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第六話 組み紐職人キリコ

 1


 ぎしぎし、みしみしと、ドアがあげる悲鳴が聞こえた。

 誰かが店に来たのだ。

 キリコは立ち上がって、作業部屋から店のほうに向かってつかつかと歩いた。

 背の高い男性が、ドアを開けたまま、とまどったような顔をキリコに向けた。

 男性の目がわずかに見開かれた。

 キリコも、相手をじっと見つめた。

 大柄ではあるが、まだ若い男性だ。身長は高く、骨格はしっかりしている。

 この男性は貴族だ。それもかなり身分の高い貴族だ。そして騎士だ。

 向き合って立つキリコも、女性としては背が高く、歩いても立っても姿勢がよい。

 青年の銀の髪と琥珀色の目を、じっくりとながめたあと、キリコのほうから声をかけた。

「何かご用でしょうか」

「あ、ああ。ここがチェルナー紐店で間違いないだろうか」

「はい。ここがチェルナー紐店です」

「昨日、部下の騎士が財布を買ったのは、この店だろうか」

「ふむ。そうかもしれません。こちらの椅子にお座りください。ちょっとお待ちを」

 キリコは、作業部屋のほうに戻り、棚から巾着袋を一つ取ると、店のほうに戻り、小さな机の上に置いた。

「昨日、これと似た品を買っていかれた方がおられました。騎士様のようにお見受けしました」

「ああ、これだ、これだ。店頭に財布が並んでいないので、店を間違えたかと思った」

 この店は、受注生産が主で、店売りはあまりしていない。また、キリコは奥の部屋で作業しているから、店に綺麗な巾着袋などを並べていたら、こそ泥に盗まれる。だから、店の壁に、それ自体は売り物にならないような、紐や布の切れ端を、見本として吊ってあるが、商品は奥の部屋に置いているのだ。

「では、この財布をもらおう。それと、相談があるのだが」

「はい。何でしょう」

 騎士は、剣帯から剣を外し、机の上に置いた。小さな机の両側に剣がはみだしている。

「この剣の柄の握りの部分をあつらえてもらえないだろうか」

 キリコは、剣の柄の部分をじっと見た。

 獣の革かと思ったが、違う。たぶん、ガーグルとかいう、大きな魚の皮だ。ざらざらしているので、滑りにくい。厚みもあるので握りごたえがあるだろう。

 それにしても、よく使い込まれている。それだけ傷みも激しい。複雑なよじれがあり、裂け目がある。これはもう限界に近い。黒っぽいしみは血の跡だろう。敵の血なのか、そうではないのか。

「父から譲り受けた剣なのだが、握りの部分がずいぶん傷んでいる。そろそろ張り替えねばならんと思っていたところ、部下の財布の紐を見て思ったのだ。この職人の組み紐を張ってもらえばいいと。この財布を作った職人は、今手が空くだろうか」

「それを作ったのは私です」

「なにっ。それはありがたい。それで、握りの作り直しを頼めるだろうか」

「今までにも五度ほど、剣の握りをこしらえました。この剣の柄の形なら、組み紐で握りをこしらえるのは可能です」

 それから打ち合わせをしたが、なんとこの騎士は、明日の朝にはこの町を出発しなくてはならないという。となると、試しに紐を巻いて握ってもらって厚みの調整をするだけの時間がない。今の握りより太めでいいという大雑把な条件で仕事をすることになった。

 騎士は剣をキリコに預けていった。

 この剣は、相当の値打ち物だ。それを今日初めて会った職人に一晩預けるというのだ。

 しかもこの剣は、父親の形見のようなもののはずだ。それをキリコに預けたのだ。

 誠心誠意の仕事で、その信頼に応えようと、キリコは思った。

 もとより依頼を断る気はなかった。

 どんな無理をしてでも、騎士の青年の要望に応えるつもりだった。

 あの青年が戦いに臨むとき、少しでも力になれますようにと、そう願いを込め、作業を始めた。


 2


 まず、破損しかけているガーグルの皮をナイフで切り取り、柄に残った皮と膠をヤスリで削った。乱暴な方法だが、時間がないからしかたがない。

 そのあと、蒸留酒を布に浸して汚れを拭き取った。

 次に、組み紐の作成だ。

 作り置いた組み紐には適当なものがない。革鎧の繋ぎ用に作った組み紐が近いといえば近いが、もう少し強度を出したい。

 色味をどうするか、一瞬悩んだ。色とりどりの高級そうな仕上がりにしようかとも考えたが、深い紺色一色に統一することにした。ただし、輝きのある糸を混ぜる。

 組み台を作業台の上に置き、紐を装着し、おもりを付ける。細い紐が三本とやや太い紐が三本だ。すっすっすっと組んでゆく。

 二回に一回、つまり細い紐を組むときに、手を小さくぐるりと回す。これが秘訣だ。

 次に、極細の紐十二本で一本の紐を組んだ。

 組み紐ができたので、いよいよ柄への巻き付けだ。

 この柄は、手元の部分に穴が空いており、握りの上下にぎざぎざの窪みがある。巻き付けた紐や貼り付けた皮がずれにくくするためだ。

 紐で柄ごしらえを作るとき、一部分が擦り切れたり、刃が当たって切れたりしても、巻き付けが緩んだりはずれたりしないようにしなくてはならない。そのため、二種類の紐を交互に編み込むようにして巻き付けるのだ。

 ランプが照らす静かな部屋の中で、キリコは作業に没頭した。


 3


 キリコの祖父は名人といわれた組み紐職人だった。組み紐には、装飾を目的にしたものと実用的なものがあるが、祖父はひたすら丈夫で使いやすい実用品だけを作った。

 九年前、父が死んで、十七歳のキリコは母と一緒にこのアガスタンの町に帰ってきて、祖父の弟子になった。だが、すでに祖父は年老いていて、指が震えて精密な仕事ができなかったし、頭の働きもずいぶん鈍くなっていた。

 それでも組み紐の手順は教えてもらえたし、ぽつぽつとしゃべる言葉のなかから貴重な知識も得ることができた。

 驚いたことに、母も叔父も、祖父の全盛期の作品を持っていなかった。次々に新しい作品を祖父が渡すので、古い物は処分していったのだ。

 十年前、二十年前の作品は残っていて、それはそれでよいものだったが、もっと若い時代の作品が見たいと、常々思っていた。

 その願いがかなったのは三年前のことだ。王都に住むナンシーという宝石彫刻師の女性が、祖父の若いころ作った巾着袋を持ってきてくれたのだ。

 それを借り受けることができた。

 もうぼろぼろに劣化していたが、巾着袋に使われた組み紐には、ちゃんともとの組み目が分かる部分も残されていたので、キリコはそれを食い入るように眺め、いじった。

 素晴らしい組み紐だった。

 しなやかなのに張りがあり、柔らかであるのに強かった。

 見ているうちに気がついた。この組み方には、遊びがある。

 それまでキリコは、組み紐は隙間なく組み上げていくものだと思い込んでいた。

 だが祖父の組紐には独特の遊びがある。それは、隙間というほど広くはなく、組みにずれを生じさせるほど自由ではないが、紐のある部分に強い力がかかったとき、他の部分にその力を分散させるような仕組みになっているようだった。

 どう組めばそうできるのかは分からなかった。しかし見本があるのだ。試行錯誤を繰り返した。

 そんなある日、ふと思い出した。祖父が組み方を教えてくれたとき、紐を持つ右手を意味もなく回していたことを。老いで手が震えるのだろうと思っていたが、本当にそうか。

 それが糸口になり、キリコは、新しい境地に進むことができたのだった。

 できた組紐を、病床の祖父に見せた。

 喜んでくれた。

 王都に行って、ナンシーに借り受けた巾着袋を返した。

 しばらく王都を観光してアガスタンに帰ってほどなく、祖父が死んだ。

 それが昨年のことだ。

 こうして本当に満足のいく組み紐が作れるようになった。

 それを待っていたかのように、青年騎士が訪れ、自分の命を預ける剣の握りのこしらえを依頼してきた。

 よくぞ今来てくれた、とキリコは思った。


 4


 みしみしぎいぎいと、ドアがけたたましく音を立てた。

 その音を聞いて、キリコは意識を取り戻した。

 仕事を仕上げたあと、そのまま机に突っ伏して眠ってしまったのだ。

「ご店主。おられるか。ご店主」

 青年騎士の声が聞こえる。

「ふあーい」

 出た声は、我ながら情けない声だった。

 その情けなさに、はっきり目が覚めた。

 がばりと起き上がり、剣を持ち上げた。

「うっ」

 騎士の剣は重い。

 キリコは女性としては体格のよいほうだが、寝起きの体で急に持ち上げた剣の重さは、ずしりと腰に響いた。

 ふらつきながら、作業部屋を出て店のほうに歩いた。

 体を横に向け、剣が戸口にぶつからないよう気をつけ、店に入った。

 青年は店に入ってドアを閉めていた。

「おおっ。できたのか。ご無理をさせた」

 そう言われて、自分がどんな姿をしているかに思い至った。

 顔も洗っておらず、髪も整えていない。目には目やにがこびりついている。服は昨日のままで、近寄れば汗臭いはずだ。なるほど、いかにも無理をした風体をしているだろう。

 対する青年はといえば、今日は全身を上質な鎧に包み、まさに騎士といういでたちである。その装いにはわずかな隙もない。よい香りさえ漂ってくる気がする。

 赤面した。だが、こうなった以上、恥ずかしがっていてもしかたがない。開き直った。

「お預かりした剣をお返しします。お検めください」

 そう言ったまま、キリコはその場を動かず、にっこり笑った。

 腰がずきずき痛んでいる。

(お前が取りに来い)

 と念じた。

「失礼する」

 机を躱してキリコに歩み寄ると、青年騎士は剣を受け取った。

 理不尽な重さから解き放たれ、キリコはほっとして力を抜いた。

「おおっ。見事な。店主。ここで抜いてみてもよいか」

 勝手にしろ、と口にしかかって、キリコは口をつぐんだ。どうも朝の自分は不機嫌だ。気をつけないと、とんでもないことを言いそうだ。

 無言を了承と取ったのか、青年騎士はドアのほうに向きを変え、剣をすらりと抜いた。

 そして、左手に鞘を持ったまま、右手で握り具合を確かめると、少し左右に振ったあと、剣を振り上げ、恐ろしい勢いで振り下ろした。

(嘘だろう?)

(あのクソ重い剣を片手で振り回すだと?)

 振り下ろした剣は、小さな机の上でぴたりと止められた。

 この小さな部屋の天井にも壁にも当てず、勢いよく剣を振り下ろし、ぴたりと静止して小揺るぎもしない。

 その姿は、頼もしくもあり、恐ろしくも美しくもあった。

 斜め後ろからその青年騎士のたくましい背中を見つめながら、死んだ父を思い出していた。

 父もたくましい人だった。

 父も美しい人だった。

 父もこのように恐ろしい人だったのだろうか。

 父が死んだのはキリコが十七歳のときだったが、父がずっと家にいたのは四歳のときまでで、それからは時々帰ってくるだけだった。だからこそ、父の姿は懐かしく慕わしい。

 青年騎士は、剣を鞘に納め、ためつすがめつよくよく検分したあと、剣帯に剣を付け、キリコに向き直った。

「素晴らしい仕上がりだ。店主、あなたは……」

 そこで言葉を止めて、青年騎士はじっとキリコを見つめた。

 青年騎士とキリコの間は、一歩ほどしか離れていない。

 息がかかる距離で見つめ合うには、少しばかりまぶしすぎる。それほど、青年騎士は存在が輝いていた。

「あなたは……とても姿勢がよいのだな。すらりとして、きりっとして、まるで……」

 まるで、のあとの言葉は出てこず、見つめ合ったまま、しばらく時間が過ぎた。

 しんとした部屋の中に、ぐぎゅるる、という音が響いた。

 キリコのおなかが空腹を訴えたのだ。

「し、失礼した。これは代金だ」

 青年騎士は懐から巾着袋を出して、金貨一枚を机に置くと、かつんかつんと音をさせてドアのほうに大股で歩いた。

 失礼したのはキリコのほうだが、女性の腹の音を聞いて動揺した青年騎士は、撤退を選んだようだ。

 ドアを開けかけて、青年騎士は、わずかに振り向いて言った。

「あなたとは、どこかでお会いしたことがあっただろうか?」

「いえ。一度も。あなたとは、昨日初めてお会いしました」

「……そうか」

 開きかけたドアを大きく開き、青年騎士は店の外に出た。

 ぎいぎいと音を立ててドアが閉まる。

「行くぞ」

「はい」

「はっ」

 部下たちを連れてきていたのだろう。三頭の馬が店の前から去っていく気配があった。

 こんな狭い路地に三頭も馬がたむろしていたら通行人が困るだろうが、と思ったが、今さらどうしようもない。

 机の上の金貨を引き出しにしまった。

 金貨一枚というのは多すぎるが、そのまま受け取っておくことにする。

 キリコは作業部屋に戻った。ずきずきする腰のうずきが、先ほどまでの出来事が現実だと教えてくれる。

 戸棚から、祖父秘蔵の蒸留酒の瓶と、その横に置いてあったガラスの盃を取り出すと、盃を作業台の上に置いて、蒸留酒を少しばかり注いだ。

 盃を持ち上げると、何とも言えないよい香りが漂ってきた。

 淡くにじむような青色の盃に、琥珀色の銘酒がよく合う。

 さらに盃を持ち上げると、鼻腔を煙臭と酒精が満たした。

 目の高さに盃を掲げ、虚空を相手に乾杯した。

「弟よ。君に幸あれ」


 5


 アガスタの下町の組み紐職人の娘だった母が、クルボアの領主である貴族家の三男と、どうして出会い、恋に落ちたのか、詳しいことをキリコは知らない。母に聞いてもよいのだが、別段聞きたいと思ったこともない。

 とにかく、父は母を連れてクルボアの町に帰り、ガスターという家を起こしてランフォード家を出た。

 こんな自由が許されたのは、兄が二人いたということもあるだろうし、アクソード王国の北の辺境といってよいクルボアの気風が、王都のように堅苦しくなかったこともあるだろう。

 ところが、次兄が死に、長兄も死に、父はランフォード家に戻らなくてはならなくなった。しかも、長兄の妻だった女性を娶らなくてはならなくなった。

 長兄の妻は、王都の有力貴族の娘であり、次期ランフォード家当主の母となるべき人だったというから、これはもうそうするしかなかったのだ。

 四歳だったキリコはよく覚えていないが、このとき、側室としてランフォード家に入るという選択肢を母は断ったようだ。あとになって、侍女からそういう話を聞いた。

 母はガスター家にとどまった。父はランフォード家に復籍したのだが、ガスター家の当主も兼ねていたようだ。その辺りの詳しいことをキリコは知らないが、とにかくこの時点では、母もキリコも貴族だったようだ。

 時々訪ねてくれる父が、キリコは大好きだった。

 その父が死んだ。

 オブリク王国との国境に接する地域を領有するランフォード家は、常にオブリク王国の侵攻に備えねばならない。特に、リグラ村の領有権を巡って、しばしば紛争が起きている。

 ランフォード家の男たちは、皆騎士になり、騎士団を率いて侵略者から国を守るのだ。

 それにしても、次兄、長兄、父と、ランフォード家の三人の子が全て戦場で死ぬというのは、少し異常なことのように、キリコには思える。

 次期当主になるべき人たちなのだから、戦場に出るとしても、最前線ではなく、後ろから騎士団を指揮するものではないのか、とキリコは思う。

 もっとも騎士団の戦い方や、貴族の戦場での常識について、キリコは何も知らないから、それが本当に異常なことなのかどうかも分からない。

 とくかく父は死んだ。

 母はキリコを連れて祖父や叔父一家の住むアガスタンに戻った。このとき母とキリコは平民に戻ったようだ。

 これも侍女から聞いた話だが、ランフォード家当主は、自分の孫であるキリコに会いたがったが、母が頑なに断っていたらしい。

 ランフォード家当主からは、何度もキリコに贈り物が届いた。服は売り払ったが、宝石は今も持っている。ただし、身に着ける機会はない。

 あとで思ったのだが、もしキリコが男だったら、ランフォード家はキリコを騎士にしていただろう。

 また、父がランフォード家に復籍したとき、母が側室となることを選んでいたら、キリコは婿を取り、男の子が生まれれば騎士になっていたのではないか。

 さらに、父が死んだあと、クルボアにとどまったら、やはりキリコが婿を取ってガスター家を存続させることになったのではないか。

 キリコは、ランフォード家直系男子である父の娘なのだから、そういう役割を期待されても不思議はない。

 キリコは、時々しか会えない父への思慕からか、妙に男性的なしゃべりかたや立ち振る舞いをするよう育ってしまったが、夫や息子が殺し合いをすることには、とても耐えられなかっただろう。

 だから、母の選択には感謝している。

 それに、こちらの祖父も喜んでくれた。可愛い孫が帰ってきたばかりか、娘も息子も継がなかった組み紐の技を孫娘が継承してくれるというので、祖父はとても喜んでくれた。

 父がかなりの財産を残してくれたし、クルボアを離れるとき、ランフォード家は多額の援助をしてくれた。だから母もキリコも一生遊んで暮らすことができる。

 しかしそんな生き方をしたいとは思わない。組み紐を作って売る今の生活に、キリコは満足している。母も花と野菜を育てて、それなりの収入を得ている。

 ただ一つ心残りがあるとすれば、弟に会えなかったことだ。

 ランフォード家に復籍した父が、兄嫁だった人を妻にして男児を儲けたということは聞いていた。確かキリコより六歳年下だ。

 名は知らない。その下に弟や妹がいるのかいないのかも知らない。

 だが間違いなくキリコには血を分けた弟がいるのだ。

 できるものなら一度でいいから会ってみたい、と心のどこかでいつも思っていた。

 だが弟は、クルボア子爵ランフォード家の継嗣であり、ランフォード家当主が死去したら、子爵位を継ぎクルボア領主となる人だ。アガスタンの下町の平民に会える相手ではない。

 その弟に会えた。

 父に瓜二つの姿をしていたから、会った瞬間にそうと分かった。

 声も父にそっくりだった。

 弟は、自分に姉がいるということを知っているだろうか。

 貴族の妻というものは、自分の息子に、お前には腹違いの姉がいるということを告げるものだろうか。

 分からない。

 母とキリコが平民に戻ったとき、弟は十一歳だったはずだ。そのときまでなら、キリコはランフォード家の分家であるガスター家の娘だったが、それ以降は縁が切れた。

 だから、それ以降は、弟にキリコの存在を教えようとする必然性はないように思える。問題は、それまでに誰がか教えたかどうかだ。

 分からない。

 ただ、弟の様子からすると、ここに来たのはまったくの偶然だろうとは思う。

 その偶然のおかげで、弟に会うことができた。話もできた。剣の柄ごしらえを整えて渡すこともできた。自分が弟にできる、たぶん最大の贈り物だ。ごく自然な形で、その贈り物を渡すことができた。

(今日は実にいい日だ)

 キリコは、朝っぱらから二杯目の蒸留酒を盃に注ぎ、運命の女神に乾杯した。


 6


 弟に会ったことを母に話そうか話すまいかと思案しつつ、結局話さないまま数十日が過ぎたある日、突然弟が再来した。

 今日は礼と追加の依頼にやって来たと言うと、勧めもしないのに椅子に座り、いやあ店主今日は天気がよいと思わんかと、ずうずうしくも暗に茶を要求した。

 キリコが茶を出してやったら、驚いていた。

 それはそうだ。この店は古ぼけて倒壊寸前の、まことに小さなあばら屋に見える。いや、実際そうなのだが、キリコは金には困っておらず、茶葉は非常によいものを常用している。王家が使うような高級品というわけではないが、地元で珍重される名茶だ。茶の淹れ方はランフォード家から派遣された侍女直伝である。

 弟は、自分はクルボア子爵の継嗣エルハンド・ランフォードである、と名乗った。そして、その名乗りに微塵も驚いていないキリコに驚いた。

 そのあと、茶を飲みながら弟のエルハンドが話す内容を聞いて、キリコは血の気が引くのを感じた。

 またもリグラ村を巡ってオブリク王国との戦いがあった。クルボア騎士団を率いたのがエルハンドであり、敵のミングハム騎士団を率いていたのがオルバ男爵だ。

 三度戦って決着がつかず、大将同士の一騎打ちで勝敗を決めることになった。

 若く精悍で闘志にあふれる二人の力は拮抗し、一進一退の攻防が続いた。

 打ち合わせる剣は欠け、飛び散った剣のかけらが顔を傷つけ、肩や腕は斬撃を受けて傷だらけになった。

 重い剣の強烈な打撃により、兜が額を傷つけ、流れる血で視界が遮られた。

 それでも戦いは終わらなかった。

 最後の力を振り絞って二人が剣を振りかぶったとき、エルハンドは疲労のあまり右膝がこわばって、態勢が崩れた。

 ここぞと振り下ろす相手の剣を、かろうじて柄の部分で受け流した。

 そのとき、敵の剣が血でずるりと滑った。

 倒れ込みながらエルハンドは、隙だらけの敵に剣を突き込んだ。

 エルハンドの剣も血まみれだったが、チェルナー紐店店主が心を込めて編んだ柄ごしらえは、血糊に滑ることもなくしっかりと手に吸い付いた。

 剣は相手の喉をとらえ、鎖帷子を突き破って後方に突き抜けた。

 戦いはアクソード王国の勝利となり、敵はリグラ村から撤退し、一年間は侵攻しないと誓った。

 この功績と、これまでに積み重ねた王家への忠義により、ランフォード家は伯爵への陞爵が決まったのだという。

 見れば、エルハンドの顔は傷だらけで、軟膏が貼り付けてあったり、腫れ上がったりしている。おそらく、肩や腕にもかなりの傷を受けているのだろう。

「そして、こたび、恐れ多くも王陛下より直々に、この名剣を賜ったのだ。ついては、この柄ごしらえを頼みたい」

「王陛下より賜った名剣を実戦で使うおつもりですか? というか、すごく立派な柄ごしらえでありませんか」

「私は店主の組み紐で柄ごしらえをあつらえてもらいたいのだ」

「それは王家の命により名のある職人があつらえたものでしょう。その技と名誉と手間暇を無にするような真似を、私にさせるおつもりですか」

「い、いや。そういうわけでは」

「では、ご用はお済みですね。私は忙しいので、とっととお帰りください」

「いや、もう少し、いろいろな話をだな」

「出て行けと言ってるんです」

「お、おお?」

 銀の髪を振るわせ、琥珀の目に怒りの炎を燃やしながら、キリコは、ぐずるエルハンドを追い出した。

 店の前には五人の騎士と六頭の馬が待機していた。

 こんな場所でたむろすんじゃない、という気持ちを込めてにっこり笑顔を見せ、店のドアを閉めた。

(心配させやがって、バカ弟が)

(お前はお前の世界で幸せに暮らせ)

(もう二度と来るんじゃないぞ)

 キリコは小さな声でそうつぶやいたが、心のどこかで、また来るかもしれないなと思った。


 [終わり]

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― 新着の感想 ―
キリコさんが期待通りのキャラクターでにやついてしまいました。長身で男のような話し方、貴族家の出でありながら平民として身につけた技能で暮らしているところ、なんとなく『狼は眠らない』のノーマさんを彷彿とさ…
やはりこの方の書くお話は素晴らしいと思います。これほどの作品にはなかなか会うことは出来ません。一線を画すというか、レベルが違うと思います。読んだ後に気持ちが良くなっています。
レビレート婚が出てきて脳内の情景が一気にアジアン風になりました。調べてみたら(一般的ではないとはいえ)ヨーロッパ世界でも事例あるようですね…歴史は深い! キリコのお母様は武門の出ではありませんし、戦で…
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