第四十九話 最後の勇者召喚が始まった
王都へ戻ったとき、空には青い輪が浮かんでいた。
神殿の尖塔を中心に、光がゆっくり回っている。
街の人々は広場へ集まり、祈る者も逃げる者もいた。
「門が開きかけています!」
スーシャが叫んだ。
俺たちは神殿へ急いだ。
内部では、召喚紋を持つ人々が床に座り込んでいた。
手の甲が光り、痛みに耐えている。
ルカもいた。
「どうしてここに!」
俺が駆け寄ると、彼は歯を食いしばって答えた。
「僕だけじゃない。みんなが痛いって聞いて……手伝いたかった」
「無理をするな」
「無理してない。自分で来たんだ」
俺は彼の目を見た。
怖がっている。
それでも、誰かに命じられたからではなく、自分でここへ来たのだ。
「分かった。だが、危なくなったら下がってくれ」
「うん」
セヴランが祭壇の前で古い書物を開いていた。
「召喚術を止める手順は分かった。しかし、古塔の中継点が命令を送り続けている」
「古塔を壊せば?」
「契約の魔力が王都へ集中します。門が一気に開くでしょう」
ヴォルマが地図を広げた。
「なら、中継点の魔力を一度谷へ戻し、そこで契約の更新を止めるしかありません」
「時間は?」
「遅くとも夜明けまでです。青い輪が閉じた時点で召喚が成立します。中継塔の動き次第で早まるため、谷で輪の状態を確かめながら進めてください」
俺は時計を見た。
鐘楼の記録では、夜明けまでおよそ六時間。
だが門の進み方によって、猶予は短くなる。
スーシャは召喚紋を持つ人々へ向き直った。
「皆さんに選んでほしいことがあります。召喚を続けたいか、止めたいか。帰還の可能性を残したいか」
一人の女性が手を挙げた。
「帰りたい。でも、今ここにいる家族も置いていけない」
「選ぶのは今夜でなくていい」と俺。
「新しい人を勝手に呼ばないことと、今いる人が帰るか残るかを決めることは、別の話だ」
オルフェンが頷いた。
「同意の記録を残します。名前を伏せたい人は伏せても構いません」
人々は順番に意思を伝えた。
『新しい召喚を望まない』。
『帰還門は残してほしい』。
『ここに残りたい』。
意見は一つではなかった。
それでよかった。
全員が同じ答えを出す必要はない。
同じ時刻、古塔ではグレンとゾイドが中継装置の周囲を守っていた。
暴走する魔力に引き寄せられ、石の守護像が動き出している。
「壊すな! 塔ごと崩れる!」
ゾイドが叫ぶ。
グレンは守護像の足元を払い、通路を塞いだ。
「壊さず止めるのは苦手なんだがな!」
「今日だけは覚えろ!」
二人は息を合わせて守護像を押し戻した。
王都では、ルカの紋様が急に強く光った。
「痛い……!」
スーシャが彼の手を支えた。
祭壇の上に、人影が浮かぶ。
小さな子供だった。
声が聞こえる。
『帰りたい』。
俺は祭壇へ近づいた。
「聞こえるか。君はここへ来なくていい。誰も君に命令しない」
人影が揺れた。
セヴランが書物を読み上げる。
「召喚の同意を確認する手順を復元します!」
スーシャが祈りの印を描き、ルカが自分の意思で紋様へ手を重ねた。
「僕は、誰かを無理やり連れてこないでほしい!」
青い輪が一瞬、止まった。
だが次の瞬間、空に亀裂のような光が走った。
「谷の本体が反応した!」
オルフェンが叫ぶ。
「ここで止めるだけでは足りません。契約の本体へ、意思の記録を届ける必要があります!」
俺はリリスを見た。
「谷へ戻ろう」
「はい」
神殿を離れる前、セヴランは俺たちに頭を下げた。
「私は長い間、守るべきものを取り違えていたのかもしれません」
「まだ終わっていない」と俺。
「分かっています。だから神殿に残り、倒れた人々の治療と記録を引き受けます」
スーシャは彼を見た。
「神殿が再び命令だけを優先するなら、私は止めます」
「そうしてください」
セヴランは静かに答えた。
「誰かが止められる仕組みが必要だったのでしょう」
空に浮かぶ輪は、夜が深まるほど明るくなった。
俺たちに残された時間は、誰かが決めた期限ではない。
目の前で減っていく魔力の量が示していた。
外では、王都の人々が空の青い輪を見上げていた。
俺は一人の少年が母親の手を握っているのを見た。
あの子が明日もここで目を覚ませるように、俺たちは谷へ向かう。
神殿の広場では、召喚紋を持つ人々のために臨時の休憩所が作られた。
王都の医師と魔王領の薬師が、同じ机で薬を分けている。
「この薬は魔族にしか効かないのでは?」
若い神官が尋ねた。
「症状が同じなら、まず成分を確かめよう」と薬師。
医師は頷いた。
「分からないことは、分からないと記録する」
スーシャはその様子を見て、少し安心した顔をした。
「私たちが谷へ行っても、ここは大丈夫そうですね」
「皆が仕事を覚えている」と俺。
「以前なら、勇者に全部任せていたかもしれません」
俺は笑った。
「俺には薬の調合なんてできないからな」
外では、鐘番が手で鐘を鳴らしていた。
青い輪の下でも、人々は夕食を作り、怪我人を運び、子供を寝かせている。
今夜必要なのは、称号ではなく、確かな手順だった。
神殿を出るとき、ルカが俺の前に立った。
「僕も谷へ行きたい」
「危険だ」
「分かってる。でも、僕の紋様が鍵なら……」
俺はしゃがんで彼と目を合わせた。
「君の力が必要になるかもしれない。でも、必要だから連れていく、とは言いたくない」
ルカは唇を噛んだ。
「僕が行くって決めたら?」
「そのときは、安全に行ける方法を考える。でも今夜は、王都に残って記録を守ってほしい」
「それも大事な仕事?」
「ああ。君が教えてくれたことを、ほかの人に伝えてくれ」
ルカはしばらく考え、頷いた。
「分かった。僕はここで手伝う」
俺は彼の肩に手を置いた。
「ありがとう」
彼は少しだけ誇らしそうに笑った。
王都の門前では、元反乱軍の兵士たちが避難の誘導を引き受けていた。
歩けない人を荷車へ乗せ、御者は車輪を確かめる。
誰も勇者の命令を待ってはいない。
「出発しよう」とリリスが言った。
俺は頷いた。
今夜守るべきものは、新たな勇者の称号ではなく、この街の人々が自分たちで迎える明日の朝だ。
俺たちは記録を抱え、谷へ続く夜道を走り出した。
王都の灯りが遠ざかる。
俺は背後を振り返らなかった。
残った人たちが自分の仕事を続けていると知っていたからだ。
今度は、俺たちが約束を守る番だった。
空の青い輪は、閉じるどころか、夜空を押し広げるように大きくなっていた。
馬の蹄が石畳を打つ音が遠ざかる。
夜明けまでの残り時間を、俺は声に出さず数えた。




