第四十八話 魔王の娘が、父の遺言を読んだ
誓約の谷には、風の音がなかった。
両側の岩壁が高すぎるのか、草一本揺れていない。
谷の奥には石の門があり、その前に三つの台座が並んでいた。
王国、魔王領、そして勇者。
それぞれの紋章が刻まれている。
「三つの力を合わせる仕組みか」と俺。
オルフェンが首を振った。
「力ではありません。契約の当事者を示しているのでしょう」
スーシャは石の文字を読み上げた。
『守護の願いを受け、異界の者を招く。
ただし、招かれた者の意思を確認せよ』。
俺たちは顔を見合わせた。
「意思を確認せよ、だと?」
「現在の召喚術には、その部分がありません」とスーシャ。
リリスが父の手紙を取り出した。
墓地で読んだ手紙の裏に、薄い文字が浮かんでいる。
谷の門へ近づいたことで、隠されていた魔力が反応したのだ。
彼女は息を整え、読み始めた。
『リリス。
もし誓約の谷へ来たなら、私の最後の失敗を知ってほしい』。
「最後の失敗?」
『私は門を壊そうとした。
力で壊せば、召喚は終わると思った。
だが門は、壊された分の魔力を、召喚された者から奪って修復した』。
オルフェンが顔を上げた。
「だから歴代勇者の魔力が吸われていたのか」
『私は、壊すことしか考えなかった。
招かれた者が自分で拒む仕組みを、探すべきだった』。
リリスは一度、言葉を止めた。
『私が勇者だったころ、帰りたいと言った友を止められなかった。
彼は契約を拒んだために苦しみ、やがて命を落とした。
私はそれを忘れられず、王国へ剣を向けた』。
俺は手紙の端を見つめた。
ゼルガディスが戦争を始めた理由が一つ、明らかになった。
だが、それで戦争の犠牲が正当化されるわけではない。
『お前には、私と違う道を選んでほしい。
憎しみを捨てろとは言わない。
憎しみだけを道しるべにするな』。
リリスの目から涙が落ちた。
「父さんは、分かっていたんですね。自分が間違えたことを」
俺は何も言わなかった。
「でも、分かっていても止まれなかった」
彼女は手紙を畳んだ。
「私は、止まりたいです」
その言葉を聞いて、俺は頷いた。
「俺もだ」
門の前で、三つの台座が淡く光った。
オルフェンが調べる。
「一つは召喚を願う者、一つは招かれる者、一つは帰還を保証する者。もともとは、三者の同意が必要だったようです」
「なのに、王国は一つの台座だけで動かしていた?」
「残りを恐怖収集炉の魔力で代用していたのでしょう」
スーシャが頷いた。
「炉を止めたことで、古い契約が本来の形に戻ろうとしているのかもしれません」
そのとき、谷の入口から伝令が駆け込んできた。
「古塔の中継点が暴走しています! 王都の召喚紋を持つ人々が倒れ始めました!」
俺は門を見た。
「ここで止める方法は?」
オルフェンは碑文を読み直した。
「新しい召喚を拒むためには、招かれた者が自分の意思を示す必要があります」
「俺がやる」
「あなた一人では、歴代の契約すべてを代表できません」
リリスが俺の腕を掴んだ。
「だから、みんなの意思を集めましょう」
俺たちは谷を出る準備をした。
父の手紙を抱えたリリスは、最後に石の門を振り返った。
門の周囲を調べると、台座の下に古い排水路があった。
「魔力の逃げ道か」とヴォルマ。
「そうです」とオルフェン。
「門を止めるとき、余った魔力をここへ流す設計でしょう。恐怖収集炉では、その流れが逆向きにされていました」
スーシャは紋様を写した。
「本来の設計を戻せば、誰かの体から魔力を奪わずに済むかもしれません」
俺は頷いた。
「なら、最初に排水路を確かめよう」
リリスが足元の石を動かすと、乾いた水路の奥に、青い光が一筋走った。
「まだ生きています」
「生きているなら、直せるかもしれない」
俺たちは門を壊す代わりに、壊れた手順を一つずつ調べ始めた。
石の門の前で、スーシャは小さな魔石を取り出した。
「これを使って、三つの台座の反応を別々に測ります」
手紙に残された父の言葉を、リリスは二度読んだ。
一度目は娘として。
二度目は、これからの国を担う一人として。
一つ目は王国の紋章。
魔石は弱く光った。
二つ目は魔王領。
少し強く光る。
三つ目は勇者。
魔石が熱を帯び、彼女は慌てて手を離した。
「勇者の台座だけ、まだ大量の魔力が流れています」
「誰から?」
「召喚紋を持つ人々からでしょう」
俺は自分の手を見た。
「俺もその一人か」
「はい。でも、無理に止めれば逆流します」
オルフェンは碑文を読み直した。
「排水路を開き、流れを弱めてから、契約の意思確認を行う。順番が必要です」
リリスが頷いた。
「父は、順番を飛ばして門を壊そうとしたんですね」
「そうかもしれない」と俺。
「でも、俺たちは同じことをしなくていい」
彼女は台座から手を離した。
「なら、まず仕組みを知りましょう」
俺たちは岩壁に刻まれた古い水路をたどった。
その奥で、かすかな水音がした。
長い間止まっていた仕組みが、まだ完全には死んでいないことを示していた。
谷の入口で、俺はゼルガディスとの最後の戦いを思い出した。
あのとき、彼は俺に結晶を託した。
「王宮の地下を調べろ」
その意味を、俺はようやく少し理解し始めている。
リリスが隣へ来た。
「父は、あなたに何を期待したのでしょう」
「分からない。俺が自分と同じように怒って、王国を滅ぼすと思ったかもしれない」
「それは違う気がします」
「なぜ?」
「父は、私に憎しみだけで決めるなと書いていました。あなたにも、別の道を探してほしかったのかもしれません」
俺は結晶の欠片を見た。
死者の願いを、都合よく解釈することはできない。
だが、今の俺たちが選ぶ道は、俺たち自身のものだ。
「確かめよう。あの門の向こうに、何が残っているのか」
リリスは頷いた。
オルフェンは碑文の下に刻まれた小さな数字を見つけた。
「これは手順の番号です。最初に魔力を逃がし、次に意思を確認し、最後に門を閉じる」スーシャが図を描く。
「順番を誤れば、召喚された者の魔力を使って門が修復されるんですね」リリスは父の手紙を握り直した。
「同じ失敗はしません」俺たちは手順を写し、王都へ送る伝令に渡した。
石の門を背にすると、谷の静けさがいっそう深く感じられた。
壊すことを急がず、仕組みを確かめる。
父の失敗を知ったリリスは、もう迷わず前を向いていた。
「今度は、壊すだけで終わらせません」
門の奥で、誰かが長い眠りから目覚めるように、低い音が響いた。




