第五十一話 魔王になった勇者たちの記憶
谷に集まった記録係たちが手分けして名前を読み上げ、百三十七番目の記録に差しかかったとき、門の向こうから声がした。
『私の名前は、もう誰も覚えていないと思っていた』
オルフェンが帳面をめくる。
そこにあったのは勇者レイナという名だった。
召喚から七年後、魔王討伐に失敗し、行方不明。
王国の記録にはそれだけしか書かれていない。
「レイナ。あなたの意思を確認したい」
俺が問いかけると、門の表面に景色が映った。
雪の中を歩く少女。
剣を引きずり、背後には焼けた村がある。
少女は人間の兵士に助けを求めたが、彼らは槍を向けた。
『魔王を倒せなかった勇者に、帰る場所はない』
次の景色では、少女の頭に角が生えていた。
彼女は魔族の集落で傷を治療され、いつしか魔王と呼ばれていた。
「勇者が魔王になったという記録は、こういうことだったのか」
俺は唇を噛んだ。
オルフェンが首を振る。
「全員がそうではありません。追放された者も、自ら魔族側へ渡った者も、帰還した者もいます。ただ、王国は都合の悪い結末を一つの言葉で隠した」
『魔王』。
それは敵の名前であると同時に、捨てられた勇者をまとめて呼ぶための名前でもあった。
リリスはゼルガディスの記録を探した。
「父の名はどこですか」
オルフェンが指を止めた。
「ここです。ただし、帰還希望の欄がありません」
門に映ったのは若いゼルガディスだった。
まだ角はなく、剣を握る手も今の俺と変わらない。
彼は王宮で訴えていた。
『戦争を続けるために次の勇者を呼ぶな。
今いる人々を救え』
だが玉座の男は答えた。
『勇者は戦うために召喚された。
役目を拒むなら、魔王として討たれるだけだ』
映像はそこで途切れた。
リリスは膝をついた。
「父さんは、最初から魔王だったわけじゃない……」
俺は彼女の隣にしゃがんだ。
「だからといって、父さんが戦争で傷つけた人が消えるわけではありません」
記録の照合を続けるうちに、俺は一つの奇妙な空白を見つけた。
歴代勇者の死亡欄には、死因が書かれている者と、ただ『処理済み』と記された者がいる。
「処理済みって、どういう意味だ」
スーシャは答えられなかった。
オルフェンが苦しそうに言った。
「神殿では、契約から外れた者をそう呼んでいました。帰ったのか、死んだのか、誰も調べなかった」
俺は帳面を閉じた。
「これからは使わない言葉にしよう」
「記録そのものを消すのですか」
「違う。昔そう呼んでいた事実は残す。でも、新しい記録には人の名前と確かめたことを書く」
リリスは一枚の紙を持ってきた。
そこには、レイナが魔族の村で薬草を育てていた記録があった。
魔王と呼ばれた後も、彼女は病人のために畑を耕していたという。
「この人は、戦うことだけで生きていたわけじゃないんですね」
「ああ」
俺はその紙を名簿へ挟んだ。
レイナの人生を『魔王』の二文字に閉じ込めないために。
しばらくすると、門から別の声が聞こえた。
『私は、故郷の海が見たかった』
俺たちはその名を探した。
勇者ハル。
召喚されたのは十六歳。
故郷には妹がいたと書かれている。
「帰還希望」とオルフェン。
「本人の言葉を記録して」と俺。
スーシャは丁寧に書いた。
名簿の一行が、初めて一人の人生に見えた。
彼女は自分で言った。
「分かっています。それでも、父さんが何を恐れていたのか、少し分かりました」
門の光が激しく揺れた。
スーシャが叫ぶ。
「記憶を読み出すたびに契約が反応しています! 全部を一度に解放すれば、門が崩れます!」
「どうすればいい」
「意思が確認できた人から順に、契約の拘束だけを外します。帰還の希望が未確認の人は保留します」
俺は帳面を閉じた。
「記録がない人を、勝手に帰したことにも、死んだことにもしない」
オルフェンは頷いた。
「それが、最初の契約に書かれていた手順です」
俺たちは名前を呼び続けた。
歴代勇者の名前を読む仕事は、いつしか四人の手だけでは足りなくなった。
王都から届いた書記たちが、写しを作る。
魔王領から来た老人は、昔の魔王の名前を見て涙を流した。
「この人は、うちの村で井戸を掘ってくれた」
「魔王だったのに?」
若い書記が思わず尋ねる。
老人は首を振った。
「魔王だったから、井戸を掘ったわけじゃない。水がなかったから掘ったんだ」
書記は恥ずかしそうに筆を持ち直した。
俺はその会話を聞き、最初にゼルガディスを斬ったときのことを思い出した。
彼が誰を守ろうとしていたのか、俺は聞かなかった。
記録に残った肩書より、その人が何を望んでいたかを知りたい。
俺は勇者だったころ、そんな当たり前の問いを一度も自分に向けなかった。
魔王だから倒す。
それが正しいと思っていた。
「ユリウス」
リリスが声をかけた。
「また、自分を責めていますか」
「少しな」
「あなたが父を倒さなければ、戦争が終わらなかった可能性もあります」
「だからって、正しかったと簡単には言えない」
「ええ。私も、簡単には言いません」
彼女は帳面を開いた。
「でも、今は次の人を同じ目に遭わせないことを考えましょう」
俺は頷いた。
一人の過去を変えることはできない。
けれど、次の名前が『処理済み』と書かれる未来は、まだ変えられる。
俺たちは残りの頁を読み始めた。
谷へ向かう前から各地で進めていた調査の一つが、ようやく届いた。
レイナの村に住んでいたという老女の証言だ。
村の記録係が夜のうちに聞き取り、王都で照合を済ませていた。
『彼女が育てた薬草は、今も村で使っています』。
俺はその一文を名簿に加えた。
戦った日だけが、勇者の人生ではなかった。
レイナの名が光る。
『私はもう戻れない。
でも、次の子を連れてこないで』
「分かった」
光は門から離れ、空へ消えた。
リリスはその光を見送った。
「父の声も、聞けるでしょうか」
「分からない。でも、記録が残っているなら探そう」
俺は答えた。
記録の確認がひと区切りついたところで、オルフェンは一冊の空白の帳面を机へ置いた。
「これは何だ」
「これから見つかる人のための名簿です」
彼は静かに答えた。
「記録がないから存在しなかった、とはもう言いたくありません」
俺は表紙に題名を書いた。
『まだ名前の分からない人々』。
リリスがその下へ、小さく一文を添えた。
『見つけたら、ここへ記すこと』。
俺たちは帳面を閉じずに置いた。
過去を全部知ることはできない。
でも、知らないことを隠さない選択はできる。
門の向こうから吹いた風が、白い頁を一枚めくった。
夜明けが近い。
「残りの頁は別の担当が照合しています」
オルフェンが通信石を掲げた。
「ここにいる全員が同じ名前を読み続ける必要はありません。未確認の記録だけをこちらへ回してもらいます」
だが、焦って名前を飛ばすことだけはしない。
剣で魔王を倒した日には分からなかった。
戦いのあとに残る名前を、一つずつ取り戻すことが、こんなにも難しいとは。




