第十二話 魔王軍の食料が尽きる前に、勇者は敵国の倉庫を開いた
倉庫の帳簿には、残り八日分と書かれていた。
だが、これは全員が規定量を食べた場合の数字ではない。
子供と負傷者に多く配り、働ける大人が半分に減らした結果だった。
厨房で働く老婆は、鍋の底をこそげながら笑った。
「若い兵は食べたふりが上手くなったよ」
笑い話には聞こえなかった。
ヴォルマは地図に赤い印をつけた。
東部食糧庫は王国軍の支配下にある。
元々は魔族の村々から徴発した穀物が集められた場所だ。
「取り戻すだけでは足りません」
と老軍師は言った。
「誰のものかを確かめ、次の収穫までどう分けるか決めなければ、奪い合いが始まります」
グレンは正面攻撃を主張した。
「百人の警備なら突破できる」
俺は首を横に振った。
「できる。でも、逃げた兵が火を放てば倉庫ごと失う」
そこで俺たちは三手に分かれた。
リリスが周囲の監視魔法を封じ、グレンが退路を確保し、俺が隊長に直接話をする。
勝利条件は敵を倒すことではなく、穀物を無傷で運び出すことだった。
倉庫の裏手へ回ると、見張りの兵が火打ち石を握っていた。
「近づくな! 接収品を渡すくらいなら焼けと命じられている!」
その背後には油の染みた藁が積まれていた。
俺が一歩踏み出すだけで、八日分の命綱が灰になる。
「お前の家族はどこにいる?」
「……王都だ」
「王都でも麦が足りなくなっている。ここを燃やしても、お前の家族には届かない」
兵士の手は震えていた。
そのとき外から悲鳴が上がった。
巡回兵に見つかったグレンが、倉庫の門を守るため一人で踏みとどまっている。
俺は兵士から目を離さず、聖剣を地面に置いた。
「俺を捕まえてもいい。だが、麦だけは焼くな」
「勇者が……武器を捨てるのか」
兵士の手から火打ち石が落ちた。
直後、リリスの闇魔法が藁の周囲を包み、火種を奪った。
グレンが門を開け、ヴォルマの荷車がなだれ込む。
「まだ勝っていない。数えて、運び切るまでが作戦だ!」
俺は兵士に、倉庫の帳簿を開くよう頼んだ。
彼はためらいながらも、村の印が押された袋を一つずつ指さした。
荷車を数えるヴォルマが、顔色を変えた。
「待ってください。橋の支柱が傷んでいます。一度に三台どころか、満載の荷車は一台ずつしか通れない」
「補修できるか?」
「できます。しかし、今夜中の全量搬出は無理です」
倉庫を奪い返したのに、ここに残せば王国軍が取り戻しに来る。
俺は倉庫の隊長を振り返った。
「ここを焼く命令が出たら、従うのか」
隊長は答えなかった。
「なら、まず今夜飢える村の分を運ぶ。残りは封印して、双方の立会人を置こう」
「敵兵を信用するのか」とグレン。
「信用じゃない。帳簿と封印を残して、破れば誰の責任か分かるようにする」
ヴォルマは残りの備蓄と避難民の増加を計算し直した。
避難民は当初の見込みより三百人増えている。
病人には粥が必要で、働く者には力のつく食事が必要だった。
ヴォルマは十二台の荷車を確認し、帳簿に搬出順を書いた。
「橋の補修班を先行させます。満載では渡れませんから、最初の便は病人用の食料を優先します」
俺は地図を見た。
最短の街道は王国軍の巡回路と重なる。
遠回りすれば二日かかるが、途中に井戸がある。
「まず、食料の少ない村へ優先して届けよう。城へ全部運ぶのは後だ」
グレンが眉をひそめた。
「城の守備兵はどうする」
「兵士にも必要な量を確保する。でも、子供を飢えさせて城だけ守っても意味がない」
しばらくして、グレンは不満そうに頷いた。
「……なら俺が護衛の配置を決める」
食糧庫の近くには、小さな農家があった。
老人が畑で折れた柵を直している。
俺が声をかけると、彼は俺の聖剣を見て固まった。
「勇者様……うちの息子は王国軍に連れていかれました」
「兵士なのか」
「ええ。魔族を討てば家族に麦が配られると聞かされて」
老人は枯れた畑を見た。
「だが、息子は帰らず、麦も来ませんでした」
俺は返す言葉がなかった。
魔族の村で聞いた話と、ほとんど同じだったからだ。
「この辺りの村にも食料を届けます」
「敵の村にも?」
「ここにいる人は、俺の敵じゃありません」
倉庫の搬出口では、荷車の順番を巡って二つの村の代表が言い争っていた。
どちらの村にも飢えた子供がいる。
「先に積まなければ、うちの村では今夜死人が出る」
「こちらだって同じだ!」
俺は二人の間に立ち、帳簿を開いた。
「近い村には今夜、遠い村には明日の朝までに届ける。荷車の積載量と護衛の数を帳簿に記して、順番を公開する」
「遠い村の子は今夜をどうする?」
リリスが問う。
俺は倉庫の干し肉を指さした。
「調理せず食べられる分を先に持たせる。護衛の馬を一頭、伝令に回す」
グレンは黙って馬の手綱を渡した。
配給の最後に、王国軍の若い兵士が帽子を脱いで俺に近づいた。
「俺たちも、村から麦を集めろと言われました。軍が飢えないためだと」
「お前は何をした?」
「命令どおり運びました。村の子供が泣いていても」
彼は拳を握った。
「今日、返すのを手伝っても、あのときのことは消えませんよね」
「消えない。俺だって同じだ」
俺は彼に帳簿の写しを渡した。
「だから記録を残す。誰が命じ、誰が運び、誰が困ったのか。後から調べられるように」
「俺の名前も書いてください」
兵士は逃げずにそう言った。
リリスは彼をじっと見つめ、静かに頷いた。
憎しみがなくなったわけではない。
それでも、互いの責任を見つめるところまで、ようやく来られたのだと思った。
最初の荷車が橋の中央に差しかかったとき、補修したはずの継ぎ目が沈み、車輪が挟まった。
荷台の麦袋が傾き、護衛の兵士がとっさに子供の見物人を橋から遠ざけた。
「重量を減らせ!」
ヴォルマの指示で袋を半分降ろしたが、橋板の軋みは止まらなかった。
一刻遅れれば、遠い村への干し肉も届かない。
俺は橋の下へ降り、傷めていない左肩を梁に押し当てた。
それでも体重を預けた衝撃が右腕に響き、指先の感覚が鈍くなる。
「勇者様、無理です!」
「俺が支えられるのは少しの間だけだ。補強材を運んでくれ!」
王国の若い兵士と魔族の荷役が、互いに名前も知らぬまま木材を運び、橋を補強した。
最初の車輪が抜けたとき、誰も歓声を上げなかった。
俺は梁から離れると右腕を押さえ、サフィアに診せるまで荷役に戻らないと約束した。
まだ後ろに十一台ある。
誰が先かを決めるたび、後回しにされた誰かが生まれる。
だからこそ、理由と約束した時刻を記録する必要があった。
橋を渡り終えた荷車をいったん止め、倉庫から同行してきた隊長に積荷の記録を確かめてもらった。
隊長は若い兵士を一人呼び寄せた。
「この者は徴発の記録をつけていた。帳簿が合っているか、立ち会わせてくれ」
兵士は震える手で袋の印を確認した。
彼の記録によれば、グラディ村から運ばれた麦は二百袋。
そのうち三十袋はすでに王国軍が消費していた。
「返せない分はどうする?」
リリスが尋ねる。
隊長は顔をしかめた。
「責任を取れと言われても、今ここに麦はない」
「なら、数字を残す。失われた分をなかったことにはしない」
俺は帳簿の写しを二通作らせた。
魔族側と王国側、それぞれが保管する。
奪った物を返すだけでは戦争の傷は消えない。
だが、何を奪ったかを認めるところからしか始められない。
先発の荷車が村に着いたとき、子供たちは歓声を上げなかった。
何度も約束を破られたせいで、目の前の麦を信じられないのだ。
村長が袋を開き、掌に麦粒を乗せて見せると、ようやく小さな手が伸びた。
「明日も来る?」
子供の問いに、俺は即答できなかった。
橋は傷み、荷車はまだ道の途中にある。
「次の便を通すために、今夜も橋を直す。約束できるのは、そこまでだ」
子供は麦を握ったまま頷いた。
俺が外套の下で右腕を押さえると、サフィアが無言で包帯を取り替えた。
「次の荷車は、私たちに任せて」
子供が掌いっぱいの麦を握るのを見て、俺はようやく頷いた。
自分が倒れれば次の便まで止まる。
届けるためには、仲間に任せることも必要だった。
救援は届けた時点で終わらない。
次も届くと信じてもらえるまで、道を守り続けなければならない。
だが、倉庫から押収した書類には別の問題が記されていた。
王国は収穫量の低下を隠し、穀物を軍へ優先配給していた。
「王都の民も、近いうちに飢える」
スーシャの言葉に、俺たちは沈黙した。
敵国の食糧危機は、すでに始まっていた。
「次の輸送は、こちらだけに回せないな」
グレンが俺を見た。
「敵国に麦を送るのか」
「王都の子供が飢えれば、また兵を募る口実になる。今度は配る相手を、軍服で決めたくない」
ヴォルマは新しい配給表の余白を広げた。
必要な数字は、また増える。




