(第三章)第四十一話 歴代勇者の名前が刻まれた地下室
(第三章) 最後の勇者召喚 ~勇者が必要なくなる世界へ~
橋の完成式から三日後、俺たちは王都の地下へ戻った。
かつて恐怖収集炉があった部屋は、今では封鎖されている。
石壁には停止した装置の跡が残り、床には魔力の焼け焦げた線が走っていた。
「ここへ戻ることになるとはな」
俺が呟くと、スーシャは封筒を開いた。
「白狼砦で見つかった記録には、炉の設計図に存在しない通路が描かれています」
ヴォルマが持参した測量図と重ねる。
地下の西壁だけ、厚さが不自然だった。
グレンが壁を叩いた。
「空洞がある」
「壊すな。支柱だったら上の建物が落ちる」
俺が止めると、リリスが壁際の石を一つずつ調べた。
最後に、彼女の指が小さな窪みに触れた。
黒い結晶に刻まれていた紋章と同じ形だ。
「父が残した印です」
俺は懐にしまっていた結晶の欠片を取り出した。
魔王ゼルガディスが最後に託したもの。
その欠片を窪みに当てると、壁の内側で錠が外れる音がした。
開いたのは、人が一人通れるほどの狭い扉だった。
階段を下りると、円形の地下室に出た。
壁一面に、名前が刻まれている。
『勇者エルド』『勇者マリア』『勇者ダリオン』。
名前の横には、召喚された日と帰還予定日があった。
だが帰還の欄には、ほとんど斜線が引かれている。
「こんなにいたのか」
俺は息を呑んだ。
スーシャが数え始めた。
百を越えたところで、声が震えた。
「神殿では、勇者は数世代に一人しか現れないと教わりました」
「その説明が嘘だったんだな」
「少なくとも、すべては語られていませんでした」
リリスは壁の奥へ歩いた。
一つの名前の前で足を止める。
『勇者ゼルガディス』。
その下に、小さく『帰還拒否』と刻まれていた。
「父は……帰らなかったんですね」
「帰れなかったのかもしれない」
俺が言うと、彼女は首を振った。
「今は、まだ決めつけないでください」
その通りだった。
俺は彼女の父を斬った。
だからこそ、都合のいい理由で過去を説明してはいけない。
壁の中央には、文字のない石板があった。
ヴォルマが灯りを近づける。
「ここだけ、名前を削り取った跡があります」
石の粉が床に落ちている。
古い傷ではない。
「誰かが最近ここへ来たのか」
グレンは剣に手をかけた。
そのとき、階段の上で靴音がした。
俺たちは灯りを消し、壁際へ身を寄せた。
降りてきたのは、王都の記録官だった。
灰色の髪の男で、手には封印用の道具を持っている。
「ここは立ち入り禁止のはずですが」
男は驚きもせずに言った。
「俺たちは共同調査団だ。名を聞かせてくれ」
「記録官オルフェン。先王の時代から地下文書を管理しています」
「名前を削ったのはあなたか」
男は石板を見た。
「削ったのではありません。名前を守ろうとしたのです」
「どういう意味だ」
オルフェンは手袋を外した。
右手の甲に、古い召喚紋があった。
「私もかつて、勇者と呼ばれました」
地下室が静まり返った。
彼は壁の名前を見回し、苦い顔で笑った。
「ここに刻まれた者が、全員魔王になったわけではない。そのことだけは、先に知っておいてください」
俺は剣から手を離した。
壁の名簿は、俺たちが知っている歴史の何倍も長かった。
だが、この男の言葉が本当なら、そこにはまだ別の結末がある。
「話を聞かせてほしい」
オルフェンは石板の前に小さな灯りを置いた。
「ここで名前を消すよう命じられたとき、私は断れませんでした。だから代わりに、別の帳面へ写しました」
「誰が命じた」とゾイド。
「先王の記録官です。ですが、命令を出した者はもう亡くなっています」
「なら責任を問えないのか」
「死者には問えません。でも、隠された記録を公開することはできます」
俺は壁に触れた。
冷たい石の向こうに、名前を残したかった人がいた。
「公開する前に、本人が生きているか確かめたい」
オルフェンは頷いた。
「家族に知られたくない者もいるでしょう。本人の意思を無視して公表すれば、また同じ過ちです」
リリスは父の名前を見た。
「父の記録は、私が引き受けます。父を英雄にするためではありません」
「分かってる」と俺は言った。
彼女はゆっくり頷いた。
「父が何を望み、何をしてしまったのか、両方残したいんです」
地下室の出口へ向かう途中、俺は床に落ちた古い名札を拾った。
『セリア。
召喚時十五歳』。
その下には小さな字で『帰還希望』とある。
「この子はどうなった」と俺が尋ねると、オルフェンは目を伏せた。
「帰還を願い続けました。王国は戦力になるまで帰さないと言い、彼女は神殿を逃げ出した」
「見つかったのか」
「分かりません。公式記録では失踪です」
スーシャは名札を受け取った。
「神殿には失踪者の捜索記録があります。名前を照合してみます」
「その記録も消されていたら?」
「だから複数の場所に写しを残します」
彼女はきっぱり答えた。
リリスが壁の傷を指した。
「ここだけ新しい。最近削られた名前は誰のものですか」
オルフェンはためらった。
「生きている人です。本人から、名前を消してほしいと頼まれました」
「どうして」
「勇者だった過去を知られれば、今の家族が危険にさらされるからです」
俺は石板を見た。
歴代勇者の名簿には、帰還を望んだ者と、残ることを選んだ者の区別すらなかった。
俺は欄外に「本人の意思は未確認」と書いた。
隠すことと守ることは、同じではない。
だが公開することが、いつでも正しいとも限らない。
「その人の名前は聞かない。必要になったら本人に尋ねよう」
オルフェンの肩から、わずかに力が抜けた。
「ありがとうございます」
地上へ戻ると、王都の朝日が眩しかった。
地下に刻まれた名前を、俺たちはすぐには公表しなかった。
まず生存者の確認と、遺族へ知らせる方法を考える。
「急がなくていいのか」とグレン。
「急ぐべきことはある。でも、名前を勝手に使うことは急がない」
俺が答えると、彼は腕を組んだ。
「戦いより面倒だな」
「そうだな」
俺は苦笑した。
魔王を倒すより、ずっと時間がかかる仕事が始まろうとしていた。
調査を終えて地下室を閉じるとき、スーシャは扉に新しい封印を施した。
「封印の鍵は二本にします。王国と魔王領で一本ずつ保管し、開くときは共同調査団が立ち会う」
「神殿だけで決めないんだな」と俺。
「はい。以前は神殿の判断が絶対だと思っていました。でも、その結果がこの地下室です」
オルフェンは古い鍵を机に置いた。
「私も立会人になります。隠してきた者には、隠さずに見届ける責任がある」
地上へ出ると、王都の広場では朝市が始まっていた。
魚を売る声、パンを焼く匂い、荷車の軋む音。
地下で百人以上の勇者の名前を見たあとでは、その何気ない音が妙に大切に思えた。
リリスが尋ねた。
「この街の人たちに、いつ話しますか」
「生きている人の安全を確かめてからだ。けれど、いつまでも黙ってはいられない」
「ええ。父の名も、いずれ公にしましょう」
俺は頷いた。
歴史を正すのは、敵を倒すより難しい。
だが、今日ここで見た名前を、もう一度消すわけにはいかなかった。
俺はその夜、名簿の最初の頁に日付を書いた。
誰かの名を消すためではなく、これから調べるための記録だ。
ページを閉じると、地下室の冷たさがまだ指先に残っていた。
オルフェンは頷いた。
「長い話になります。そして、聞いたあとでは、勇者という言葉を以前と同じ意味では使えなくなるでしょう」




