第五十二話 聖女スーシャの最後の祈り
門の前で、スーシャが倒れた。
「スーシャ!」
俺が駆け寄ると、彼女の聖印が青く光っていた。
「大丈夫です。少し、魔力を使いすぎただけです」
その声は弱々しかった。
神殿で教わった祈りは、勇者の魔力を補い、契約を支えるためのものだった。
彼女はずっと、その仕組みを疑いながら使っていた。
「神殿の祈りそのものが、召喚の継続を助けていたのです」
スーシャは苦しそうに笑った。
「知らずに人を傷つけるのが、一番怖かった」
「知らなかったことまで、君一人の罪にするな」
「でも、知った今なら選べます」
彼女は立ち上がり、聖印を外した。
「私は聖女として、最後の祈りを捧げます」
「最後?」
「神殿が定めた『勇者を戦わせるための祈り』は、今日で終わりにしたいのです」
オルフェンが碑文を調べた。
「祈りを止めれば、召喚紋を持つ人の痛みが一時的に増えるかもしれません」
「なら、先に受け皿を作りましょう」
スーシャは台座の周りに、治療用の魔石を並べた。
リリスが魔王領の薬師へ連絡を取り、ゾイドは王都にいる召喚者を安全な場所へ集めた。
俺は門の外で、魔力の流れを確認した。
「スーシャ、俺にできることは?」
「祈りを止めることを、怖がる人に説明してください」
俺は頷いた。
王都へつながる通信石から、不安そうな声が聞こえる。
『聖女様が祈りをやめるのですか? 神の加護がなくなったら、私たちはどうなるのですか』
俺は答えた。
「祈りをやめるんじゃない。人を無理やり戦わせる仕組みへ魔力を送るのをやめるんだ」
『それで守れるのですか』
「守るための仕事は続ける。薬も、見張りも、避難も。今夜、誰か一人に全部任せないために」
通信石の向こうで、しばらく沈黙が続いた。
やがて医師の声がした。
『治療所は準備できています』
次に魔族の薬師が応じた。
『こちらも受け入れます』
だが、スーシャが祈りを変える前、神殿から反対の声も届いていた。
『古い儀式を止める権限が、あなたにあるのですか』
スーシャは通信石を握った。
「私一人にはありません。だから記録を公開し、召喚された方々の意思を確かめています」
『伝統を壊すつもりか』
「守るべき伝統と、変えるべき命令を分けたいのです」
俺は横で聞いていた。
彼女は三年間、祈ることで俺たちを支えてくれた。
その祈りを否定されることが、どれほど苦しいか分かる気がした。
「スーシャ。君の祈りで救われたことは、俺は忘れない」
彼女は小さく頷いた。
「ありがとうございます。でも、私が救えなかった人のことも忘れたくありません」
谷の外には、神殿からの連絡を受けた医師たちが臨時の治療所を設けていた。
召喚紋を持つ者たちの痛みが強くなったとき、誰が何をするかを決めるためだ。
医師が脈を取り、魔族の薬師が魔力の流れを測る。
「症状が悪化したら、すぐ中止する」とスーシャ。
「中止しても、あなたを責めません」とリリス。
スーシャは目を丸くした。
「私は失敗するかもしれません」
「だからこそ、一緒に確かめます」
祈りが始まったあと、最初の一分間は何も起きなかった。
二分目に、魔石の一つが赤く光った。
「熱が上がっています!」
医師が叫ぶ。
スーシャは即座に手を止めた。
オルフェンが水路の栓を開き直す。
「これでどうですか」
「熱が下がりました」
彼女は深く息を吐き、もう一度だけ祈った。
奇跡のように一度で成功したのではない。
皆が止め、調べ、直したからこそ、本番へ進めるのだった。
スーシャは目を閉じた。
「今度こそ、始めます」
彼女は聖印を床に置き、祈りの言葉を変えた。
「勇者に戦う力を与えたまえ」ではなく、「ここにいる人々が、自分で選べる時間を守りたまえ」。
光の色が変わった。
青い鎖のような線がほどけ、台座の周囲へ流れ込む。
スーシャの肩が震えた。
俺は支えようとしたが、彼女が首を振る。
「これは私が選んだことです。でも、一人で背負うつもりはありません」
リリスが反対側へ立った。
「魔力の逃げ道は、こちらで支えます」
オルフェンが石の栓を開け、余剰の魔力を谷の水路へ流した。
門が静かになった。
祈りが終わったあと、スーシャは神殿へ短い手紙を書いた。
『今日から、召喚者の意思を確認せずに加護を与える儀式は行いません』。
スーシャの祈りが変わっても、救われなかった過去は消えない。
それでも、次の誰かを勝手に戦場へ送り出さないための祈りなら、俺は信じたいと思った。
その文を見て、若い神官が不安そうに言った。
「聖女様が神殿を離れたら、誰が皆を導くのですか」
スーシャは筆を置いた。
「私がいなくても、皆さんで決められるようにしたいのです」
「でも、間違えたら」
「間違えたことを隠さず、直せるようにしてください」
神官は何度も頷いた。
俺は彼に、戦場でスーシャに助けられた話をした。
魔王城へ向かう雪山で、仲間の足が凍えたとき、彼女は祈りを唱える前に薪を集めた。
「祈りだけでは暖まらないと知っていたんだ」
スーシャは少し赤くなった。
「当然のことをしただけです」
「その当然のことを続けるのが、難しいんだ」
夜、彼女は聖印を新しい紐に通した。
「捨てないのか」と俺。
「ええ。これを持っていた時間まで消したくはありません」
彼女は聖印を胸へ戻した。
「ただ、もう誰かを戦わせる命令のためには使いません」
谷の外で治療を受けた老人が、彼女へ小さな花を渡した。
「祈ってくれてありがとう」
スーシャは花を受け取った。
「こちらこそ、生きていてくださってありがとうございます」
俺はそのやり取りを見て、彼女の最後の祈りが終わりではなく、始まりだったことを知った。
王都から通信が届く。
『召喚紋の痛みが弱まりました!』
スーシャは深く息を吐いた。
「よかった……」
彼女は倒れなかった。
俺とリリスが両側から支えていたからだ。
「最後の祈りは終わったのか」と俺。
「古い祈りは終わりました」
スーシャは疲れた顔で笑った。
「これからは、誰かを救うための祈りを、自分の言葉で続けます」
王都の神殿には、祈りの変更を伝える書状が送られた。
そこには新しい一文が添えられていた。
『誰かを救うとき、まずその人の声を聞くこと』。
掲示されるのは、召喚の危機を越えたあとになる。
スーシャはまだ安堵していなかった。
「これから先、守れない日もあるでしょうね」
「そのときは、また問い直せばいい」と俺は答えた。
彼女は頷いた。
「ええ。私も、問い直される側でいたいです」
聖女という肩書より、その言葉のほうが彼女らしいと思った。
門の奥で、まだ名前の光が揺れていた。
俺たちは再び帳面を開いた。




