第二十二話 魔王の娘が、人間の村で石を投げられた
麦を届けた村で、リリスに石が飛んだ。
小さな石だった。
だが、額を切るには十分だった。
「魔王の娘が、なぜここにいる!」
叫んだのは、杖をついた老人だった。
背後には、焼けた家の跡と、名前だけが残った墓標が並んでいる。
俺が前へ出るより早く、リリスが手で制した。
「大丈夫です」
血が頬を伝っていた。
大丈夫なはずがない。
「ここに食料を運びに来ました。麦と薬です」
「お前の父親の軍が、わしの息子を殺した!」
リリスは反論しなかった。
父が命じた作戦かどうか、俺たちには分からない。
それでも老人の息子が戻らないことだけは確かだった。
「私の父の軍がしたことを、なかったことにはできません」
「だったら出ていけ!」
荷車の周りに人が集まった。
中には、麦袋を見て唇を噛む母親もいた。
食べ物は必要だ。
だが受け取れば、憎んでいる相手を認めたことになる気がするのだろう。
「俺が運ぶ」と言うと、老人が俺を見た。
「勇者様まで、魔族の味方をするのか」
「俺はこの村に麦を届けに来た。誰かを許せと命じるためじゃない」
「なら、あの娘を帰せ」
リリスが荷車の縄をほどき始めた。
「私は村の外で待ちます。配給はユリウスに任せます」
彼女の背中はまっすぐだった。
俺は追いかけたかったが、荷車の前で腹をすかせた子供が倒れた。
母親が駆け寄り、空の器を抱えたまま泣き出す。
「昨日から何も食べてないんです」
俺は麦を配った。
人数を数え、まず子供と病人へ渡す。
老人も列の端に立ったが、リリスが触れた袋には手を伸ばさなかった。
夕方、村外れの井戸でリリスを見つけた。
彼女は布で額を押さえていた。
「痛むか」
「少し」
「戻らなくてもいい。俺が明日までに配る」
「それでは、私が運んだことを隠すだけです」
彼女は水面を見つめた。
「父が殺した人もいる。父を殺したあなたと、こうして一緒にいる私を、魔族の村で許せない人もいるでしょう」
「俺たちが望むだけで、傷は消えないな」
「はい。でも、傷があるからといって、飢えた子を見捨てる理由にもしたくありません」
翌朝、村で井戸の滑車が壊れた。
綱が切れ、桶が深い底へ落ちたという。
村人たちは荷車を囲んで議論していたが、水がなければ麦を煮ることもできない。
リリスは工具箱を開けた。
「魔王領では、こういう滑車を二重にします。壊れたとき、桶が落ちないように」
老人が鼻を鳴らした。
「魔族のやり方など要らん」
「では、人間の大工さんに教えてもらいます。私は縄を持つだけです」
大工の青年は困った顔をしたが、やがて縄を受け取った。
俺が滑車の軸を支え、青年が金具を打つ。
リリスは手を傷つけながら縄を編み直した。
二時間後、井戸から水が上がった。
最初に器を差し出したのは、昨日倒れた子供の母親だった。
「……ありがとう」
リリスは答えようとして、言葉に詰まった。
「水が出ただけです。まだ井戸の底を掃除しないと」
「それでも、ありがとう」
老人は何も言わなかった。
昼、俺たちが出発しようとすると、村の入口に昨日の石が置かれていた。
血の跡は洗い流されている。
老人が杖をついて現れた。
「わしはお前を許さん」
「はい」
「だが、井戸の修理代は払う。借りを残すのは嫌いだ」
彼は銅貨を二枚差し出した。
リリスは受け取らず、代わりに配給帳を開いた。
「それなら、この村の次の麦の運賃に充ててください」
老人は長いこと黙っていた。
「……勝手にしろ」
俺はそのやり取りを見ながら、昨夜のことを思い出した。
リリスは痛む額を隠し、俺には平気だと言った。
平気なはずがないのに、次の村へ向かおうとしている。
橋を渡る手前で、俺は言った。
「次に石が飛んだら、俺が止める」
「止めてください。でも、投げた人を斬らないで」
「分かってる」
「それから、私が自分で話す時間もください」
彼女は額の包帯を押さえた。
「父のことを聞かれたら、逃げたくないんです」
村を離れる前、俺は配給帳を見直した。
最初に麦を受け取った家ほど、戦争の被害が大きい。
屋根を失った家、働き手のいない家、畑を焼かれた家。
必要な量は同じではなかった。
「家族の人数だけで配れば公平だと思っていた」と俺は言った。
「同じ量でも、鍋を持っていない家では食べられません」とリリス。
リリスの包帯に染みた血は、夕方になっても消えなかった。
俺は謝ろうとして、言葉を飲み込んだ。
謝罪を重ねるより、彼女が選んだ仕事を支えるほうが先だった。
彼女は井戸の横に集まった女たちに尋ね、共同の炊き出しを提案した。
最初は誰も返事をしなかったが、昨日の母親が手を挙げた。
「うちの鍋なら大きいです。みんなで使えます」
「薪はわしが持ってくる」と大工の青年。
やがて老人も杖をつきながら現れた。
「倉庫の奥に、古い釜がある。使うなら出してやる」
「ありがとうございます」とリリスが言うと、老人は顔をそむけた。
「お前に貸すんじゃない。村の子供に貸すんだ」
「はい。子供たちに使います」
リリスは言い返さなかった。
俺も口を挟まなかった。
昼の炊き出しには、人間の子供たちが列を作った。
鍋から立つ湯気を見て、昨日倒れた子供が笑った。
老人は遠くでその様子を見ていた。
「俺があの人に何を言っても、変わらなかっただろうな」
「変わらなくてもいいんです」とリリスは答えた。
「私も、あなたを許していません。それでも今は一緒に働けます」
その言葉は、何度聞いても胸に刺さる。
「俺にできる償いはあるか」
「分かりません。父は戻らないから」
彼女は鍋の底をかき混ぜた。
「でも、償いが見つからないからといって、何もしないでいる理由にはなりません」
俺は薪を追加した。
炎が強くなり、麦粥がゆっくり泡立った。
夕暮れ、村の少女がリリスの包帯を指して尋ねた。
「それ、誰にやられたの?」
「転んだんです」と答えかけたリリスを、俺は見た。
彼女は少し考え、言い直した。
「石が当たったの。でも、もう手当てしてもらいました」
「痛かった?」
「痛かったですよ」
少女は自分の小さな布を差し出した。
「これ、きれいだから使って」
リリスは受け取り、何度も礼を言った。
そのとき、遠くの畑から子供の声がした。
「井戸のお姉ちゃん、また来て!」
リリスは振り返り、小さく手を振った。
石を投げた老人は、その子を止めなかった。
それだけのことが、昨日より少しだけ遠くまで歩ける理由になった。




