第五十三話 勇者をやめた少年が世界を救う
ルカが谷へ着いたのは、夜明け前だった。
王都を出る前に同行を申し出た彼は、先行した俺たちとは別行動で、ゾイドが手配した護衛隊に守られて移動してきた。
馬車から降りた少年は息を切らしていた。
「王都で記録を守る約束だっただろう」
俺が言うと、ルカは頷いた。
「守ったよ。だから、持ってきた」
彼が差し出したのは、召喚者たちの意思を記した帳面だった。
王都にいる者たちが、一人ずつ自分の言葉を書いた記録。
帰りたい者、残りたい者、まだ決められない者。
「伝令だけでは間に合わないから、護衛の人たちと相談して来たんだ」
「誰かに命令されたのか」
「違う。僕が運ぶって決めた」
俺は彼の顔を見た。
恐れている。
手も震えている。
だが、誰かの期待に押しつぶされそうだった少年は、今、自分の判断を説明していた。
オルフェンが帳面を受け取る。
「これがあれば、今いる召喚者の意思を契約へ反映できます」
「じゃあ、僕にもできることがある?」
「ある。ただし、危険な台座に触れる必要はない」
ルカは少し驚いた顔をした。
「僕が勇者候補だから、必要なんじゃないの?」
「違う」と俺は答えた。
「君が皆の言葉を運んできたから必要なんだ」
そのとき、門の奥から声が響いた。
『新たな守護者を選定する』
光がルカの腕へ伸びる。
彼の召喚紋が強く輝いた。
『適格者を確認。
勇者の称号を授与する』
ルカは後ずさった。
「嫌だ……僕は、誰かを殺すための勇者になりたくない!」
俺は光の前へ立った。
「聞こえただろう。本人が拒んでいる」
『防衛上の必要を優先する』
「その『必要』を決めるのは誰だ!」
光は答えず、ルカの腕へ巻きつこうとした。
リリスが防壁を張る。
「ルカ、帳面の最後の頁を開いて!」
少年は震える手で紙をめくった。
そこには、自分の字で書かれた一文があった。
『僕は、勇者にならなくても人を助けたい』
「それを読んで」とスーシャ。
ルカが谷へ来る途中、護衛の兵士たちは何度も休憩を提案したという。
「急がないと間に合わないのに、僕が足を引っ張ると思った」
少年は恥ずかしそうに言った。
「休むのも大事だ」
「そう言われた。馬が疲れて倒れたら、もっと遅くなるって」
俺は頷いた。
「いい護衛だな」
「うん。僕が勇者候補だって知っても、普通に扱ってくれた」
ルカは鞄から乾いたパンを出した。
「途中の村でもらった。食べる?」
俺たちは分け合った。
昔の俺なら、世界の危機の前にパンを食べる時間など無駄だと思ったかもしれない。
でも、空腹のままでは誰も正しく考えられない。
台座がルカを選びかけたとき、俺はかつての自分を見た。
召喚された日、王に『選ばれた勇者だ』と言われ、誇らしかった。
だが、選んだのは俺ではなかった。
「ルカ。もし勇者になりたいと思う日が来ても、誰かに急がされるな」
「でも、困ってる人がいたら?」
「助ける方法は一つじゃない。医者を呼んでもいいし、道を教えてもいい」
ルカは考え込んだ。
「じゃあ、僕は人を探す仕事がいい」
「どうして」
「行方不明の人が見つかったら、家族が嬉しいから」
ユアンのことを思い出したのだろう。
少年の願いは、剣よりもずっと具体的だった。
そのあと、ルカは台座の文字を自分で書き写した。
『本人の意思によらない称号の付与を禁ずる』。
「学校でみんなに見せるんだ」
「難しい言葉だぞ」
「先生に説明してもらう」
彼は笑った。
俺はその紙を、世界を救った証拠として大切にしてほしいと思った。
ルカは顔を上げた。
「僕は、勇者にならなくても人を助けたい!」
門が震えた。
『契約の拒否を確認』
青い光がほどける。
ルカは膝をついた。
俺は彼を抱き起こした。
「よく言えたな」
「怖かった」
「そうだろうな」
「でも、言えた」
「ああ」
そのときオルフェンが声を上げた。
「見てください。勇者の台座に、新しい項目が現れています」
石に文字が浮かぶ。
『本人の意思によらない称号の付与を禁ずる』
俺は息を呑んだ。
ルカの召喚紋が消えたあと、彼は腕を何度もさすった。
「痛くない」
「よかったな」と俺。
「ずっと、光るたびに怖かったんだ」
少年はぽつりと言った。
「勇者にならなきゃ、みんなにがっかりされると思ってた」
「誰に言われた?」
「神殿の人も、村の人も。『選ばれたんだから』って」
俺は言葉を失った。
俺も同じ言葉を何度も聞いた。
選ばれたのだから、戦え。
選ばれたのだから、逃げるな。
ルカの腕から光が消えても、彼が誰かを助けたいと思う気持ちは消えなかった。
称号を取り上げたのではない。
自分で選ぶ権利を返したのだ。
選ばれたのだから、死ぬまで守れ。
「ルカ。君が勇者にならなくても、がっかりしない人はいる」
「本当に?」
「少なくとも、ここにいる全員はそうだ」
リリスが頷き、スーシャも笑った。
オルフェンは少年の帳面へ、新しい欄を書き足した。
『本人の希望する将来』。
「何を書こうか」とルカ。
「今は空白でもいい」
俺が言うと、彼は少し考えてから『人を探す仕事』と書いた。
字は曲がっていたが、迷いはなかった。
谷の出口で待機していたゾイドの兵士たちへ、ルカは頭を下げた。
「連れてきてくれてありがとう」
護衛の一人が笑った。
「門が閉じたら、学校まで送るぞ」
「うん。帰ったら宿題がある」
世界の危機がまだ去らない中でも、少年には宿題が残っている。
その当たり前のことが、俺にはとても嬉しかった。
ルカが自分の意思を伝えたことで、契約の古い規則が一つ戻ったのだ。
「世界を救ったのは、勇者の力じゃない」
リリスがルカへ言った。
「あなたが、自分で選んだことです」
ルカは照れくさそうに笑った。
「じゃあ、僕は何になれるの?」
「何にでもなれる」と俺。
「今すぐ決めなくていい」
少年は帳面を抱え直した。
「全部終わったら、まず学校に戻りたい」
俺たちは笑った。
ルカは帳面を胸に抱き、まだ光の残る門を見上げた。
護衛が帰りの馬車を整えていたが、少年は動かなかった。
「僕の返事だけで、もう誰も呼ばれなくなるの?」
「まだだ」と俺は答えた。
「君が拒めることは確かめられた。でも、ほかの人を勝手に呼ぶ仕組みが残っている」
「じゃあ、僕もここで待つ。誰かがまた無理に呼ばれたら、嫌だ」
「待つのはいい。ただし危なくなったら、護衛と一緒に退くんだ。君がもう一度犠牲になる必要はない」
ルカは小さく頷いた。
学校に戻ったら先生に自分の言葉で話すつもりだという。
友達と宿題をする約束も残っていた。
それは世界を救うために捨てていいものではない。
少年が当たり前の明日を持てるように、俺たちは門の前に立っている。
スーシャは記録簿の『勇者候補』を二重線で消し、『本人の意思により拒否』と書いた。
文字は光らなかった。
誰かの称号ではなく、本人の選択を残すための記録だった。
「この帳面、僕が運んだことも書いていい?」とルカ。
「もちろんだ。君が何をしたか、正しく残そう」
少年は少し照れたように笑った。
門はまだ閉じていない。
それでも、次の子供が無理やり勇者にされる道を一つ塞いだことは、確かだった。




