第十三話 国王の食卓にパンがあるのに、王都の子供は飢えていた
王都の市場は、魔王討伐前より静かだった。
人々は品物を見ているのに、買わない。
いや、買えない。
パン屋の棚には小さくなったパンが並び、値札だけが大きくなっていた。
「麦が入らないんだ」と主人は言った。
「軍が買い上げる。残った分は指定商会が値をつり上げる」
俺は人目を避けて裏口から入った。
かつて凱旋した大通りには、俺を呪う落書きがあった。
隣には『勇者を返せ』と小さく書き足されている。
街の人々の心は一つではなかった。
だからこそ、俺は勝手に代表者を名乗るべきではないと思った。
スーシャは教会の厨房を借り、炊き出しの献立を考えた。
豆を柔らかく煮て麦を混ぜれば、少ない穀物でも腹持ちがよい。
リリスは魔族の薬草師から聞いた保存法を教えた。
「この葉を入れると香りが変わります。でも子供には少量だけ」
人間と魔族が同じ鍋を囲む。
それだけのことが、今の王都では勇気のいる行為だった。
食料を配る順番をめぐって、列が乱れた。
男が「俺は兵士の父親だ」と叫び、前に割り込もうとした。
俺は腕を掴まず、彼の話を聞いた。
息子は前線で行方不明だという。
「探しに行きたい。でも妻が病気で……」
俺は配給係に事情を伝え、病人用の持ち帰り分を用意した。
誰かを押しのける声の裏にも、助けを求める事情があった。
帳簿を見せてくれた商人は、指先まで震えていた。
「王宮の名が出れば、店を潰される」
俺は写しを取り、仕入れ元と輸送日を別の商会の記録と照合した。
数字は一致した。
穀物は消えたのではない。
買い占められ、隠されていた。
俺は魔王を倒すより、この事実を知ったことのほうが怖かった。
帳簿の写しを別々の神殿へ送った夜、商人の一人が俺を呼び止めた。
「記録を公開しても、明日の粉が届くわけじゃない」
「分かっている」
「なら、うちの倉から十袋出す。貸しだ。慈善じゃない」
俺はその言葉に救われた。
善意だけで店を続けられないのなら、代金と返済日を決めればいい。
スーシャは炊き出し用、パン屋用、病人用に分けて数量を記した。
誰かが列に割り込んだときも、帳簿を見せて理由を説明できるようにした。
翌朝、パン屋の窯から久しぶりに香ばしい匂いがした。
パン屋の主人は、最初に焼き上がったパンを三つに分けた。
一つは店の子供、一つは病人、残りは長い列の先頭にいた老人へ渡した。
「商売人としては失格かもしれません」と主人は笑った。
俺は首を振った。
「明日も焼けるように、仕入れを続けましょう」
一日だけ腹を満たしても、次の日に店が閉まれば同じことになる。
俺たちは食料だけでなく、働き続けられる仕組みも守ろうとしていた。
その日の昼、兵士の若者が列の後ろに立っていた。
帽子で顔を隠していたが、俺は咎めなかった。
「給金が遅れて、妹に食べさせるものがないんです」
若者は恥ずかしそうに言った。
「王宮を守る兵でも、ここに並んでいいのか」
「腹が空くのに所属は関係ない」
その会話を聞いた老人が、角のある少年を見て顔をしかめた。
「魔族にまで分ければ、うちの孫の分が減る」
少年は器を引っ込めた。
俺が口を開く前に、粥をよそっていたパン屋が鍋の底を見せた。
「今日は全員の分がある。明日の麦は、明日また運ぶ」
「明日も来る保証があるのか」
「ない。だから俺たちが運ぶんだ」
その言葉が終わらぬうちに、鍋の前で一人の少女が倒れた。
空腹で立っていられなかったのだ。
母親が駆け寄るが、彼女も足元がふらついている。
「先にこの子を」と誰かが言い、「列を守れ」と別の誰かが叫んだ。
俺は匙を置き、スーシャを呼んだ。
「医療が必要な人を先に診る。配給の列とは別に、病人の受付を作ろう」
スーシャは少女の脈を確かめ、少量ずつ温かい粥を与えた。
配給係が残りの麦を数え、顔を上げた。
「病人用を増やせば、最後尾の十人には出せません。明日の荷車を引く人の分まで使いますか」
最後尾には幼い兄妹がいた。
荷車の御者は、空腹で膝を押さえている。
俺はすぐには答えられなかった。
今夜の十人を優先すれば、明日の何十人もの食事が途絶えるかもしれない。
だが、目の前の子供を空腹のまま帰すこともできない。
「病人には今すぐ必要な量を渡す。御者の食事は確保する。俺たちの取り分を分けて、最後尾にも少しずつ届けよう。それでも足りなければ、誰が何を受け取れなかったか記録して、次の便で最優先にする」
配給係は厳しい顔で頷いた。
全員を満腹にする答えではない。
俺はその不足を、帳簿の数字として見届けることにした。
俺は配給係に告げた。
「俺たちの食事も、今決めた分量で配ってくれ。働く者が倒れないように」
リリスが俺を睨んだ。
「あなたが倒れたら、明日の荷車を誰が守るんですか」
「分かった。俺も決めた分を食べる。明日の便まで責任を持つ」
自分だけ飢えれば誰かが救えると思うのも、思い上がりだった。
老人は黙ったが、納得した顔ではなかった。
一杯の粥で長い戦争の憎しみは消えない。
それでも少年は器を差し出し直した。
その夜、教会の台所を貸していた神官が訪ねてきた。
「明日、王宮の役人が来ます。ここを使わせた私も処罰されるでしょう」
「別の場所へ移しましょう。あなたまで巻き込むわけには」
「違います。私は残ります。けれど鍋だけは先に運んでください」
神官は鍵を俺の掌に置いた。
「信仰を守るなら、空腹の子を追い返せません」
俺たちは夜明けまでに食器と穀物を分散させた。
翌朝、教会の門に赤い封印が貼られた。
『反逆者支援施設として閉鎖』
俺は封印を見つめた。
王国は、パンを配ることまで罪にし始めていた。
翌日の配給場所を探すため、俺たちは閉店した染物屋を訪ねた。
店主は鍵を持ったまま、俺たちを戸口で止めた。
「反逆者を入れれば、この店も取り上げられる」
「断ってくれていい」
俺が答えると、店主は困ったように笑った。
「断るのは簡単だ。でも、昨日うちの娘は教会で粥をもらったんだ」
奥から娘が顔を出した。
まだ小さな手に、欠けた木の匙を握っている。
「お父さん、ここなら雨が降っても並べるよ」
店主は目を閉じ、ため息をついた。
「厨房はない。水も足りない。それでもやるか」
スーシャはすぐに頷いた。
「火を使う場所は裏庭に作ります。水は共同井戸から、運ぶ人数を決めて」
「役人が来たら?」
「私が対応します」
「聖女様まで捕まったらどうする」
彼女は答えに迷った。
俺が代わりに口を開いた。
「捕まらないように準備する。でも、危険がないとは言えない」
店主は娘の頭を撫でた。
「だったら、最初から隠さずに言ってくれてよかった」
その夜、染物屋の裏庭に釜が据えられた。
パン屋は残った薪を、商人は乾いた豆を、井戸番は水汲みの順番を持ち寄った。
俺にできることは剣を振るだけではない。
そう考えたところで、グレンが笑った。
「勇者殿、重い鍋を運ぶ腕なら余っているだろう」
「そうだな」
俺は剣を壁に立てかけ、二人がかりの鍋を持ち上げた。
石畳にこぼれた水が靴を濡らした。
戦場では見たことのない、小さく確かな仕事だった。
だが、夜明け前に役人が路地へ入ってきた。
店主は娘を奥へ逃がし、俺の前に立った。
「ここは私の店だ。誰に粥を食べさせるかは私が決める」
役人は封印の紙を広げた。
俺はその紙を破りたい衝動を押さえ、命令書の日付と署名を確かめた。
奪われた厨房は取り戻せなくても、誰が奪ったかは残せる。
店主の娘が奥から小さな声で言った。
「明日も、お鍋を出せる?」
俺たちはまだ答えを持っていなかった。
それでも、匙を握る手を空のままにはしないと決めた。
店主は鍋底を木匙でかき、残った一杯を娘の前に置いた。
娘はすぐには口をつけず、外で待つ弟に半分を分けた。
俺は王の食卓を思い出した。
問題はパンがあることではない。
誰が空腹でいるかを知りながら、目をそらせることだった。




