第十六話 新勇者は十二歳、そして誰も殺したくなかった
少年ルカ・アルディアは、魔王城の客室で眠れずにいた。
窓の外では魔族の見張りが交代し、遠くの炊事場から鍋の音が聞こえてくる。
「僕が勇者にならなかったら、みんな困る?」
俺は椅子を引き寄せた。
「誰にそう言われた?」
「先生。勇者は魔王を倒すために生まれるって」
「お前は生まれたんだ。道具として作られたわけじゃない」
少年は膝を抱えた。
「でも、王宮では僕を器って呼んでた」
「器なんかじゃない。お前には名前がある。好きなものも、嫌いなものもあるだろう」
「……焼き菓子が好き」
「それはいいな」
「剣は嫌い」
「それもいい」
少年は驚いた顔をした。
少年ルカは、同じ名前で呼ばれるたび肩を震わせた。
俺が「ユリウス」と声をかけると、彼はまず周囲を見回す。
叱られるのか、何かを命じられるのかと身構えている。
「紛らわしいな」と俺が笑うと、少年は不安そうに俯いた。
「名前、変えたほうがいい?」
「変えなくていい。お前の名前だ」
少年の手には、剣を握らされたときにできた小さな傷があった。
訓練官は「勇者なら痛みを感じない」と言ったらしい。
「痛いものは痛いよ」と俺が言うと、彼は初めて顔を上げた。
「勇者でも?」
俺は手の古傷を見せた。
「俺は何度も痛かった。怖かったこともある」
翌朝、城下町へ出る前に、リリスは少年に外套を渡した。
王宮の紋章を隠すための、少し大きな服だった。
「これなら目立ちません」
「僕、角がないから魔族の町で変に思われない?」
「ここには人間の商人も来ます。それに、あなたが何者かより、何をするかを見てくれる人もいます」
少年は外套の袖を握った。
「王宮では、誰も僕に好きなものを聞かなかった」
「私も父に、魔王の娘として振る舞えと言われたことがあります」
「嫌だった?」
「怖かったです。でも、父は私が嫌だと言えば聞いてくれました」
少年はしばらく黙っていた。
「僕の先生は、嫌だって言うと食事を減らした」
俺は拳を握ったが、少年の前で怒りを見せるのはやめた。
「ここでは食事を罰に使わない。約束する」
市場では魔族の子供たちが走り回り、屋台から焼き菓子の匂いが漂っていた。
少年は蜂蜜入りと木の実入りの前で立ち尽くした。
「一つでいい?」
「二つ買ってもいいぞ」
「贅沢すると叱られる」
「今は俺が払う。自分で選んでいい」
「勇者の給料で?」
「給料はもらえなくなったけど、手元に少し残っている」
少年は初めて声を出して笑った。
菓子屋の主人は、角のある客も人間の子供も区別せず、同じ紙袋に菓子を入れた。
「またおいで」
その何気ない言葉に、少年は何度も振り返った。
町の外れへ差しかかったとき、王宮の追跡兵が道を塞いだ。
少年の手から焼き菓子が落ちた。
隊長は少年の名前を呼ばず、命じた。
「勇者器を返せ!」
「僕は……帰りたくない」
「国家のために生まれた者に、望みなど必要ない。命令に従え!」
俺は二人の間に立った。
「本人が嫌だと言っている」
「国家の所有物だ。退け、反逆者!」
隊長の背後で魔法陣が開き、少年の手首の刻印が赤く光った。
少年は痛みに顔を歪めた。
俺は聖剣へ手を伸ばしかけ、止めた。
剣で兵を追い払っても、少年の中に刻まれた命令までは消せない。
「ルカ。俺を見るな」
俺は少年に向き直った。
「俺でも、王でもない。お前がどうしたいかを言ってくれ」
「……怖い」
「うん」
「また閉じ込められるのが怖い。でも……」
少年は一歩前へ出た。
「僕は、ものじゃない!」
声は震えていたが、はっきり響いた。
手首の刻印から白い亀裂が走り、追跡兵の魔法陣が消えた。
隊長は杖を振り直したが、陣はもう結ばれない。
「契約が拒否された……あり得ん!」
「その子を連れて帰る理由はなくなった」
俺が言うと、兵士たちは顔を見合わせて退いた。
少年は落ちた菓子を拾おうとしたが、指が震えてうまく掴めなかった。
俺は新しい菓子を一つ買い、隣の石段に座った。
「怖かったから、叫んじゃった」
「怖いときに怖いと言えた。それは大事なことだ」
「僕、勇者じゃなくていい?」
「ああ。自分で決めればいい」
少年はゆっくり菓子をかじった。
少年の隣に、角の小さな魔族の子供が腰を下ろした。
「それ、おいしい?」
少年は少し迷ってから、菓子を半分に割った。
「食べる?」
「いいの?」
二人は顔を見合わせ、笑った。
追跡兵が去ったばかりの道には、まだ靴跡が残っている。
それでも少年は、初めて出会った子と菓子の味について話していた。
剣を持たなくても誰かと仲良くなれる。
その当たり前のことを、彼は今ここで覚え始めているのだ。
俺は二人の会話を邪魔せず、少し離れて見守った。
夜、スーシャは古い召喚記録を読み直した。
勇者器が契約を拒否した例はないという。
「力を与える装置は、本人の意思を想定していなかったのでしょう」
少年は薄くなった手首の刻印を見つめた。
「僕が嫌だって言ったから?」
「ええ。あなたの意思を無視して結ぼうとした契約だから、拒否できたんです」
「じゃあ、他の子も助けられる?」
俺は驚いて少年を見た。
自分が助かったばかりなのに、もう他の誰かのことを考えている。
「ああ。もし同じ目に遭っている子がいたら、探して助けよう」
リリスは少年の手に残る傷を見て、静かに言った。
「父は、誰かが泣いていたら理由を聞けと教えてくれました。この子の言葉を、王宮は一度も聞かなかったんですね」
少年は小さな拳を握った。
「僕、剣は嫌いだけど、人を助けるのは嫌いじゃない」
「それで十分だ」
その夜、少年は小さな紙に自分の名前を書いた。
最初の文字は震えて曲がっていたが、最後まで書き終えると嬉しそうに見せてきた。
「これ、僕の名前だよね」
「ああ。誰かの道具の番号じゃない」
少年は紙を枕の下へしまった。
眠りにつく前に何度も確かめるように触れていた。
俺は窓の外に目を向けた。
王都の地下には、まだ勇者を道具として扱う仕組みが残っている。
少年一人の自由を守れたからといって、終わりではない。
そのとき、スーシャが記録を閉じて顔を上げた。
「ユリウス。恐怖収集炉の出力が、急激に下がっています」
少年の拒絶が、王宮の計画に初めて亀裂を入れたのだ。
ルカは俺を見上げた。
「断ったら、僕は勇者じゃなくなるの?」
「それを決めるのは、王宮じゃない」
「じゃあ、明日は何をしてもいい?」
「まずは眠れ。明日、何がしたいか考えればいい」
少年は少し迷ってから、初めて年相応の欠伸をした。




