第五十五話 勇者と魔王の最後の契約
最後の契約書には、署名がなかった。
王国、魔王領、勇者。
三つの欄は空白のまま、古い文字だけが浮かんでいる。
『守護の必要が生じたとき、異界の者を招く』
「これが最初の契約か」と俺は尋ねた。
オルフェンが頷いた。
「最初は、助けを求めるための約束だったのでしょう。誰かを奴隷にするためではない」
スーシャが続けた。
「でも、戦争が長く続くうちに、同意を確かめる部分が省かれました」
「省いたのは誰だ」
「一人ではありません。歴代の王、神殿、軍、魔王領の支配者たち。便利な力を手放せなかった人々です」
俺は契約書を見た。
たった一人の悪人を倒せば終わる話ではなかった。
「なら、今度は一人で決めない」
俺は通信石を取り出した。
王都評議会、魔王領の代表会議、召喚者たちの集まり。
すでに集めていた同意の記録を、順番に読み上げてもらう。
王都の議長は言った。
『新たな強制召喚を認めない。
防衛は両国の責任で行う』
魔王領の代表は答えた。
『敵を作るための魔王の称号を廃止する。
共同監視を続ける』
召喚者たちの代表は言った。
『帰る者も残る者も、自分で選ぶ権利を守る』
三つの声が、谷に響いた。
門の文字が変わる。
『改訂案を受理。
強制召喚回路は稼働中』
俺は胸をなで下ろしかけた。
だが、オルフェンが首を振った。
「まだです。契約を更新するだけでは、次の王が元へ戻すかもしれません」
「どうすればいい」
「強制召喚の機能そのものを切り離します。ただし、帰還門は残す」
スーシャが図を描いた。
「新しい人を呼ぶ回路と、今いる人が帰る回路は別です。混ざっている部分を分ければいい」
「そのためには?」
「誰かが契約の中心へ入り、分岐を手動で切り替える必要があります」
ヴォルマが遠隔通信で質問してきた。
俺は一歩前へ出た。
リリスが腕を掴んだ。
『帰還門だけ残すと言うが、誰が管理する。
新しい王が独占したら、同じことになる』
オルフェンは答えた。
「王国と魔王領、召喚者の代表が鍵を分けて持ちます。単独では開けません」
『代表が全員同じ考えになったら?』
「記録を公開し、任期を決めます」とスーシャ。
『それでも悪用はできる』
「そうだ」と俺。
「完全に安全な仕組みはない。だから、悪用されたときに止められる手順も作る」
ヴォルマはしばらく黙った。
『ようやく政治の話になったな』
俺は苦笑した。
「剣の話より難しい」
『当たり前だ。
剣は折れば終わるが、制度は人が使い続ける』
その言葉を聞きながら、俺は契約書を見た。
最初に善意で作られた仕組みも、誰かが権限を独占すれば人を縛る道具になる。
だから新しい契約には、停止の条件と、記録の閲覧方法を書き加えた。
『新規召喚を再開する権限は、いかなる一人にも与えない』。
リリスが読み上げる。
「これで十分でしょうか」
「十分かどうかは、使い続けて確かめるしかない」
俺は答えた。
「でも、今までよりはましにできる」
そのとき、操作盤の奥に細い亀裂が走った。
オルフェンが顔を近づける。
「魔力の圧力が上がっています」
「急ぐか」
「急ぎます。ただし、確かめながら」
俺たちは互いの手順を復唱した。
一つの間違いで、帰りたい人の道まで閉ざしてしまうからだ。
「あなたが犠牲になる展開は、もう十分です」
「でも、誰かが」
「だから、誰か一人ではなく、皆でできる方法を探しましょう」
オルフェンが台座の下を調べた。
「ここに古い操作盤があります。三つの台座から同時に切り替えれば、中心へ入らずに済むかもしれません」
「かもしれない、か」
「試験が必要です」
俺たちは小さな魔石で模擬実験を行った。
最初は失敗した。
帰還の回路まで消えかけ、スーシャが慌てて止めた。
二度目は、魔力の流れが逆向きになった。
三度目でようやく、新規召喚の線だけを閉じることができた。
「できる!」
ルカが声を上げた。
「まだ本番じゃない」と俺。
王都から届いていた議事録には、賛成だけでなく反対の意見も載っていた。
『勇者召喚がなければ国境の防衛が不安だ』。
契約の解除を急ぐあまり、帰りたい人の門まで閉ざしてはならない。
俺たちは停止手順と帰還手順を別々に確認した。
『帰還門を残すと異界の侵入を招くのではないか』。
『召喚された者の家族への補償は誰がするのか』。
俺は読み上げながら、どれも無視できないと思った。
「全部、夜明けまでに答えを出す必要はない」とヴォルマ。
「だが、担当を決めなければ忘れられる」
彼は議事録に、決着後の担当を決めるための欄を増やした。
防衛はゾイド、帰還門の管理はオルフェンと召喚者代表、補償は王都と魔王領の共同委員会。
「書いておくだけで変わるのか」
俺が尋ねると、ヴォルマは苦笑した。
「書かなければ、もっと変わらない」
リリスが頷いた。
「期限も決めましょう。半年後に進捗を公開する」
「それで足りなかったら?」
「足りなかったと報告する」
彼女は真剣だった。
俺はふと、魔王を倒したあとの祝宴を思い出した。
あのとき王は、復興を約束した。
だが、約束を誰が確かめるかは決められていなかった。
今度は違う。
契約書には、約束を守れなかったときに問い直す方法まで書かれている。
俺は最後の頁へ署名した。
英雄の名としてではなく、当事者の一人として。
その瞬間、操作盤が静かに光った。
誰か一人の命令ではないことを、古い仕組みがようやく理解し始めたようだった。
「でも、方法は見えた」
リリスが俺を見た。
「剣を振らずに終わらせられるかもしれませんね」
「そうしたい」
契約書の写しは、危機が去ったあと三か所に保管することになった。
王都の公文書館、魔王領の評議会、そして召喚者たちが管理する小さな図書室。
「一か所が燃えても残るように」とヴォルマ。
「昔の記録も、そうしておけばよかったな」
俺が言うと、彼は頷いた。
「失敗したことを、次の仕組みに変えるしかない」
俺は写しの端へ、改訂案を作成した日付を書いた。
あの日、魔王を倒した翌日に指名手配された俺が、今は契約の公開に署名している。
ずいぶん遠くまで来たと思った。
三つの台座の前で、俺たちは最後にもう一度だけ、帰還希望者の名簿を確認した。
名前の読み違いが一つ見つかり、スーシャが訂正する。
「間に合ってよかった」彼女は言った。
俺は頷いた。
急いで終わらせることより、誰かの帰る道を間違えないことが大切だった。
俺たちは操作盤に手を置いた。
三つの台座の縁が光り、切り替えの準備が整った。
「まだ押すな。中継塔の反応を確かめる」
オルフェンの制止に、俺たちは手を止めた。
だが、その瞬間、谷の外で大きな鐘が鳴った。
王都からの緊急通信。
『召喚門が、再び開き始めています!』
オルフェンの顔色が変わった。
「残存する中継塔が、自動修復を始めたのです」
「なら、止める方法は?」と俺は尋ねた。
「谷の制御盤から、強制召喚へ送る魔力を一系統ずつ止めます。王都側で青い輪が弱まったことを確認してから次へ進む。帰還門の供給は別系統です。三つを一度に切れば、そちらまで不安定になります」
最後の契約を結び直す前に、最後の抵抗が始まった。




