第四十三話 勇者召喚は、まだ終わっていなかった
誓約の谷へ向かう準備をしていた朝、王都の鐘が鳴った。
非常召集の鐘だった。
俺たちは共同庁舎へ急いだ。
廊下では役人たちが走り回り、スーシャが神殿から届いた報告を読んでいた。
「召喚紋が、三か所で同時に光りました」
「誰かが召喚されたのか」
「いいえ。まだ門は開いていません。ただ、準備段階の魔力が流れています」
恐怖収集炉は止めた。
王宮地下の装置も封印した。
それなのに、別の場所で召喚が始まろうとしている。
ヴォルマは地図に三つの印をつけた。
王都の神殿、北の古塔、そして誓約の谷。
「三か所を結ぶと、ちょうど三角形になります」
「中心は?」
「ありません。魔力が循環しているようです」
オルフェンが資料を広げた。
「契約本体は谷にあります。王都と古塔は、その契約を読み取るための中継点でしょう」
「止められるか」
「一か所を壊せば、残りへ負荷が集中します。最悪の場合、誰かが無理やり召喚される」
俺は拳を握った。
装置を壊せば終わるという単純な話ではなかった。
リリスが尋ねた。
「召喚される側に、拒否する方法はないのですか」
オルフェンは首を振った。
「現在の契約には、召喚される者の同意を確認する手順がありません」
「それが一番おかしい」
俺は思わず言った。
この世界へ呼ばれたとき、俺も選択肢を与えられなかった。
魔王を倒せと言われ、断ることができるなど考えもしなかった。
「新しい勇者を呼ばせない。それを最優先にする」
スーシャは頷いた。
「ただし、既にこの世界にいる人の帰還の可能性は残します」
「両方できるのか」
「調べるしかありません」
その日の午後、神殿の中庭で召喚紋が再び光った。
石畳の上に、人影のようなものが揺れる。
俺は剣を抜きかけ、止めた。
敵ではない。
向こう側に、誰かがいるのかもしれない。
「聞こえるか!」
俺は紋様へ叫んだ。
返事はなかった。
だが、かすかな声がした。
『……いやだ』。
子供の声だった。
スーシャがすぐに祈りの印を描き、紋様の周囲を封じた。
「門を開かないで。今なら引き戻せます」
リリスが魔力の流れを抑える。
俺は剣を地面へ突き立て、神殿の石畳に刻まれた古い導線を断った。
光が揺れ、消えた。
「向こうの子は?」
「分かりません。でも、こちらへ引き込まれた反応はありません」
スーシャは額の汗を拭った。
「危なかった」
俺は剣を収めた。
目の前で人を救えたと断言できないことが、これほど怖いとは思わなかった。
夜、神殿の上層部から通達が来た。
『勇者召喚は国防上必要な制度であり、無断停止を認めない』。
署名したのは、神殿の最高監督官セヴラン。
オルフェンが顔を曇らせた。
「彼は契約の存在を知っています」
「なら、話をする」
「話して分かる相手でしょうか」
「分からない。でも、最初から敵だと決めたら、また同じことになる」
翌朝、俺たちはセヴランとの公開協議を申し入れた。
返事は一行だけだった。
『勇者ユリウスの立ち入りを禁ずる』。
俺は紙を折りたたんだ。
「立ち入りを禁じられても、質問までは禁じられていないだろう」
ヴォルマが苦笑した。
「では、質問状を百枚用意しましょう」
広場で光が消えたあと、一人の神官が俺に駆け寄ってきた。
「あなたが導線を切ったせいで、神殿の鐘が止まりました!」
「鐘が止まると何が起きる」
「祈りの時間が分からなくなります」
「なら、手で鳴らせばいい」
神官は怒りかけ、すぐに口を閉じた。
「そうか……手で鳴らせばいいのか」
俺は少し驚いた。
長い間、鐘も灯りも召喚装置の魔力に頼っていたらしい。
「止めると困るものがあるなら、代わりを作ろう」とヴォルマ。
「鐘番の仕事が増えますね」とスーシャ。
「仕事なら、探している人がいる」と俺。
戦争で職を失った兵士たちを思い出した。
装置を止めることは、便利な仕組みを手放すことでもある。
だから、止めたあとの暮らしを考えなければならない。
その日の夕方、神殿の鐘は人の手で鳴った。
少し不揃いだったが、街の人々はいつも通り夕食の準備を始めた。
神殿の中庭で声を聞いた夜、俺は眠れなかった。
あの子は、向こう側で無事なのだろうか。
「まだ起きていたんですか」
スーシャが廊下に立っていた。
「お前もだろ」
「神殿の記録を調べていました。召喚門が開く前に、こちらから拒否の合図を送れるかもしれません」
「どうやって」
彼女は古い図を見せた。
「召喚紋は一方通行ではありません。本来は、招かれる側の意思を確かめるための道があったようです」
「なのに、その道を塞いだのか」
「塞いだのか、忘れたのか。まだ分かりません」
俺は図を見た。
召喚が続いているなら、いまもどこかで帰り道を奪われる者がいる。
俺は過去を裁く前に、次の一人を守る手順を確かめた。
一つの線が途中で途切れている。
切られた跡は新しくない。
「直せるか」
「本体を見なければ判断できません」
スーシャは少し迷ってから続けた。
「私は神殿で育ち、召喚された勇者を祝福するよう教わりました。でも、その人が来たかったかどうか、一度も聞かなかった」
「俺も聞かれなかった」
「ごめんなさい」
「お前が呼んだわけじゃない」
「それでも、仕組みを疑わなかったことは事実です」
俺は首を振った。
「今、疑っている。それが大事だ」
彼女は小さく頷いた。
翌朝、神殿の広場には、召喚紋を持つ人たちが集まっていた。
痛みを訴える者、何も感じない者、ただ不安で来た者。
スーシャは全員の症状を別々に記録した。
「同じ紋様でも、反応が違います」
「じゃあ、全員に同じ方法は使えないな」
俺は言った。
一つの剣で全部を解決する戦いではない。
その事実を、少しずつ受け入れ始めていた。
翌朝、神殿の前で一人の父親に呼び止められた。
「昨日、空に子供の影が見えたそうだな」
「見えた」
「俺の娘かもしれない。三年前、突然いなくなったんだ」
俺は息を呑んだ。
「名前は?」
「ミラ。十二歳だ」
彼は古い似顔絵を差し出した。
俺は受け取ったが、あの影と同じ子かどうかは分からなかった。
「確かめる方法を探す。でも、今は分からない」
父親は目を伏せた。
「そうか。嘘でも、見つかったと言ってほしかった」
俺は返す言葉を失った。
彼は似顔絵を取り戻し、ゆっくり歩き出した。
スーシャが隣に立った。
「期待させることと、希望を守ることは違います」
「分かってる。でも、つらいな」
「ええ」
俺たちは父親の名前と連絡先を記録した。
召喚された人の名簿と照らし合わせるために。
すぐに救えない人がいることを、忘れないために。
神殿の鐘が鳴る。
誰かの命令ではなく、鐘番が時間を見て鳴らした音だ。
俺はその不揃いな響きを聞きながら、次の召喚が起きない朝を思い描いた。
その夜、誓約の谷の方角で、空が一瞬だけ青く光った。
召喚契約は、俺たちの返事を待ってくれないらしかった。




