第四十二話 魔王にならなかった勇者
オルフェンは、自分の名が刻まれていた場所へ俺たちを案内した。
『勇者オルフェン。
召喚後、任務放棄』。
「任務放棄?」
グレンが眉をひそめる。
「魔王を倒す命令を拒んだのです」
オルフェンは淡々と答えた。
「三十七年前、私はこの世界へ呼ばれました。故郷では書物の修復をしていました。剣を持ったこともない私に、王は魔王討伐を命じたのです」
「断れたのか」と俺。
「断りました。すると神殿は、私を勇者ではないと宣言した」
彼は自分の右手を見せた。
「称号を取り消しても、召喚紋は消えませんでした。帰る方法も教えられなかった。私は王宮の地下で、記録の整理をすることになりました」
「なぜ今まで黙っていたんですか」
スーシャの声は厳しかった。
オルフェンは答えるまでに時間をかけた。
「怖かったからです。名簿を消す命令を拒めば、次に呼ばれた子供たちがどうなるか分からなかった」
「子供たち?」
「私のあとに召喚された者の中には、十歳にも満たない者がいました」
俺はルカの顔を思い出した。
十二歳の少年が、王国から勇者として命令を受けた。
俺たちは彼を戦場から遠ざけたが、同じような子供が以前にもいたのだ。
「あなたは何をした」
「名前を記録しました。死んだ者も、逃げた者も、帰還を望んだ者も。王宮の公式史から消された人々です」
オルフェンは棚の裏から薄い帳面を取り出した。
頁には名前だけでなく、短い願いが添えられていた。
『家族に会いたい』。
『弟の誕生日までに帰りたい』。
『剣を持ちたくない』。
リリスが頁をめくる手を止めた。
「父の記録はありますか」
オルフェンは一枚の紙を差し出した。
『ゼルガディス。
帰還手続きの前に召喚契約の停止を要求。
却下』。
その下に、『王国から離脱』とある。
「父は、魔王になるために逃げたのではなかった」
リリスの声が震えた。
「そう記録されています。ただし、その後に起きた戦争の責任まで消えるわけではありません」
オルフェンは彼女を正面から見た。
「彼は契約を止めようとした。しかし、彼の軍もまた人を殺した。それは両方とも事実です」
リリスは紙を胸に抱かなかった。
机の上へ置き、何度も読み直した。
「写しを取らせてください。父を知らない人にも見せたい。でも、都合の悪い記録も一緒に」
「もちろんです」
そのとき、棚の奥から別の帳面が出てきた。
表紙には『帰還者』と書かれている。
俺は思わず身を乗り出した。
「帰れた勇者がいるのか」
「数人だけです。ですが、帰還の記録は途中で途切れています」
「どうして?」
オルフェンは頁の端を指した。
「帰還門を開くには、召喚契約の本体に触れなければならない。王国はその場所を秘匿していました」
「どこにある」
「古い地図では、王国の成立以前に造られた『誓約の谷』と呼ばれる場所です」
ヴォルマが地図を広げた。
国境から北へ二日の距離に、誰も住まない谷がある。
地図上にはただの岩山として記されていた。
「そこへ行けば帰れるのか」と俺。
「分かりません。契約は傷んでいます。帰還門が今も動く保証はない」
俺は帳面を閉じた。
帰ることを望む勇者がいるなら、その道を調べるべきだ。
だが、勝手に誰かを送り返すこともできない。
「まず本人に聞こう。誰が帰りたいのか」
スーシャが頷いた。
「ルカにも、ですね」
地下室を出る前、オルフェンは俺を呼び止めた。
「ユリウス。勇者でなくなることが、あなたには怖くありませんか」
俺は少し考えた。
「怖いのは、勇者でなくなったあとに何もできないことだ。でも、橋を作る人たちを見た。俺一人がいなくても、できることはある」
地下室の隅には、古い椅子が一脚残されていた。
オルフェンはそこへ腰を下ろした。
「最初のころは、毎日帰還門の夢を見ました。故郷の家族が待っていると信じていたからです」
「今も帰りたいか」と俺。
「分かりません。向こうで何年過ぎたかも知らない。こちらで友人ができ、仕事もできました」
「それでも選ぶ権利はある」
彼は俺を見た。
「そう言われたのは、初めてです」
スーシャが帳面を閉じた。
「帰る人、残る人、迷っている人。分けて記録しましょう。答えを急がせる必要はありません」
リリスは机に置かれたゼルガディスの紙を見た。
「父が帰りたかったのかどうか、もう聞けません」
「だからこそ、今いる人には聞こう」と俺。
俺たちは地下室を出る前に、帰還を望む者の相談窓口を作ることに決めた。
小さな机と一人の書記から始める。
それでも、今までなかった場所だった。
帰還者の帳面には、故郷の地名が記されていた。
俺の知らない言葉ばかりだったが、その中に一つ、聞き覚えのある響きがあった。
「この国の名前……俺の故郷に似ている」
オルフェンが頁を覗いた。
「召喚先は一つの世界とは限りません。同じ世界でも、違う時代につながることがある」
「なら帰れたとしても、元の時間とは限らないのか」
「そうです。だから、帰還門を開く前に確かめなければならない」
俺は指先で文字をなぞった。
魔王にならなかった勇者の存在は、契約の仕組みに例外があったことを示す。
だが一人の例外で、すべてを理解した気になるのは危険だ。
俺たちは記録をもう一度照合した。
帰りたいという願いに、簡単な答えはない。
リリスが隣へ来た。
「あなたは、帰りたいですか」
「分からない。帰りたかった時期はあった。でも今は、こちらにも守りたい人がいる」
「私のことも?」
俺は彼女を見た。
「君も、グレンも、スーシャも。橋を作った村の人たちも」
リリスは少し目を伏せた。
「父を殺した人に、そう言われるのは複雑です」
「分かってる」
「でも、聞いてよかった」
彼女は帳面を閉じた。
その日の午後、俺たちは帰還希望者の相談を始めた。
最初に来たのは、異世界から呼ばれて十年になる女性だった。
こちらで家族を持ち、子供もいる。
「帰りたい気持ちはある。でも、子供を置いてはいけない」
「今決める必要はありません」とスーシャ。
「帰還できるか調べてから、家族と相談してください」
女性は何度も頷いた。
次に来た老人は、もう帰る気はないと言った。
「こっちの畑が好きになった。だけど、次の若者を勝手に連れてくるのはやめてくれ」
俺はその言葉を記録した。
帰還の希望は一つではない。
だからこそ、誰か一人が決めてはいけないのだ。
夕方、オルフェンが俺に小さな封筒を渡した。
「これは私が召喚された日に書いた手紙です。出す相手がいなくて、ずっと持っていました」
中には短い文があった。
『母さん。
僕はまだ生きています。
帰る方法を探しています』。
俺は読み終えて封筒を返した。
「今も出したいか」
「分かりません。母はもう生きていないかもしれない」
「それでも、届ける方法が見つかったら選べる」
オルフェンは封筒を大事そうにしまった。
「選べる、という言葉は不思議ですね。ずっと昔に失くしたものを、急に返された気がする」
スーシャが帰還者の帳面に新しい欄を加えた。
『意思確認日』。
そこにはまだ空白が多い。
だが、空白を勝手に埋めないことが、俺たちの最初の約束になった。
帰り道、俺は空を見上げた。
遠い故郷の空と同じ星があるかは分からない。
だが、帰りたい人に「帰れない」と決めつけることだけは、もうしたくなかった。
オルフェンは小さく頷いた。
「それを聞けて、少し安心しました」




