第三話 魔王を殺した勇者が魔王城に入った結果
魔王城へ向かう途中、俺たちは補給隊の残骸を見つけた。
車輪が外れた荷車には空の麻袋が積まれ、路肩には小さな靴が落ちていた。
リリスが靴を拾い、しばらく黙り込む。
「避難民の隊列だったのでしょう」
「襲われたのか」
「分かりません。ですが、魔王城へ逃げる人が増えています」
城へ近づくほど道は混雑した。
角を持つ老人、獣耳の母親、翼の傷ついた少年。
誰もが荷物を抱え、城門の前で順番を待っていた。
兵士は一人ずつ名前を聞き、入城を許している。
「どうして全員入れない?」
俺が尋ねると、門番は唇を噛んだ。
「城内の食料が足りないのです」
その言葉で、グラディ村の焼けた穀倉を思い出した。
魔王軍が敗れたから困っているのではない。
魔族の暮らしそのものが壊れかけている。
謁見の間へ入る前、リリスは足を止めた。
「ここで父は、最後まで和平案を書いていました」
「和平案?」
「国境の交易路を開き、双方の捕虜を交換する案です。王国から返事は来ませんでした」
俺は魔王との戦いを思い出した。
彼は強かった。
容赦なく攻撃してきた。
俺も全力で応じた。
その戦いの前に和平を求めていたとは、知らなかった。
知らされなかったと言うべきかもしれない。
黒騎士グレンは俺を見るなり剣を抜いた。
周囲の兵士も一斉に構える。
リリスは止めようとしたが、俺は首を横に振った。
「一度、話を聞いてもらおう」
「話すことなどない!」
グレンの剣は重く、速かった。
第一撃を受けると床石が割れた。
第二撃は肩口を狙い、第三撃で俺の腕から血が飛んだ。
俺は相手の武器を折ることもできた。
だが、そうすればこの場にいる全員が、俺の力に怯えて黙るだけだ。
「なぜ反撃しない!」
「俺が剣を振れば、また誰かが死ぬ」
「父君を殺しておいて、今さら綺麗事を!」
「そうだ。今さらだ」
俺は言葉を飲み込まなかった。
「だから、今から何をするかでしか答えられない」
グレンの刃が喉元で止まった。
彼の呼吸は荒い。
俺を斬る覚悟と、姫の前で客人を殺せない忠誠がぶつかっていた。
老軍師ヴォルマが間に入り、ようやく剣が下ろされた。
会議室には食料の帳簿が積まれていた。
数字を見るだけで状況の悪さが分かる。
東部の食糧庫を失ったことで、避難民への配給が半分に減っている。
兵士は一日一食。
治療所では薬草を煮た湯を病人に配っていた。
「食糧庫を奪った王国軍は、補給のために持ち去ったのか?」
「半分は軍用に運び、残りは倉庫ごと接収したようです」
ヴォルマが地図を示した。
国境から城へ向かう唯一の街道が、王国軍の支配下にある。
食糧庫を取り戻しても、道が使えなければ運べない。
「必要なのは、奪還だけじゃない。運ぶ馬車と護衛、それから分配の仕組みだ」
俺が言うと、ヴォルマは初めて顔を上げた。
「勇者殿は、兵站の話ができるのですな」
「三年間、補給が遅れて仲間を飢えさせたことが何度もある。あれは戦場よりつらかった」
グレンはまだ不満そうだった。
「我々に指図するつもりか」
「違う。俺の知っている失敗を話している」
治癒師長サフィアが、俺の肩の傷を見た。
「治療を受けてください。血が止まっていません」
「この程度なら」
「魔族の治療所で、患者が遠慮する必要はありません。あなたを許すかどうかと、傷を治すかどうかは別です」
彼女の言葉に俺は黙って椅子へ座った。
治療魔法は温かかった。
人間の聖術と違い、傷口を縫うようにゆっくりと痛みが引いていく。
「俺の聖術は魔族に使えるのか?」
「術式によります。浄化の力が強すぎれば、魔族の体を傷つけます。調べずに使わなかったのは正解です」
グラディ村でためらった理由が、間違いではなかったと知って少しだけ安心した。
食料の帳簿には、避難民の人数が日ごとに増えていることも記されていた。
「このままでは何日もつ?」
ヴォルマは指で数字を追った。
「兵の配給をさらに削って、十日。病人への粥を減らせば十二日ですが、それは選べません」
ヴォルマは帳簿を閉じかけた。
そこへ城門の伝令が駆け込んだ。
「門前の母親が、乳飲み子を置いて倒れました。入城の許可を!」
グレンが立ち上がる。
「通せ!」
「一人通せば、後ろの百人も押し寄せます」とヴォルマ。
「なら百人の前で理由を話せ。数字の陰に隠れるな!」
二人の視線がぶつかった。
俺は帳簿を取り、今日使える麦と明日の搬入予定を別々の欄に書いた。
「今日の命を守るために備蓄を使う。明日の命を守るために、運ぶ人間と道を確保する。どちらかだけでは足りない」
「当然だ」
グレンが不機嫌そうに頷いた。
「俺たちが飢えるのは構わん。子供の分だけは残せ」
「では門前の避難民をどうする」
ヴォルマが問うと、グレンは口を閉ざした。
「城内の子供を守るために、城外の子供を追い返すのか」
「……俺に決めさせるな」
剣を握る手より、帳簿を押さえる手のほうが震えていた。
俺は言った。
「誰か一人に決めさせない。門前の人数も記録しよう。今日の食料を減らすなら、誰の分を減らしたか全員が知るべきだ」
彼がただ怒りに任せて剣を振るう男ではないと、初めて分かった。
俺は城の中庭で、荷車の車輪を調べた。
修理が必要な車輪は六つ。
使える馬は四頭。
東部の食糧庫を取り戻しても、これでは一度に運べる量が少ない。
「城内に荷運びが得意な者はいるか?」
ヴォルマは意外そうに眉を上げた。
「軍ではなく、商人を呼ぶのですか」
「戦争を終わらせたいなら、軍だけで考えるのをやめるべきだ」
その言葉に、会議室の空気が変わった。
一時間後、避難民の中から荷馬車職人と倉庫番が集まった。
彼らは地図を見るなり、軍人たちが見落としていた細道を指さした。
「ここは春なら荷車が通れます。今は川が浅いから、渡し場も使えるはずです」
ヴォルマは新しい経路を書き加えた。
「敵に勝つ策より、民を生かす策を先に立てる。奇妙な勇者ですな」
「魔王を倒しても、誰も腹いっぱいにならなかったからな」
荷車職人は俺の言葉には頷かず、地図の渡し場に指を置いた。
「勇者様が帰った後も、この道を使えるようにしてくれ。荷車を動かすのは俺たちなんだ」
「分かった。通行を決める会議にも入ってほしい」
職人は初めて、俺の顔を正面から見た。
リリスは黙ってその地図を見つめていた。
父の玉座から離れた場所で、魔王領の明日が少しずつ決まり始めていた。
会議のあと、リリスは父の玉座へ歩み寄った。
誰も座らない黒い椅子には、薄く埃が積もっている。
彼女は指でそれを拭い、ぽつりと言った。
「父はここで、私に王になれとは言いませんでした」
「何と言ったんだ?」
「誰かが泣いていたら、まず理由を聞けと」
俺は玉座を見た。
俺が倒した魔王は、敵だった。
それでも娘に残した言葉まで敵と呼べるだろうか。
「俺には父親の代わりはできない」
「分かっています」
「でも、父親が守ろうとした人たちを、これ以上傷つけたくない」
リリスはゆっくりと頷いた。
その夜、俺は城壁から避難民の列を眺めた。
次の戦いで必要なのは敵の首ではない。
食料を運ぶための道だった。
翌朝、出発の準備をしていると、ヴォルマが食糧庫の帳簿を俺に預けた。
「信用したわけではありません。数字を誤魔化す者かどうか、確かめるのです」
「それでいい」
そのとき城門から、入城を断られた母親の叫びが聞こえた。
グレンは椅子を蹴って立ち上がり、帳簿を俺から奪うように取った。
「門を開ける。俺の配給をあの親子に回せ」
「それでは明日の警備に支障が出ます」と門番が言った。
グレンは一瞬、言葉に詰まった。
空腹の兵士に城を守れと命じ続けたのは自分だ。
自分だけ食事を抜けば済むという話でもない。
「……俺の分だけじゃ足りない。城の宴会用に残している小麦を出す」
ヴォルマの眉が上がった。
「それは姫殿下の冬越し用の備蓄ですぞ」
「分かっている。明日までに補給の道を確保する。できなければ、まず俺が皆の前で説明する。姫殿下にもだ」
「俺も運ぶ」と口を挟んだ。
グレンはしばらく俺を睨んだ。
だが、城門へ向かうときには、黙って荷縄を肩に担いでいた。
ヴォルマは備蓄の封印を切る前に、取り崩す麦の量と残りの日数を帳簿へ記した。
「今夜は二日分を先に使います。道が開かなければ、その二日が命取りになりますぞ」
グレンは目をそらさなかった。
「分かっている。門の外の者も、今日から俺たちの民だ」
城を守るという言葉が、初めて一人分の食事の重さになった。
「明日の昼までに補給路が開かなければ、私が門前の者に説明します」
ヴォルマが帳簿を閉じた。
「軍師が謝っても腹は膨れんぞ」とグレンが言う。
「だから、謝る前に荷車を動かすのです」
二人の声には、もう俺への敵意とは別の切迫した響きがあった。




