第三十六話 魔王の娘は勇者を見捨てなかった
リリスがローデンに差し出したのは、自分の命ではなかった。
一枚の帳簿だった。
「ヴェルナー商会が北部方面軍へ送った金額と、倉庫火災の前日に動いた荷車の記録です」
ローデンの顔色が変わった。
「どこで手に入れた」
「あなたが見落とした人たちからです。荷車を修理した職人、油壺を運んだ御者、給料を受け取れなかった倉庫番。誰も一人では証明できなかったことを、私たちは合わせました」
「偽物だ」
「なら公開して調べましょう」
リリスは帳簿を閉じた。
「勇者を解放してください。そうすれば、あなたにも弁明の機会があります」
ローデンは笑った。
「魔王の娘が裁判を語るとはな。お前の父親は何人殺した?」
リリスの表情が固まった。
「父の罪があるなら、調べるべきです」
「それで許されると?」
「許されるために言っているのではありません」
彼女は一歩前へ出た。
「今ここで、また誰かを殺させないためです」
俺は地下牢で、その声を聞いていた。
手首の鎖は冷たく、封印陣の光は弱まらない。
だが、リリスが時間を稼いでいることは分かった。
スーシャは封印陣の構造を調べているはずだ。
俺が今できるのは、余計な力を使わないことだった。
廊下の見張りが、小さく呟いた。
「魔王の娘って、あんなふうに話すんだな」
「どんなふうに?」
「もっと、俺たちを殺したがってると思ってた」
「彼女には俺を殺す理由がある。それでも今は助けようとしてくれている」
見張りは俺を見た。
「お前が魔王を殺したんだろ」
「ああ」
「じゃあ、何で一緒にいる」
「同じことを繰り返したくないからだ」
彼は答えなかった。
そのとき、石室の壁が三度、短く震えた。
合図だ。
スーシャが封印陣の外側に触れたのだろう。
俺は指先で床を叩いた。
一度、二度。
返事が三度来た。
「何をしている」
見張りが尋ねる。
「友達が壁の向こうにいる」
「助けに来たのか」
「たぶん。君を殺しに来たんじゃない」
見張りはしばらく黙ったあと、椅子の足元にある魔石を指した。
「この石、昨夜から熱い。触るなと言われてる」
俺は見た。
封印陣の中心ではなく、端の魔石が赤くなっている。
魔力を吸いすぎているのだ。
「このままだと破裂する。君も危ない」
「脅しか」
「違う。石の表面に亀裂がある」
見張りが屈んだ瞬間、石室の外で爆発音がした。
グレンが通路の扉を壊したのだ。
「ユリウス!」
「封印陣に触るな! 端の魔石を冷やしてくれ!」
グレンは立ち止まった。
すぐにスーシャが現れ、床の紋様を見た。
「吸収式ですね。魔力を止めても、蓄えた分が残ります」
「放出先は?」
「地下の排水路へ逃がせます。ただし石を一つずつ切り離す必要があります」
「俺にできることは?」
「今は動かないことです」
それは戦場で受けたどんな命令より難しかった。
グレンが石室の扉を支え、スーシャが魔石を冷やし、見張りの兵士が排水路の栓を開けた。
俺は三人を見つめた。
封印陣の光が弱まる。
鎖の重さが戻ってきた。
「今です!」
スーシャの声に合わせて、俺は椅子から立ち上がった。
足は痺れていたが、動けた。
外へ出ると、ローデンはすでに逃げていた。
リリスは階段の前で膝をついていた。
「大丈夫か」
「帳簿を渡してしまいました」
「写しは?」
彼女は外套から別の紙束を出した。
「もちろんあります」
俺は思わず笑った。
リリスも、疲れた顔で少し笑った。
「あなたを助けるために、父の名を使われるのは嫌でした。でも、逃げたくなかった」
「ありがとう」
「礼はまだ早いです。ローデンは城塞へ向かいました。ヴェルナー商会の会頭も一緒です」
グレンが外を指した。
採石場の向こうに、煙が上がっている。
「北部の兵が動いた。国境へ向かってる」
俺は聖剣を腰へ戻した。
「今度は、全員で止める」
リリスは頷いた。
俺たちは採石場を出た。
背後で、見張りだった若い兵士が声をかけてきた。
「俺も行っていいか」
「なぜ?」
「もう誰かを閉じ込める仕事はしたくない。今度は、人を逃がすほうを手伝いたい」
リリスが彼へ水筒を渡した。
「では、避難路の案内をお願いします」
若い兵士は深く頭を下げた。
リリスが差し出した手を取るとき、俺はためらった。
彼女が俺を許したわけではない。
それでも助けに来た。
その選択を、安い感謝の言葉で済ませたくなかった。
戦いの前に、一人だけでも選ぶ道を変えられた。
それを小さな勝利だと思いたかった。
採石場から逃げる前に、俺たちは魔石の箱を調べた。
ネイルが教えてくれた十二箱のうち、三箱はすでに運び出されていた。
「九箱を封印します」とスーシャ。
「残りの三箱は?」
「荷車の轍が北へ続いています。白狼砦でしょう」
グレンが拳を鳴らした。
「追いかけて叩き壊すか」
「中身を確かめてからです」とリリス。
「罪の証拠も一緒に消してしまいます」
俺は頷いた。
「壊すのはいつでもできる。誰が作ったのか、どこへ運んだのかを先に調べよう」
採石場の書記室には、作業員の名簿が残っていた。
賃金の欄には支払い済みと書かれている。
だが、帳簿の隅に小さく『保留』の印があった。
「作業員も給料をもらっていないのか」
ネイルが答えた。
「約束では、戦争が始まればまとめて払うと言われた」
俺は紙を見つめた。
ローデンは兵士だけでなく、採石場で働く者たちにも戦争の再開を待たせていた。
「戦争が始まらなければ、ずっと払わないつもりだったのか」
「そういうことになります」とヴォルマ。
スーシャは未払い名簿を写し、保護所へ送った。
「彼らを全員共犯にしてはいけません。強制された者もいるはずです」
外へ出ると、リリスがネイルに話しかけていた。
「あなたは見張りでした。怖がらせた人もいるでしょう」
「はい」
「だからこそ、今度は逃がす人の名前を覚えてください」
ネイルは何度も頷いた。
俺はその姿を見て、少しだけ安心した。
誰かが変わるには、罪をなかったことにするのではなく、次に何をするかを選ぶ機会が必要なのだ。
採石場の出口で、ネイルは一度だけ振り返った。
「ここを出たら、俺は捕まりますか」
「調査は受けてもらう」と俺は答えた。
彼の顔が曇った。
「でも、君が何をしたか、何をしなかったかは分けて調べる」
「ローデン様は、従わなければ家族を追い出すと言っていました」
「その話も記録する」
スーシャは紙を出し、ネイルの言葉を一つずつ書いた。
「今ここで全部話す必要はありません。落ち着いたら続けましょう」
ネイルは頷いた。
リリスは彼の外套の破れた袖を見て、布を一枚渡した。
「怪我をしたら巻いてください」
「敵なのに?」
「今は怪我人を増やしたくありません」
ネイルは布を受け取った。
俺は、彼女が父を殺した俺に最初に差し出した手を思い出した。
あのときと同じように、信頼はまだない。
それでも、次の行動を選ぶための時間は作れる。




