第十九話 勇者と魔王の娘が、世界を縛る鎖を断ち切る
裂け目から現れた黒い獣が、王都の上空で咆哮した。
地下にいる俺たちにも、塔の崩れる衝撃が足元から伝わってきた。
恐怖収集炉の針が跳ね上がる。
人々の恐怖を吸い上げてきた炉には、なお膨大な魔力が残っていた。
第一環を止めても、獣はまだその蓄えで動いている。
入口は閉じた。
だが蓄えられた魔力はまだ第二環にあり、俺の聖剣が第三環の出口を塞いでいる。
ルカが契約を断ち、墓所の封印を解くまで、誰も持ち場を離れられない。
階段から駆け込んできた伝令が、息を切らして報告した。
「南の広場に瓦礫が! ゾイド将軍が避難を始めました。グレン殿の兵も手伝っています! まだ瓦礫の下に子供がいます!」
「逃げ道は?」
「西門が詰まっています。王国兵が門を開け、魔族兵が負傷者を運んでいます!」
俺は思わず階段を見た。
今すぐ駆け上がれば、聖剣で瓦礫を支えられるかもしれない。
だが、第三環から剣を抜けば、炉の魔力が街へ逆流する。
「ユリウス、ここを離れないで」
リリスの声は震えていた。
俺は歯を食いしばり、剣を押さえる手に力を込めた。
目の前の一人を助けに走れない。
その選択を仲間に託すしかない。
「伝えてくれ。南の水路は避難に使える。グレンなら場所を知っている」
伝令が走り去った。
その直後、少年ルカの手が核に触れ、古い勇者たちの声が響いた。
『使命を果たせ』『魔王を討て』『王に従え』
少年は耳を塞ぎ、泣きそうな顔で俺を見た。
「みんなが、僕に戦えって言う!」
「それはお前の声じゃない!」
俺は叫んだ。
「お前がどうしたいか、自分で言え!」
「僕は……」
少年は息を詰まらせた。
王宮で叱られた記憶が、彼の口を塞いでいるのだろう。
リリスが優しく声をかけた。
「私も、父の娘だから強くなれと言われました。でも、父は最後に、生きろと願ってくれたはずです」
スーシャも頷いた。
「あなたが選ぶ言葉なら、どんな言葉でも大切にします」
少年は涙を拭った。
階段の奥で石が崩れた。
少年は肩を震わせたが、俺は剣を押さえたまま頷いた。
少年は深く息を吸った。
「僕は、誰も殺したくない。生きて、焼き菓子を食べたい。友達も作りたい!」
核に亀裂が走った。
ベルガンはなおも装置にしがみついていた。
「こんな子供のわがままで、何十年も続いた仕組みが壊れるものか!」
俺は彼を見た。
「子供の願いをわがままと呼ぶから、こんな世界になったんだ」
炉の魔力が逆流し、ベルガンの外套が裂けた。
彼は逃げようとしたが、足元に落ちた帳簿を拾おうとして遅れた。
「まだ金が必要なのか!」
俺が叫ぶと、彼は歯を食いしばった。
「金ではない。支配する力だ!」
その答えで十分だった。
上階から伝令の声が届いた。
「南の水路を開けました! 魔族兵が瓦礫の下から子供を救い、王国の衛兵へ引き渡しました!」
俺の腕が震え、剣先がわずかに浮いた。
「戻れ、俺の手!」
柄を石床へ押し戻す。
助けに行けなかった子が生きている。
その知らせだけが、折れそうな腕を支えた。
召喚契約の核が軋んだ。
第二環の赤い針は動かない。
「契約の核は弱まった。でも、第二環の圧力が下がりません!」
スーシャの声が震えた。
リリスは父の紋章に手を添えたまま叫んだ。
「まだ流れを変えられない。先に墓所の封印を開いて! ユリウス、名前を!」
少年ルカが石碑に駆け寄った。
石碑は炉室の奥、墓所への開口部に立っていた。
俺は炉の右手で聖剣を支え、リリスは中央の弁を押さえる。
左手の第一環にはスーシャが残り、少年だけが奥の石碑へ向かった。
「あの人たちの名を、お前の声で呼んでくれ」
「分かった。僕が読む」
少年は石碑に刻まれた一人目の名を読み上げた。
名を呼ばれるたび、石碑の溝に光が走った。
「封印が動き始めた!」
墓所の隙間から熱風が吹き上がり、留め金が一本外れた。
石碑の下段には、煤に埋もれた名が残っている。
俺の握る聖剣が低く鳴った。
リリスは弁を押さえたまま少年を見守る。
墓所の錠が、重い音を立てて外れていく。
突然、炉室に隣接する墓所の天井が割れ、墓所から階段へ抜ける通路の半分が石で塞がった。
「石碑の上に梁が落ちる!」
スーシャが叫ぶ。
階段の奥から鎧の音がした。
地上で南の水路を開き、避難誘導をゾイド配下の副官に託したグレンが、伝令の案内で戻ってきたのだ。
「副官が西門への列を動かしている。俺はこっちを守る!」
彼は炉室から見える通路の入口に飛び込み、墓所と階段をつなぐ梁を肩で支えた。
梁の端が床を削り、出口の幅が人ひとり分に狭まる。
少年が読み終える前に落ちれば、石碑も退路も同時に潰れる。
鎧の継ぎ目が軋み、グレンの靴底が床を滑った。
「誰か、落ちた石をどけろ! 通路が塞がれば、ここにいる全員が閉じ込められる!」
伝令は階段を塞ぐ石片を脇へ寄せ、退路を確保した。
俺もグレンも持ち場を離れられない。
少年の声だけが、落石の音の合間を縫った。
最後の錠だけが、煤に覆われた石碑の下段とつながっていた。
梁が沈み、少年の足元へ亀裂が伸びる。
舞い上がった粉塵で文字が見えなくなり、少年の声が途切れた。
名前を飛ばせば錠は開かない。
「もう見えない……!」
グレンは膝をつき、盾の縁を床の割れ目に噛ませた。
梁は一瞬止まったが、盾の中央に亀裂が走った。
「少年、指で探れ! 最初の文字だけでも!」
俺は聖剣から手を離せないまま叫んだ。
少年は涙を拭い、指先で砂を払いのけた。
落石の音が一瞬遠のいた。
誰も次の言葉を代わりに言わなかった。
消えかけた刻み目をなぞり、少年は一文字ずつ声にする。
「……エルド。勇者エルド」
スーシャが焼けた掌で煤を拭う。
少年は浮かび上がった文字を追い、声をつないだ。
最後の錠が軋む。
リリスは弁に手を掛けたまま、その音を待った。
「あと少しです!」
梁を支えるグレンが、俺に向かって怒鳴った。
「俺はあんたを許していない! だが、この子の明日まで奪わせる気はない!」
かつて敵だった男の肩に、地下の重みがのしかかっている。
俺は剣の柄を押さえたまま頷いた。
スーシャが指を一本立てた。
残る名は、あと一人。
制御溝に刺した聖剣へ新たな亀裂が走り、少年の声がかすれた。
石碑の最後の一行だけ、何者かに深く削り取られていた。
グレンの盾が中央から裂け、半分が床へ落ちた。
彼は残った盾を捨て、肩と両腕で梁を受け直して伝令に命じた。
「階段の一段目を空けろ。全員が通る幅だけでいい!」
伝令は残った破片を蹴り出した。
人ひとりなら通れる。
「読め! ここは俺が支える!」
「……最後の人は、名前を消されてる」
少年は俺を見た。
俺も、その削られた石に刻まれていたはずの名を知らない。
「なら、名を奪われた勇者と呼んでやれ。そこに生きた人がいたことは、消せない」
少年は石碑に手を置いた。
「名前を奪われた勇者。あなたも、道具じゃない!」
炉の唸りの中で、少年の声だけが響いた。
誰も言葉を継がなかった。
削り取られた一行に光が灯り、最後の錠が外れた。
墓所の封印が、地響きとともに開く。
狭かった隙間の奥に、魔力を受け止めるための空洞が広がる。
スーシャが刻印を確かめた。
「安全弁、全開。リリス、今です!」
「人が死ぬことでしか成り立たない仕組みなら、壊す!」
リリスは父の残した黒い結晶の欠片を掲げ、第二環の切替弁を開いた。
圧縮されていた魔力が、開いた墓所の安全弁へ流れ始める。
青白い奔流が墓所の奥へ走る。
通路の石床が割れ、梁を支えるグレンの片足が沈んだ。
「止まるな! こっちが落ちる前に流し切れ!」
墓所の奥の排出路が唸る。
リリスは震える弁の柄を握り、少しずつ開度を増やした。
『リリス。
生きろ』
一瞬だけ、父の声が聞こえた気がした。
彼女は涙をこらえ、両手を突き出した。
「父上。私は、あなたの戦争を終わらせます!」
炉の圧力がようやく下がり始めた。
第二環の圧力計が赤から黄へ落ちた。
針が一度跳ね返り、リリスの膝が折れる。
「まだ……離せない!」
彼女は両手で弁を押さえ直した。
針は黄の目盛りを越え、青い安全域へ入った。
なお細かく震える針を、俺は見つめ続けた。
ここで早まれば、すべてが無駄になる。
やがて針の揺れが収まった。
「青で安定しました! 第三環を切って!」
「待て。墓所の排出路は?」
俺が問うと、リリスは振り向かず答えた。
「開いたままです。第二環の残圧も安全域。今なら第三環を断っても、逆流は起きません」
三人で確かめた。
第一環は遮断済み、第二環は放圧済み、墓所の排出路は開放中。
ようやく、剣を振っていい順番が来た。
スーシャの合図で、俺は制御溝から聖剣を引き抜いた。
核を避け、召喚陣へつながる黒い導線だけを斬る。
剣身が根元から折れ、俺の右腕から力が抜けた。
スーシャが残る魔力を浄化し、開いた排出路へ流した。
黒い獣は叫び声を上げ、裂け目の向こうへ押し戻された。
王都を覆っていた暗雲が割れる。
ベルガンは炉室を飛び出し、階段へ逃げた。
だが踊り場には、ゾイド将軍が待っていた。
地上の救助を副官に託し、宰相の逃走を読んで別階段から回り込んでいたのだ。
「宰相ベルガン。これ以上、国家の名を借りて民を犠牲にはさせない」
「私は王国のために!」
「裁きは法廷で受けろ」
将軍は宰相を拘束した。
炉が静止すると、地下の墓碑に刻まれた勇者たちの名が淡く光った。
長く閉じ込められていた声が、ようやく解き放たれたようだった。
炉の光が消えると、魔力で補強されていた壁の継ぎ目が開いた。
装置の停止と引き換えに、地下通路を支える力まで失われたのだ。
階段の入口から石が降り始める。
梁の下でグレンが叫んだ。
「炉は止まった! 全員、階段へ! 俺が最後に出る!」
「お前も必ず出ろ!」
グレンは返事をせず、ずり落ちる梁へ肩を押しつけた。
かつて俺に刃を向けた男が、今は俺たちの退路を守っている。
俺は少年へ手を伸ばした。
「走れるか?」
「うん。自分で走る」
少年はスーシャの手を取り、階段へ向かった。
リリスは父の紋章が刻まれた石片を拾おうとしたが、瓦礫が落ちてくる。
「リリス!」
俺は彼女を引き寄せた。
石片は砕け、暗い床へ消えた。
「父の紋章が……」
「すまない」
彼女は首を振った。
「いいえ。父はきっと、私が生きて帰るほうを望みます」
ゾイドがベルガンを連れて先に階段を上がった。
少年とスーシャが続く。
俺はリリスを支え、梁の下に立つグレンの横を抜けた。
振り返ると、地下に残っているのはグレンだけだった。
「もういい、グレン!」
俺が叫ぶと、彼は梁から肩を外した。
盾はすでに割れている。
落下する石を腕の防具で弾き、崩れかけた段を二段飛ばしで駆け上がった。
俺たちがその腕をつかんで引き上げた直後、地下への入口が土煙に呑まれた。
しばらく息を整えた彼は、何も言わずリリスに外套を掛けた。
王国兵と魔族兵が一緒に担架を運ぶ姿を見て、彼女は涙を拭った。
「これが、父に見せたかった景色です」
「俺が奪った時間は戻せない。それでも、ここから先の景色は一緒に守りたい」
彼女は俺を見た。
「あなたを許したわけではありません」
「分かっている」
「でも、ここまで一緒に来てよかった」
俺は頷いた。
戦争を終わらせるという言葉は、ずっと遠い理想に思えた。
だが今、同じ担架を支える二人の兵士がいる。
この小さな光景を、二度と壊さないことから始めよう。
俺は空を見上げた。
装置は止まった。
だが、戦争を終わらせる仕事は、これからだ。




