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第五話 宝石彫刻師ナンシー

 1


 ナンシーは、偏屈者と呼ばれたいと思っている。

 偏屈者なら、人と話をしなくてもいいからだ。

 そして、職人にとって偏屈者というのは褒め言葉だと、師匠に言われたからだ。

 ナンシーは、人と話をするのが苦手だ。話の中で分からない言葉が出てくると、それはどういう意味なのだろう、ああだろうか、こうだろうかと考えているうちに、相手の話が分からなくなり、会話が続かない。

 小さなころは、父や母に、言葉の意味をよく聞いたものだった。父も母も、嫌がらずに説明してくれた。

 だが、ボドフリ村の人々は、そうではなかった。

 父のマードクは、ボドフリ山のあちこちで、いろんな花を育てていて、住み込みの助手を二人雇い、時には村人を雇って花畑を広げたり、新たな木や花を植えたりした。花を収穫して王都に売りにいくのも、父が雇った助手の仕事だった。

 父に雇われた村人たちは、ナンシーと話をすると、困った顔をした。それはナンシーが次々に言葉の意味を聞くからだったかもしれないし、ナンシーが会話についていけなかったからかもしれない。

 だからナンシーは、村人たちとはあまり話をしなくなった。

 そもそもナンシーは人と話をするのが好きではなかった。では何が好きかといえば、粘土いじりだ。父に頼むと、山のどこからか、粘土を探してきてくれる。黒い粘土もあれば、茶色い粘土もあり、灰色の粘土もあった。

 そうした粘土をナンシーはちぎってこねって、鳥や獣や人形を作った。

 父と母の姿をした人形を作ったときには、父も母も大いに喜んで、褒めてくれた。

 少し大きくなると、木彫りもするようになった。

 でも本当にやりたかったのは、宝石の彫刻だ。

 母が持っているカメオのような美しい品を作り出したい。それが小さなナンシーの夢だった。

 妹のエルザが生まれてから、母は体が弱くなり、寝込むことが多くなった。

 ナンシーは、長い時間を母の部屋で過ごした。母は、机の引き出しからカメオを取り出して、ナンシーに見せてくれた。

 金の縁にはめ込まれた翡翠のカメオは、美しい女性の姿が浮き彫りにされたもので、ナンシーはその女性を、「妖精さん」と呼んでいた。

 母の温もりを近くに感じながら、じっと妖精のカメオを眺める時間は、ナンシーにとって何者にも代え難い大切な時間だった。

 だがその幸せは長くは続かなかった。エルザが生まれた次の年に、母はこの世を去ったのである。ナンシーは十一歳で、エルザは二歳だった。ナンシーは、感情を顔に出さない子になった。

 その二年後、十三歳のナンシーは、王都の宝石彫刻師のもとに弟子入りして家を出た。ナンシーの願いを受けて、父がそのように取り計らってくれたのだ。

 家を出るとき、母の形見が二つ分け与えられた。

 一つは妖精のカメオだ。

 もう一つは、母が財布として使っていた布の小さな巾着だ。父がお金を入れてくれた。

 この二つを持って、ナンシーは王都に行き、師匠の家に住み込みで働くことになった。


 2


 掃除や水汲みや食事の支度のほか、あらゆる雑用をしながら、ナンシーの修業が始まった。

 師匠の工房には十七人の弟子がいたが、住み込みで修業する内弟子は三人目で、入門したその日から、きりきり舞いの忙しさだった。

 その忙しい仕事の合間に、彫刻の修業の課題をこなさなくてはならない。師匠は、いきなり彫刻刀と白い石と、見本のカメオを渡して、これを彫ってみろと言った。白い石はとてももろく、扱いに気をつけなければならなかった。

 数日後に出来上がったものを見て、兄弟子の一人が、似てないなと言った。

 ナンシーは不思議だった。見本のカメオに使われている宝石と、与えられた白い石は、硬さも大きさも全く違うのだから、同じように仕上がるはずがないし、無理に同じように仕上げても美しい仕上がりになるはずはない、とナンシーは思ったのだ。

 ナンシーがしたのは、カメオを見て、そこに写し取られようとしたものの全体像を想像し、その全体像を心の中で躍動させ、その姿を白い石に彫り込むことだった。

 師匠は、しばらくその作品を眺めたあと、いいとも悪いとも言わず、ナンシーに返した。そして、次の課題を与えた。

 そのうちに、兄弟子姉弟子たちが、見本にできるだけ似せた彫刻を目指していることに気がついた。兄弟子姉弟子たちは、違う材質で、見かけは見本そっくりな彫刻をすることが修業なのだと思っているようだった。

 自分もそのようにしなくてはならないのだろうかと自問したが、師匠がそうしろと言うまで、自分のやり方を変えないことにした。

 ある日、兄弟子の一人が来なかった。師匠がナンシーに、様子を見にいってこい、と命じた。ナンシーは、その兄弟子がどこから通っているか知らなかったので、そう言った。師匠は、別の兄弟子に道案内を命じた。

 来なかった兄弟子は、妹が急に熱を出して苦しんでいたので、その看病をしていたのだと分かった。帰り道でナンシーは、道案内をした兄弟子に怒られた。

「お前なあ。兄弟子の住んでるところぐらい覚えとけよ。おかげで俺まで付き合うはめになったじゃないか」

 ナンシーは、他人のことにあまり興味を持たない。兄弟子や姉弟子がどこに住んでいるのか、結婚しているのかしていないのか、そういうこともほとんど知らない。それは悪いことなのだろうか。師匠に聞いた。

「どっちでもいい。好きにしろ」

 ほっとした。師匠の言葉に救われた思いがした。

 そうだ。宝石彫刻師が大事にしなくてはならないのは、宝石を彫ることだ。それ以外のことは、どちらでもいいのだ。

 ナンシーは修業に打ち込んだ。

 与えられる素材はさまざまだった。ひどく硬い石のときもあれば、ひどくもろい石のときもあった。大きな貝殻のときもあれば、石のように硬くなった老木のときもあった。課題となる見本もさまざまだった。修業が進むほど、より難しいもの、より美しいものが見本として与えられた。

 次はどんな素晴らしい見本をもらえるだろう。

 それを楽しみに、ナンシーはひたすら彫り続けた。


 3


 十八歳のとき、作品を店に置くことを許された。つまり見習いから職人に昇格した。

 二十歳のとき、客の注文を受けることを許された。一人前の職人として扱われるようになったということである。

 二十二歳のとき、自作のカメオを父に贈った。森の女神フィロアーが木々や花々に恵みを与えている意匠の、大型のカメオだ。素材は大型の白い巻き貝だ。台座の金属彫刻も立派なもので、父への精いっぱいの贈り物だった。

 その年の暮れに、父が死んだ。

 知らせを受けて家に戻ると、父の枕元にはナンシーが贈ったカメオが置いてあった。病の床に就いてからは、いつも枕元に置いて眺めていたという。妹のエルザがナンシーに抱きついて泣いた。

 住み込みで働いていた父の助手二人が、葬儀の段取りを整えてくれた。カメオは父の棺に入れた。

 その夜は家に泊まったが、翌朝王都に帰った。締め切りのある仕事をいくつも抱えているのだ。エルザが家の前に立って、手を振ってずっと見送ってくれた。

 あとになって、ナンシーはこのときのことを、ひどく悔やんだ。

 すぐに工房に帰るべきではなかった。何年かはエルザと一緒に暮らすべきだった。

 工房の仕事は通いですればよかったのだ。

 エルザの周りには大人の人たちがいるから安心だと思ったが、それは間違いだった。

 しばらくすると、住み込みの助手二人は去った。

 村人たちも立ち寄らなくなった。

 エルザは十三歳で、一人ぼっちになってしまったのだ。どんなに心細かったことだろう。

 しかも、父が生きていた間は、王宮から年金が出ていたので、それで生活が成り立っていたが、父が死ぬと年金も出なくなった。

 そうしたことに、ナンシーは思い至らなかった。

 幸いエルザは、たくましかった。物おじしない性格だった。父から花の育て方をそれなりに教わっており、いくつかの貴族家に花を納めるのについていったこともあった。だから、売り先を見つけ、花を売って収入を得ることができた。

 はじめのころ、エルザは、王都に花を売りにきたついでに、ナンシーの顔を見るため、よく工房を訪ねてきた。あれは寂しさから、姉の温もりを求めたのではなかったか。

 そのことに気づけなかった自分には、人間として大切なものが欠けている、とナンシーは思った。

 ナンシーは、一層宝石彫刻に打ち込んだ。

 自分がまともにできることはこれだけであり、腕を磨いて美しいものを世に生み出していくことこそ、自分が生まれてきた意味だ。そう思った。

 ナンシーの技は、ますます研ぎ澄まされていった。

 貴族家からも注文が入るようになり、いくつかの作品は王宮に買い上げられた。

 独立して店を構えてはどうかと言ってくれる人もあったが、経営や仕入れの心配をするのは面倒なので、師匠のもとで職人として働くほうがよかった。


 4


 ある日、工房の用事で、アガスタンの町に行くことになった。

 アガスタンの町のとある貴族家から、工房にペンダントの補修の依頼があった。師匠はその仕事をナンシーの兄弟子の一人に振り当てた。補修は無事終わったのだが、その兄弟子は依頼者にペンダントを届けに行くのを嫌がった。そこでナンシーが、自分が届ける、と名乗り出たのだ。

 実はナンシーには、アガスタンの町に行きたい理由があった。

 愛用している巾着が、もうぼろぼろなのだ。巾着本体もつぎはぎだらけだが、それはよいとして、問題は紐だ。

 この紐は、何ともいえず具合がよい。きゅっと閉めればぴたりと閉まるし、向きを変えてひねれば簡単に開く。誠に使い勝手がよい紐なのだ。糸で補修したら、その絶妙さが失われてしまいそうだし、自分の稚拙な裁縫の針を刺すのは気が引けて、紐の部分は補修していない。だが、財布として毎日使っている品なので、日に日に劣化は進んでおり、もう使用の限界に達している。

 王都のかばん屋を三軒回って、この巾着が、アガスタンのチェルナー紐店で作られた品だろうと分かった。

 いつか機会があればその店に行きたいと思っていたところに、ちょうどアガスタンにペンダントを届ける用事ができた。工房の用事なのだから、交通費と食費と宿代は工房から出る。願ってもない仕事だと、名乗り出たというわけだった。

 彫刻以外のことに時間を使いたがらないナンシーが補修品の配達に名乗り出たので、周りの職人たちは驚いた。師匠も驚いたかもしれないが、その驚きを顔には出さず、

「いいだろう。オウェンナーを連れていけ」

 と言った。

 オウェンナーは、二十五歳の見習い職人だ。この男は、この王都でそこそこ大きな金工品の店を営む家の次男で、鋳造、鍛金、彫金などの技術を持っている。近年、金工品に宝石彫刻品を組み合わせた品が非常にはやっていることから、宝石彫刻の技術を学んでこいと、親に命じられてこの工房で修業を始めた。今回の依頼品のペンダントの補修も、鎖部分はこの男が担当した。

 だが、この工房での立場は見習いに過ぎないし、補修品の配達は技術的な説明ができる職人にさせるのが、この工房の流儀だ。だから、あくまで配達するのはナンシーであり、オウェンナーは護衛のようなものだ。もちろん、見聞を広めさせる目的もある。


 5


 朝、乗合馬車で王都ダイナオークスを出発すると、三つの村を経由して、夕方にはアガスタンに着いた。

 夕食どきに訪問するのも失礼なので、二人は配達先のおよその場所を確認してから、宿を取って食事をした。食事の前にかばん屋に寄り、チェルナー紐店の場所を尋ねたところ、あああそこかと場所を教えてくれた。

 翌日の午前中に配達先を訪問した。注文品の仕上がりに満足したようで、すぐに代金を払ってくれた。それだけでなく、くすんで汚れていた鎖がすっかり綺麗になっているのに驚いて、別の二つのペンダントの鎖も手入れしてもらえないかと相談してきた。

 依頼品を配達した先で、追加の依頼を受けるというのは、ままあることだ。ナンシーもオウェンナーも、最低限の道具は持参している。

 現物を見てから、オウェンナーは、本格的な補修をするなら、持ち帰ってしばらくお預かりすることになりますが、汚れを落として綺麗にするだけなら、今日の夕方までにできます、と答えた。

 そのまま先方の屋敷で場所を借りて、作業をすることになった。鎖のことなので、オウェンナーが担当する。ナンシーは、では夕刻に再度参ります、と言って屋敷を辞した。昼食は先方が出してくれることになるから、仕事をしないナンシーが席をはずすのは、礼儀にかなった振る舞いである。

 その足でチェルナー紐店に向かった。


 6


 古くて小さな店だった。

 開けたドアが、ぎいぎいと悲鳴をあげた。

「おや、お客さんかな? 今行くよ」

 奥のほうから声がした。

 女性の声だと思うが、しゃべり方が男性のようだ。

 出てきた人物を見て、男性だったのかと思った。

 というのは、身長が高かったし、髪が短かったからだ。

 ナンシーも、女性としては低いほうではないが、この人物はもっと高い。

 そして姿勢がよく、歩く姿が堂々としている。まるで騎士のようだと、ナンシーは思った。

 椅子を勧められたので座った。

 相手も机の向かい側に座った。

「この巾着が、このお店の品だろうと聞いて」

 机の上に巾着を置いた。

 相手は、その巾着をそっと手に取って、しげしげと見つめた。

「……これは、私の祖父の作品だと思う。少し時間をもらって、じっくり眺めたいのだが、いいかな?」

 うん、と答えると、相手はナンシーから視線を外し、巾着をいろいろな角度から眺め、紐の部分を、そっと開いたり、結んだり、指で押さえ、目を近づけて、じっくりと眺めた。

 近くで見れば、やはり女性だった。なめらかな肌理も、目鼻の造作も、艶やかな髪も、そして体から漂う香りも、女性のものでしかあり得なかった。

 年齢は、たぶんナンシーと同じくらいか、もしかしたらもう少し年下かもしれない。

 巾着をいじる、その女性の指に、ナンシーは見とれていた。女性にしては大きめの手なのだが、それ以上にすらりと伸びた美しい指だ。しなやかな動きが魔法のようだ。美しいものを生み出す指だ、と思った。

「この紐は、きりっと締まっただろうね」

「うん。軽く引くだけで、しっかりと」

「うんうん。それでいて、紐をこう斜め上に引くと、すうっと開いたろうね」

「うん。向きを変えるだけで、ふわっと」

「うんうん」

 うんうんと頷きながら、なおもじっくり眺めたあと、女性は巾着を机の上に置き、深々と息を吸い、吐いた。

「ああ。よいものを見せてもらった。祖父のちゃんとした作品は、もう残っていなくてね。まさかこんなふうに実物にお目にかかれるとは、思ってもいなかった」

「母さんが使っていたものを、父さんが私にくれた」

「ずいぶん大切に使ってくれたようだね」

「でももう限界。だから、同じ品が欲しいと思って。でも王都に住んでるので、なかなかここに来れなかった」

「どうしてこの巾着が、この店の品だと分かったのかな?」

「王都のかばん屋で聞いたら、アガスタンのチェルナー紐店の品だろうって。もう今はその店の品は入ってこないって。今回アガスタンに来る仕事があって、この店に来れた」

「ほう。似た品はいくらもあるだろうに、よく分かったものだ。それにしても、王都には、もっと綺麗な巾着がいくらでもあるだろう。どうしてこの店の巾着を買いたいと思ったのかな?」

「これと同じ紐の巾着はないから」

「……ほう」

 女性は目を少し見開いて、ナンシーの顔を見つめると、すっと立ち上がった。

「少し待ってもらえるかな」

 そう言い置いて、奥の部屋に入り、少しして戻ってくると、三つの巾着を机の上に置いた。

 いずれも、ナンシーが持ち込んだ巾着と同じほどの大きさで、一つは淡い青色を基調としていて、一つはさまざまな色の布を縫い合わせていて、もう一つは真っ赤な色をしている。結んでいる紐の色もそれぞれ違っているが、間違いなくナンシーが持ち込んだ紐と同じ作り方をしている。

 ナンシーの心に喜びが湧いた。

 探していた品にやっと出会えた喜びだ。

(お母さん。あった)

(お母さんの巾着と同じ巾着が、あった)

「お気に召したようで、何より。だが残念ながら、私の作品は、祖父のものには遠く及ばない。祖父の紐のような使い心地は感じられないと思う。そこで相談だ」

「相談?」

「あなたのこの巾着を、私に預けてもらえないだろうか。その代わり、私の巾着を一つあなたに預ける。あなたの巾着を手本にして、それに近い作品を私が作ることができたら、そのとき私はあなたを訪ねて、完成した巾着を売る。そしてあなたの巾着を返す。預けた巾着も返してもらう。どうだろうか」

 しばらく考えてから、ナンシーは返事をした。

「わかった。それで、いい。この青い巾着を預かって、こっちの赤い巾着を買う」

「ほう。同じ大きさの巾着を二つ使うのかい? 何なら大きさの違うものもあるが」

「ううん。同じ大きさのものがいい。この赤い巾着は、妹へのお土産」


 7


 チェルナー紐店を出たナンシーは、オウェンナーと合流するため、依頼主の貴族家に向かった。追加依頼の完了を確認し、追加の代金を受け取らなくてはならない。

 ところが、依頼主からは、さらに三本のペンダントの鎖を手入れしてほしいと頼まれたという。それにはもう一日かかる。

 もともと今回の仕事では、アガスタンに二泊することになっていたので、依頼品を届けたあと半日自由にできるだけの時間のゆとりがあった。ところが追加注文が入ったため、オウェンナーには自由時間がなかった。その上、もう一日滞在を延ばさなくてはならない。

 翌日いっぱい、ナンシーはアガスタンの町を見物して回り、夕刻になってオウェンナーと合流し、仕事の完了を確認し、代金を受け取った。

 その夜は宿に泊まり、翌日の朝、一緒に少しだけ観光して、弁当を買い込んで、昼前に乗合馬車でアガスタンを出発した。アガスタンから王都には、日に何本も直行便が出ている。

 当初の予定より一日遅れで王都に帰ったナンシーは、心臓の止まるような知らせを受けた。

 ナンシーが金貨一枚を盗んだ疑いをかけられたために、妹のエルザが警邏隊の詰所に連れていかれ、尋問されたというのだ。その後疑いは晴れたというが、エルザは一体どれほど恐ろしい思いをしたことか。

 矢も盾もたまらずボドフリ山の家に向かおうとした。

 兄弟子たちが、もう夕刻だから明日にしろと言った。

「ぼくがついて行きます」

 オウェンナーがそう言ってくれて、ランプを用意してくれた。

 二人は北門を出て、ボドフリ山に急いだ。

 ナンシーは突然あることに気づいた。

「この時間にボドフリ山に行くと、帰りには門が閉まってる」

「先輩の実家に泊まらせてください。だめならボドフリ村のどこかに泊めてもらいますよ」

「だめじゃない」

 ボドフリ山の家に帰り着くと、灯りがついていない。留守かと思ったが、留守ではなかった。

 エルザはベッドに倒れ込むように寝ていた。

 ナンシーが名を呼ぶと、エルザは飛び起きた。

 そして目の前にいるのがナンシーだと気づくと、抱きついて、わんわん泣き始めた。

 ナンシーは妹を抱きしめて、よしよしと頭を撫ででいたが、つられて一緒に泣き始めた。

 たっぷりと泣いて、静かになったとき、エルザのおなかが、ぐうぐうと鳴った。ナンシーのおなかもぎゅるると鳴った。横にいたオウェンナーのおなかも鳴った。

 三人は笑った。わけもなく、ただ笑った。ただ笑えることがうれしかった。

 ナンシーが夕食を作った。長い内弟子生活で、料理の腕も上がっている。

 食べながら、いろんなことを話し合った。こんなに楽しい夕食は、お母さんが生きていたころ以来だと、ナンシーは思った。


 8


 ナンシーに目標ができた。

 妹のお守りになるようなカメオを作るのだ。

 手本とするのは、母の形見である妖精のカメオだ。

 師匠に相談すると、翡翠はやめて瑪瑙にしておけ、と言われた。

 師匠によれば、妖精のカメオは北方のガフラード王国で作られたものだという。

 ガフラード王国はさまざまな宝石を産出し、名工たちを輩出してきた国だ。

 十年と少し前、アクソード王国のラクシュマリー姫がガフラード王国の第三王子に嫁いでから、アクソード王国に入ってくる宝石の量はずいぶん多くなったが、妖精のカメオに使われているような大きさと品質の翡翠はめったになく、あったとしても王家や貴族が押さえてしまう。値段も非常に高価になってしまい、とてもナンシーに買えるようなものではないというのだ。

 その点、瑪瑙は、アクソード王国では一段価値の低い宝石とされていて、庶民の間での流通量が多い。そして瑪瑙にはさまざまな色合いのものがあり、翡翠に近い緑色のものもある。時間をかけて探せば、きっといいものが見つかる、と師匠は言う。

 ここからナンシーの新しい挑戦が始まった。

 翡翠はとても硬い宝石だが、その硬さの質は一定だ。厳密にいえば、一個一個で質は微妙に違っているし、一個の石の中でも彫りの手応えが違うことはあるが、その差はごくわずかだ。

 瑪瑙は、翡翠と同じほど硬いが、一個一個その硬さが違っていて、しかも一個の宝石の中で硬さの質が部位によって違う。意外にもろい面もあり、下手に扱うと欠けてしまう。

 これまでナンシーは、翡翠も瑪瑙も彫刻してきたが、瑪瑙で妖精のカメオを作るとなれば、必要とされる彫りの細かさもなめらかさも、今までよりずっと難易度が高い。

 石探しは師匠に任せ、ナンシーは彫刻に没頭した。

 もちろん、彫る一つ一つの宝石は、全て売り物だ。師匠は、瑪瑙やその他の硬い石をナンシーに優先的に回してくれた。

 瑪瑙などの硬い石に彫刻するときには、特殊な溶液に一定時間浸したあと、神銀の刃先を持つ彫刻刀で削り、金剛石の粉で磨く。溶液に浸けられるのは一日に一度までで、そのあとの彫り時間は半刻ほどだ。素早く正確な作業が求められる。

 やはり瑪瑙を深く彫るのは難しかった。ほかの石にはない難しさがあった。

 うまく刃が通ったと思った次の瞬間、彫りごたえの違う層にぶつかり、刃筋が乱れた。

 まるで波だとナンシーは思った。揺れ動きさざめきながら、無限の変化をもって次々に立ち現れる波のようだと思った。

 こんな行き詰まりははじめてだった。それでも毎日作業は続けた。続けて続けて続け続けることでしか、この行き詰まりは突破できないと思った。

 そんなある日、妹が訪ねてきて、一緒に昼食を食べた。

 久しぶりに安らいだ心持ちになったとき、ふと思った。

(波は泳げばいい)

 何かがつかめたような気がした。

 工房に戻ったナンシーは、刻むのではなく、泳ぐのだという心持ちで、彫刻刀を動かした。

 今までと手応えが違う。

 そこからナンシーの瑪瑙彫りの技は、一気に上達していった。


 9


 春が過ぎ、夏が来るころ、石が手に入った。

 大きな瑪瑙だ。

 翡翠に似た緑色をしているが、少し青みが強く、翡翠にない透明感がある。そしてかすかながら白っぽい筋が入っている。

 支払いには貯めた給金の大半が必要だった。

 それはいいのだが、形の違いにとまどった。

 妖精のカメオは、やや平べったい翡翠でできている。

 しかしこの瑪瑙は、こんもりと盛り上がっている。

 その違いがナンシーをとまどわせた。

 何日も瑪瑙をにらみつけて悩むナンシーに、師匠が声をかけた。

「石の声を聞け」

「石の……声、ですか?」

「そうだ。こんなふうに彫りたいんですが、どうしたらいいでしょうかと話しかけて、じっと石を見ながら待つんだ。そしたら石が、こう彫ってくれ、こう彫ってくれって言ってくるから、その通りに彫ってやればいいんだ」

 師匠がこんなふうに言葉で弟子を指導することはめったにない。

 それだけにこの教えは、ナンシーの胸の深い部分に降りてきて、すっと収まった。

 ナンシーは毎日神殿に出かけ、机の上に瑪瑙を置いて、女神像に祈った。

(どうか神様。私に妖精のカメオを彫らせて)

(そのカメオに恩寵をください)

(妹の命と幸せを守ってくれる恩寵を)

(どうか神様)

 そんな神殿通いが何日か続いたある日のこと。

 祈り終えて顔を上げると、女神像がきらきらと光をまとっていた。

 ステンドグラスを通して差し込んだ夕日が当たっているのだ。

 綺麗だなと思って見ていると、女神像がぱちりと目を開けた。そしてナンシーに微笑むと、小さくなって、ふわりとナンシーの前の机に降り立った。

 夕日の輝きをまとった小さな女神は、机の上でますます小さくなると、そのまま瑪瑙に飛び込んだ。

 呆然とその出来事を見守っていたナンシーが、はっと顔を上げると、そこにはもとのままの白い女神像があった。


 10


 この日を境に、ナンシーは悩むのをやめ、猛然と作業をした。

 一週間で掘り上げた。

 金の枠は、オウェンナーが用意してくれた。代金はあとでいいと言ってくれた。

 もちろんエルザは喜んだ。

 ナンシーに抱きついて、泣きながらお礼を言ってくれた。

 エルザの喜びを見て、ナンシーの心も喜んだ。

 ナンシーは、硬い石を削ってできた粉を小瓶に詰めて、神殿に献納した。

 師匠は、宝石を削ってできた粉を弟子たちの自由にさせている。ずっと手元に置いて自分の成長の証とする人もいれば、売って小遣いにする人もいる。

 妖精のカメオを彫る準備に、高価な宝石をたくさん削った、その粉を集めたものだから、神殿に奉納するのがふさわしい、とナンシーは思った。

 そして助祭に、もしもこの粉を必要とする人がいたらあげてください、と頼んだ。

 ナンシーは、この師匠のもとにずっといて、職人として技を磨き続けていくつもりだった。

 だが、そうはならなかった。

 オウェンナーが工房での修業を終えて店に帰るとき、ナンシーに求婚した。

 二人は夫婦で作品を作り続け、のちには二人が作ったカメオが、ガフラード王国王太子の結婚祝いに選ばれるほどになるのである。


 [終わり]

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― 新着の感想 ―
姉ー!あの事件ー!あの粉ー!!
職人さんや仕事が生きがいな人って不器用な方が多いですよね。自分の職能を通してしか人に伝えられない、通じ合えない…でもその壁を越えて築けた絆はとても強く堅い。それを得られなかった、手放してしまった身とし…
第四話の裏側の話になってるの良いなー 大昔のサウンドノベル「街」を思い出しました
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