第五十四話 魔王の娘は、父を超える
最後に残った記録の一つが、ゼルガディスだった。
門の表面に、彼の名が浮かぶ。
リリスは動かなかった。
「父の意思は、誰が確認するのですか」
オルフェンは帳面を閉じた。
「本人はもういません。記録と遺言を照合するしかないでしょう」
「私が娘だから、父の代わりに決められるわけではありません」
リリスの言葉に、俺は頷いた。
「そうだな」
彼女は父の手紙を広げた。
『次の子を、無理に呼ぶな』
そこには確かな願いがある。
だが、帰還したかったのか、この世界に残りたかったのかは書かれていない。
「分からない部分は、分からないまま残しましょう」
リリスはそう言った。
門が暗く揺れた。
『記録不完全。
契約継続』
「継続する必要はありません」とスーシャ。
「新しい召喚を拒む意思と、個人の帰還希望は別です」
オルフェンが台座の文字を読み直した。
「未確認の意思は保留し、拘束だけを解除する……その手順が残っています」
だが、門は動かなかった。
ゼルガディスの名から、黒い影が立ち上がる。
角のある巨大な姿。
リリスが息を呑んだ。
「父さん……?」
影は剣を抜いた。
『勇者を討て』
古い命令だけが繰り返される。
俺は聖剣へ手をかけた。
リリスが前へ出る。
「待ってください」
「危険だ」
「分かっています。でも、あれは父そのものではありません。父に押しつけられた命令です」
影が振り下ろした剣を、彼女の防壁が受け止めた。
亀裂が走る。
「リリス!」
「私は、父の復讐のためにあなたを殺したいと思いました」
彼女は影へ語りかけた。
「今も、父を失った悲しみは消えません」
影の剣が止まった。
「私が父の後継者にならなければ、魔王領は混乱するでしょうか」
グレンが答えた。
「姫様を慕う者は多い。だが、慕われることと、命令する権利は別です」
「あなたがそう言うとは思いませんでした」
「俺も、昔は魔王の命令なら何でも従うべきだと思っていました」
グレンは剣を鞘へ戻した。
「でも、子供を守るために命令を変えた姫様を見て、考えが変わりました」
リリスは目を伏せた。
「父が聞いたら、怒るでしょうか」
「さあ。俺には分かりません」
その正直な返事に、彼女は少し笑った。
俺たちはゼルガディスの記録を、保留の棚へ移した。
棚にはほかにも、帰還の意思が分からない勇者たちの名前が並んでいる。
「いつか新しい証拠が見つかったら、ここへ足せますか」
リリスが尋ねた。
「もちろんです」とオルフェン。
「記録を閉じる必要はありません」
彼女は父の名の横へ、手紙の写しを置いた。
『次の子を、無理に呼ぶな』。
それだけは、確かに彼の言葉だった。
「父さん。あなたの罪も、願いも、両方残します」
彼女は静かに言った。
谷の東の空はわずかに白み、岩壁の輪郭が見え始めていた。
夜明けまでの猶予はほとんどない。
各地で並行していた照合も、最後の確認に入っている。
青い輪はまだ閉じていない。
「残りは長くありません」
オルフェンの声に、俺たちは照合済みの頁をまとめた。
俺は彼女の隣へ立ち、何も言わずに待った。
父の死を受け入れる時間は、勝利の号令では短くできない。
それでもリリスは、自分の足で立ち上がった。
「でも、私の人生まで、その悲しみに決めさせたくありません」
リリスは手紙を掲げた。
「父さん。あなたが選べなかった道を、私は選びます」
彼女は魔王領の台座へ手を置いた。
「私は、次の魔王を生み出す命令を拒否します」
黒い影が揺らいだ。
『魔王の後継者を確認』
「後継者にはなりません」
リリスははっきりと言った。
「魔王領の人々を守る仕事は続けます。でも、誰かを敵にするための王にはなりません」
影の剣が地面へ落ちた。
黒い影が消えたあと、リリスはしばらく台座の前を離れなかった。
黒い光がほどけ、ゼルガディスの名だけが残る。
リリスは涙を拭わなかった。
「父さんを忘れません。でも、父さんと同じ戦争はしません」
俺は彼女の隣へ立った。
「俺も、君の父を殺したことを忘れない」
「忘れないでください」
魔王領の代表たちは、リリスの決断をすぐには受け入れなかった。
通信石の向こうから、厳しい声が飛ぶ。
『魔王の名を捨てれば、人間に弱く見られる!』
『姫様が王にならなければ、誰が軍をまとめるのですか』
リリスは一つずつ答えた。
「軍は評議会の監督を受けます。国境警備の責任者は、任期を決めて選びます」
『人間が攻めてきたら?』
「共同監視団が事実を確認し、避難を優先します。防衛の準備も続けます」
『それでも、魔王がいなければ』
「父がいたときも、戦争は終わりませんでした」
沈黙が落ちた。
リリスは続けた。
「父の強さを否定するつもりはありません。でも、父一人の強さに頼る国へ戻りたくないのです」
グレンが通信石の前へ進んだ。
「軍人として、その方針を支持する。兵士の仕事は民を守ることだ。誰かの復讐を続けることではない」
反対する者は残った。
それでも、翌月に代表会議を開くことだけは合意された。
今は門を閉じる作業が先だと、グレンが代表たちに伝えた。
通信を切ったあと、リリスは深く息を吐いた。
「怖かったです」
「俺も聞いていて怖かった」
「あなたも?」
「剣で戦うより、ずっと難しそうだった」
彼女は笑った。
「だからこそ、逃げずに話します」
俺は頷いた。
「それでも、これからのことを一緒に考えてほしいんです」
「もちろんだ」
門の光が弱まった。
ゼルガディスの契約は、保留の欄へ移された。
彼の名は消えなかった。
英雄でも、悪役でもない。
一人の人間だったことを示す記録として、残された。
リリスは長く息を吐いた。
「父を超えるというのは、父より強くなることではないんですね」
「何だと思う?」
「父が止められなかったことを、私が止めることです」
リリスは父の名の隣に、今日の決定を書き加えた。
『強制的な継承を拒否。
統治の責任は評議会へ移す』。
オルフェンが筆を止めた。
「これを残せば、後から異議を唱える者も出るでしょう」
「だから残すんです。私が間違えたなら、次の人が直せるように」
記録は一人の英雄を称えるためではなく、誰もが決定を確かめるためにある。
リリスはその紙を台座へ戻し、まだ不安定に震える門を見上げた。
俺はリリスに尋ねた。
「いつか、父さんの話をもっと聞かせてくれるか」
「楽しい話も、嫌な話もありますよ」
「両方聞きたい」
「では、すべて終わったら。父が鍋を焦がした話から始めましょう」
俺は驚いた。
「魔王が料理を?」
「三日間、誰にも言わなかったんです」
リリスは涙の残る顔で笑った。
俺も小さく笑い、すぐに門へ向き直った。
まだ終わっていない。
そのとき、門の中心から最後の契約書が現れた。




