第三十二話 一万人の兵士が、再び剣を取った
反乱軍の名簿上の兵力は一万二千。
ただし、その全員が街道にいるわけではない。
斥候が確認した前衛はおよそ三千人、残りは各駐屯地や補給線に分散していた。
全軍が合流する前に、投降の道を示さなければならない。
報告を聞いたゾイドは、しばらく地図を見つめていた。
「数は多い。だが、全員が戦いたいわけではない」
北部方面軍の三つの駐屯地は、街道を挟んで三角形に位置していた。
兵が集まれば王都への道を塞げる。
逆に、三か所を一度に動かすには大量の食料が必要になる。
「ローデンは補給の専門家だ」と俺は言った。
「だからこそ厄介だ。奴は兵を動かす前に、どの倉庫を押さえるべきか知っている」
ヴォルマは兵站表を広げた。
「名簿上の一万二千人が一日に食べる穀物は、一人六百グラムとして約七・二トン。馬の飼葉は別です。三日分だけでも二十一・六トン。今は分散していても、合流すれば周辺の村から徴発する危険が高いでしょう」
「その数字は全軍が集まった場合だな」
「はい。実際には三つの駐屯地に分散しています。移動した部隊と残った部隊を区別しないと、補給線を読み違えます」
「それを止める」
リリスが言った。
「村を守るために反乱軍を飢えさせれば、兵士は結局村を襲います。別の出口が必要です」
俺たちは王都評議会へ緊急の提案を送った。
投降した兵士には、未払い給与の調査と復興工事への参加機会を与える。
将校の罪は個別に調べる。
武器を置いた者の家族を人質にしない。
返事はすぐには来なかった。
「財源がない、と言うでしょうね」とスーシャ。
「分かっている。だから軍の予備費を使う。もともと兵士に払うための金だ」
ゾイドは軍印を机に置いた。
「責任は私が取る」
「あなた一人に押しつけません」
リリスが魔王領の輸送記録を差し出した。
「こちらも橋の修復に人手が必要です。賃金を共同負担する案を出します」
人間の将軍と魔王の娘が、同じ紙に署名した。
その日の午後、反乱軍が最初の村へ迫った。
俺たちは先回りして、村の広場に食料の配給所を設けた。
「ここは戦場じゃない。住民の食料は奪わせない」
村長は疑わしそうに俺を見た。
「反乱軍が来たら、あんた一人で止められるのか」
「一人では止めない。村人を避難させ、兵士には別の選択肢を見せる」
俺たちは井戸の近くに白い布を掲げた。
反乱軍の先頭にいた若い隊長は、村を包囲するよう命じた。
「食料を差し出せ!」
俺は配給所の前に立った。
「ここにあるのは子供と老人の分だ。軍の食料が必要なら、街道の分岐にある停戦監視団の補給所で受け取れる。運ぶ量と受取人の名前を記録するのが条件だ」
「罠だろう!」
「武器を置かなくても、水と負傷者の薬は渡す。だが村の麦は渡せない」
隊長は迷った。
後ろに並ぶ兵士たちは、泥だらけの靴で立ち尽くしている。
「隊長、弟がこの村にいるんです」
一人の兵が呟いた。
「弟が?」
「去年、避難してきた。俺はここを襲いたくない」
隊長は歯を食いしばった。
そのとき後方から騎馬兵が駆けてきた。
「ローデン閣下の命令だ。抵抗する村は焼け!」
命令書を掲げた男が、松明を投げた。
俺は飛び上がって松明を掴み、井戸へ投げ込んだ。
村人の間から悲鳴が上がった。
隊長は騎馬兵に向き直った。
「ここには抵抗する者はいない!」
「命令に逆らうのか」
「子供を焼く命令には従えない」
剣が抜かれた。
俺は二人の間へ割って入り、剣の峰で騎馬兵の手首を打った。
武器が落ちた。
隊長は震える声で部下へ命じた。
「村への進入を中止する。負傷者だけ運べ」
兵士たちはゆっくりと隊列を解いた。
全員が投降したわけではない。
三百人ほどはそのまま北へ去った。
それでも村は焼かれなかった。
夕方、ゾイドが到着した。
「一万二千を相手に、村一つ守ったか」
「まだ一万以上残っている」
「だが、あいつらの命令が絶対ではないと示せた」
村の炊き出しには、王国兵も魔族兵も並んだ。
一人の老婆が兵士に椀を渡しながら言った。
「戦争が終わったって聞いたのに、また孫を隠さなきゃならないのかと思ったよ」
若い隊長は頭を下げた。
「怖がらせて、すみません」
老婆は答えなかったが、椀を取り上げもしなかった。
王都評議会からの返答が届いたのは、夜更けだった。
補給路を押さえれば敵は止まる。
だが、飢えた兵が周辺の村を襲う可能性もある。
ヴォルマは避難路と食料の配布場所を、作戦図の同じ紙に書き込んだ。
評議会は、未払い給与の一部に充てるため、王宮の祝宴費と未使用の軍礼装費を転用する案を暫定承認した。
全員分には足りないため、残額は軍の支給記録を照合してから別途予算を組む。
ただし国庫の支出には監査役の署名が必要で、支払い開始は明朝以降となる。
「今夜、全員に金を渡せるわけじゃない」
ゾイドは伝令に、支払える額と支払えない額の両方を公示するよう命じた。
「それで何人分になる」
ヴォルマが計算した。
「全員の三か月分には届きません。対象者を確認したうえで、まず一か月分の未払いを優先して支払う計画です。足りない分は共同復興事業の賃金とは分けて記録します」
「優先の基準は?」
「負傷兵と扶養家族の多い世帯からです。残りは支払日を公表します」
ゾイドは報告書の端に、軍印を押した。
「王宮の者には恨まれるな」
「祝宴を一度減らすくらいで恨まれるなら、恨まれればいい」
俺が答えると、彼は初めて声を出して笑った。
村の広場では、投降を迷う兵士のために武器を預かる台が設けられた。
剣を置いた者にも食事は渡すが、武器を持ったまま村へ入ることは認めない。
「命令を破ったら、家族まで罰せられるかもしれない」
若い兵士が言った。
ゾイドはその名前を聞き、書記に記録させた。
「家族への報復があれば軍法で追及する。口約束で終わらせないための記録だ」
兵士はすぐには剣を置かなかった。
それでも、台の前から逃げずに考えていた。
俺たちが守るべきなのは、今ここで降伏する人数だけではない。
降伏したあとも生きていける道だった。
村長は、村の食料を守る条件を書面にしてほしいと言った。
「今日の隊長が約束しても、明日は別の隊が来るかもしれない」
「そのとおりだ」とゾイドは答えた。
「村の備蓄は軍の命令で接収できない。必要なら評議会の承認と代金の記録を残す」
村長は文字を一行ずつ確かめ、書記に読み上げさせた。
兵士のための食事を用意した老婆も、そこへ加わった。
「食べさせるのは構わないよ。でも、孫の分を勝手に持っていくのは困る」
「それでいい」と俺は言った。
「助ける側にだって、断る権利がある」
若い隊長は村長へ向き直り、軍の印ではなく自分の名前で誓約書に署名した。
命令を待つだけだった兵士が、初めて自分の行動の責任を引き受けようとしていた。
その署名を見届けてから、俺たちは国境への伝令を急がせた。
夜、ヴォルマから新しい報告が届いた。
「ローデンは北部の兵を全員集めるつもりではありません。主力を国境へ向けています」
「何のために?」
「魔王領の避難民収容地を占拠し、魔族側からの反撃を誘う計画です」
リリスの顔が青ざめた。
「そこには、戦争で家を失った人々が千人以上います」
ゾイドは剣を握り直した。
「明朝、出る」
俺は地図に避難民収容地の位置を記した。
戦争を止めるために戦わなければならない。
その矛盾を、今度こそ人の命で埋めるわけにはいかなかった。




