第十四話 魔王の娘が人間の子供を救った日
南地区の火災は、最初は一軒の倉庫から始まった。
風向きが悪く、屋根から屋根へ火の粉が飛ぶ。
人々は荷物を抱えて逃げ、狭い道はすぐに詰まった。
俺は崩れた門を持ち上げたが、奥から別の悲鳴が聞こえた。
「二階に娘が!」
母親が煤だらけの顔で叫んでいた。
リリスが駆け出したとき、俺は止める言葉を飲み込んだ。
彼女は魔王の娘である前に、自分の意思で誰かを助けようとする一人の人間……いや、魔族だ。
俺が代わりに決めることではない。
「外の人を頼む!」
彼女の声に、俺は頷いて瓦礫へ向かった。
建物の内部は熱く、呼吸するたび喉が焼けた。
リリスは闇の膜で煙を押しのけ、子供の声を探した。
「ここです!」
押し入れの奥で小さな少女が震えていた。
母親に教えられたとおり口を布で覆っている。
「お母さんは?」と少女が尋ねた。
「外で待っています。一緒に行きましょう」
リリスは声を低く、できるだけ優しくした。
外へ出たとき、少女はリリスの角を見た。
驚いて固まったが、すぐに焼けた外套を握りしめた。
「熱くない?」
その一言で、リリスの表情が崩れた。
「少しだけ」
少女は自分の小さな布を差し出した。
人間の子供が魔王の娘の火傷を気遣う。
誰かが作った敵味方の境界が、その場では意味を失っていた。
周囲の大人はそう簡単ではなかった。
石を拾う者がいて、魔族が火をつけたと叫ぶ者もいた。
俺が前へ出るより先に、母親が娘を抱いて立ち上がった。
「この人が助けたのを、私は見た」
震える声だったが、誰にも聞き間違えようがなかった。
火災のあと、俺たちは倉庫の焼け跡を調べた。
帳簿が保管されていた棚だけが不自然に燃え尽き、扉の錠は外側から壊されていた。
火事の原因を決めつけることはできない。
それでも、目撃者の証言と残った油壺は調べる価値があった。
リリスは火傷を隠そうとしたが、スーシャが厳しい顔で手を取った。
「救う人が倒れたら困ります。まず治療です」
教会が閉鎖された翌日、王都の南地区で火災が起きた。
古い家屋が連なり、風にあおられた炎は瞬く間に広がる。
避難する人々の間から悲鳴が聞こえた。
火事が起きる少し前、リリスは南地区の炊き出しで手伝いをしていた。
人間の母親たちは最初、彼女の角を見て距離を取っていた。
だが、熱い鍋を運び、泣く子をあやすうちに、少しずつ声をかける者が増えた。
「その手、火傷してるじゃない」
年配の女が薬草を差し出した。
「大丈夫です。魔族は人間より少し丈夫なので」
「丈夫でも痛いものは痛いだろう」
リリスは目を丸くした。
誰かに心配されることに慣れていないようだった。
「……ありがとうございます」
その会話を見ていた俺は、魔王城で彼女が初めて見せた強張った顔を思い出した。
人間と魔族が敵でなくなる瞬間は、大きな宣言ではなく、こんな小さな言葉から始まるのかもしれない。
火の手が上がったとき、路地の奥には老人が取り残されていた。
俺は燃える梁を持ち上げたが、煙が濃く、先が見えない。
「誰かいるか!」
「ここだ……足が動かん」
声を頼りに進むと、倒れた棚の下で老人が呻いていた。
聖剣を振れば棚ごと壁を壊せる。
しかし、隣家にも火が回る。
俺は棚を少しずつ持ち上げ、老人の足を抜いた。
背負って外へ出ると、リリスが助けた子供の母親が水を運んでいた。
「こちらへ! 濡れた布があります!」
さっきまで魔族を怖がっていた人々が、今は角のある少女の指示で動いていた。
鎮火後、町の衛兵がやってきた。
彼らは火元の倉庫を調べる前に、リリスを取り囲んだ。
「魔族がいたと聞いた。放火の疑いがある」
母親が一歩前へ出た。
「この人は、火が出る前から私たちと炊き出しをしていました」
「証言できる者は?」
「私も」「俺もだ」「子供を助けてもらった」
次々に声が上がった。
衛兵は困った顔をしたが、無理に連行することはできなかった。
俺は焦げた倉庫の床を調べ、割れた油壺と外側からこじ開けられた錠を見つけた。
「火元の調査を先にしてくれ。誰がここへ入ったか、確かめるべきだ」
衛兵の一人が頷いた。
「……記録には残します」
その短い返事が、俺には大きな一歩に思えた。
その夜、助けられた少女がリリスの宿を訪ねてきた。
母親に手を引かれ、小さな花を差し出す。
「お姉ちゃん、ありがとう」
リリスは花を受け取ったまま固まった。
「私、魔族ですよ」「知ってる。でも、助けてくれた」
少女は不思議そうに首を傾げた。
リリスは花を胸に抱き、ようやく笑った。
彼女の目尻が赤くなっていることに、少女は気づかなかった。
翌朝、少女の母親は火事の証言を書面に残した。
リリスの名も、助けられた時刻も、はっきりと記した。
「子供が中に!」
二階の窓に小さな手が見えた。
俺が駆け出すより早く、リリスが建物へ飛び込んだ。
「リリス!」
「あなたは外の人を!」
俺は倒れた梁を持ち上げ、逃げ道を開いた。
グレンは井戸から水を運び、スーシャは煙を吸った人々を治療する。
しばらくして、リリスが子供を抱いて現れた。
炎で外套は焼け、角の先には煤がついている。
「この子を!」
母親が駆け寄り、子供を抱きしめた。
次の瞬間、彼女はリリスの角に気づいた。
「……魔族?」
周囲がざわめく。
誰かが石を拾った。
「魔族が火をつけたんじゃないのか!」
「違う!」
母親が叫んだ。
「この人が娘を助けてくれた!」
リリスは何も言わず、焼けた腕を押さえていた。
俺が近づくと、小さく笑った。
「人間の子供も、魔族の子供も、泣き声は同じですね」
「……そうだな」
母親が深く頭を下げた。
「ありがとう。本当にありがとう」
リリスは戸惑いながら頷いた。
「礼なら、あの勇者にも」
「あなたにもです」
火災の原因は、配給所に隣接した倉庫の油壺だった。
後で分かったことだが、倉庫は宰相の親族が所有し、帳簿が焼失していた。
「証拠隠滅の可能性があります」
スーシャが言った。
「火をつけた者は?」
「逃げました。でも目撃者がいます」
母親は震える手で男の特徴を語った。
王宮の衛兵が着る黒い外套だったという。
その夜、リリスの救出劇は町中に広まった。
魔族は子供をさらうという噂より、実際に助けられた母親の声が強かった。
リリスは宿の窓から町を見下ろし、ぽつりと言った。
「父に見せたかった」
俺は返事をしなかった。
ただ、隣に立った。
やがてリリスが言った。
「父を殺したあなたと、助けた子の母親が、同じ町にいるんですね」
「そうだ」
「どちらの記憶も消したくありません」
「俺もだ」
窓の下では、助けられた子が母親の手を引いて歩いていた。
俺たちはその姿が角を曲がるまで見送った。




