役割を確認した。
スーシャは帰還回路を保護する。
リリスは魔王領の台座を操作する。
俺は勇者の台座で、強制召喚の拒否を確定する。
オルフェンが三つの流れを監視し、ルカは記録を読み上げる。
「準備はいいか」
皆が頷いた。
最初の操作で、門の青い光が細くなった。
二度目で、王都の輪が止まった。
だが三度目の直前、操作盤が赤く光った。
『守護者不在。
世界の安全を保証できません』
低い声が響く。
俺は答えた。
「保証なんて、最初から誰にもできない」
『勇者を失えば、防衛能力が低下します』
「そうだ。危険は残る」
俺は認めた。
「だから、皆で備える。勇者を無理やり連れてきて、代わりに死なせる方法は選ばない」
リリスが続けた。
「魔王の名で人々を従わせることも、もうやめます」
スーシャは祈りの印を結んだ。
「守るという言葉を、命令の言い訳にはしません」
ルカが帳面を開く。
「僕たちは、自分で選びます」
操作盤の赤い光が弱まった。
オルフェンが叫ぶ。
「今です!」
王都から三系統すべての遮断確認が届いた。
青い輪は縮み、帰還門の灯だけが残っている。
これでようやく、強制召喚を復活させないための契約改訂に進める。
俺とリリスとスーシャは、合図を確かめて三つの台座を同時に押した。
石の門から、太い青い鎖が引き抜かれるように伸びた。
鎖は空へ向かい、途中で無数の小さな光へほどけた。
通信石から「王都の青い輪が消えた」と報告が届く。
谷の地面が大きく揺れた。
「帰還回路は?」
スーシャが計器を確認する。
操作盤の切り替えが始まると、谷の外にいた兵士たちも動き出した。
「落石が来るぞ!」
グレンが叫び、避難路へ人々を誘導する。
ルカは名簿を抱え、足の遅い老人へ肩を貸した。
「帳面は置いていけ!」と兵士。
「これには、帰りたい人の名前があるんだ!」
「なら俺が持つ! お前は老人を支えろ!」
二人は役割を分け、走り出した。
俺は台座に手を置いたまま、その声を聞いていた。
かつては俺がすべてを救わなければと思っていた。
だが今、俺が動けない間にも人々は互いを助けている。
「ユリウス、集中してください」とスーシャ。
「分かってる」
魔力の流れが急に強くなった。
右腕が焼けるように痛む。
俺は歯を食いしばった。
「無理をしないで」とリリス。
「無理をしてるつもりはない」
「それなら、痛いと言ってください」
俺は一瞬、言葉を失った。
「……痛い」
「では、魔力を少しこちらへ逃がします」
リリスが台座を調整した。
痛みが和らぐ。
強がらずに伝えれば、助けてもらえる。
それは、勇者として最後に覚えたことだった。
切り替えが終わったあと、俺は聖剣を地面へ置いた。
以前なら、力を失うことを恐れただろう。
今は不思議と怖くなかった。
剣が重くなっても、俺を支えてくれる人がいる。
俺もまた、別の形で誰かを支えられる。
そう思えたからだ。
「生きています。新しい召喚だけが停止しました!」
俺は膝をついた。
右腕の召喚紋が、ゆっくり薄くなる。
剣を握る力が少しずつ抜けていく。
「ユリウス!」
リリスが駆け寄った。
「大丈夫だ」
俺は立ち上がろうとして、よろめいた。
「勇者の加護が消えているのか」
オルフェンが俺の腕を調べた。
「召喚契約から供給されていた力が失われています。あなた自身が鍛えた技術まで消えるわけではありません」
俺は聖剣を持ち上げた。
以前ほど軽くはない。
だが、持てないわけではなかった。
「これでいい」
リリスが笑った。
「本当に?」
「ああ。俺は、剣を軽く持つために生きてきたんじゃない」
王都から通信が届いた。
『青い輪が消えました! 新しい召喚者は確認されていません!』
召喚の輪が消えたという報告は、すぐに国境へ伝わった。
だが、村の人々は最初、信じなかった。
「本当にもう勇者を呼ばないのか」
「次に魔物が出たらどうする」
「魔王が戻ってきたら?」
俺は通信石を通じて答えた。
「召喚は止まった。魔物への備えは続ける。危険がなくなったわけじゃない」
老人が言った。
「勇者がいれば、安心できたのに」
「安心させるために、知らない世界の誰かを連れてくることはできない」
しばらく沈黙があった。
空から輪が消えても、辺境の魔物や人々の不安は消えない。
だからこそ、俺たちは勝利を宣言する前に、各地の見張りと連絡網が動いていることを確かめた。
やがて、村の鍛冶屋が手を挙げた。
「じゃあ、見張り台の修理を始めるか」
別の人が言った。
「夜の交代表も作ろう」
「薬箱を数え直す」
人々は少しずつ動き始めた。
俺はその声を聞きながら、右腕をさすった。
加護が消えた腕は重い。
だが、世界を守る力が全部消えたわけではない。
帰り道、リリスが俺へ水筒を渡した。
「何を考えていますか」
「俺がいなくても、みんな動いてるなって」
「寂しいですか」
「少し。でも、嬉しい」
彼女は笑った。
「それが、私たちの目指したことです」
俺は頷いた。
勇者を必要としない世界は、勇者を嫌う世界ではない。
誰かが助けを求めたとき、応えられる人が何人もいる世界だ。
その最初の日を、俺たちは確かに迎えた。
歓声が上がる。
俺たちは互いの顔を見た。
オルフェンは泣いていた。
スーシャも目元を押さえている。
ルカは自分の手を見つめた。
召喚紋は、もう光っていない。
「終わったの?」
「強制召喚は終わった」と俺。
「でも、帰りたい人を帰す仕事は残っている」
ルカは頷いた。
「それなら、手伝える」
俺は笑った。
世界から勇者が消えたわけではない。
谷を出る前、俺は守護者の残骸を見た。
最初は俺を攻撃した石の人形。
今は静かに膝をついている。
「壊さないのですか」とルカ。
「動かなくなったなら、急いで壊す必要はない」
オルフェンが頷いた。
「調べれば、ほかの危険な機構を見つけられるかもしれません」
俺たちは周囲を柵で囲み、調査員を配置した。
すべてを終わらせたつもりにならず、残った危険を確かめる。
それも、勝利のあとの仕事だった。
谷の出口で、リリスが空を見上げた。
青い輪のない空は、驚くほど普通だった。
勇者として生きた人々の記憶も、守ってきたものも残る。
ただ、誰かを勝手に勇者にする仕組みが、今日、終わったのだ。




