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28話 忘れえぬ人


ふわ、と蝋燭の焔が揺らめいた。

フロウライト伯爵夫人、クリソプレーズはその慈愛あふれる面をあげる。


「ただいま、私の可愛い奥さん」

「まあ、旦那様…。いつお帰りに? 気が付きませんでしたわ…」

「たった今だよ。馬を飛ばして来たからね。今日はいつもより早く帰ってこれた。手紙かい?」


フロウライト伯爵は大きく腕を広げて最愛の奥方を迎える。

クリソプレーズは娘のパールとよく似た笑顔で彼の腕に身を埋めた。


「ええ。実家のお父様に。ところで、話し合いは如何でしたの?」

「ああ、エレスチャレ子爵に肩入れしていた代官がこちらの味方になったよ。次の会議では、鉱山開発の件は進められそうだ」

「ようございました」


そこまで言って、フロウライト伯爵はその端正な甘い顔を歪ませた。


「まったく、あの男も周りの思惑に乗せられやすい。父親そっくりだ。ソーダライト商会もまさかエレスチャレ子爵につくとは…」

「そのおかげであの子がいなくなって良かったではありませんか」


クリソプレーズの言葉にフロウライト伯爵はため息をつく。


「あの忌々しいプラティナの子だが、オニキス・ソーダライトの孫だ。会頭たるオニキスの影響は大きい。鉱山開発のソーダライト商会の利益配分はできれば抑えたいが、開発が始まるまではオニキス・ソーダライトの支援は必要なのだよ」


夫の言葉を聞き、クリソプレーズは心の中で呟く。今日一回目、と。


「あの娘も久々に会ったがプラティナそっくりだった。気の強そうな瞳だ。あの湖水の色まで同じとはな。まあ、あの瞳の色は美しいが。…プラティナを思い出すと腸が煮えくり返る」


--今日、二回、いえ三回目。でも、あなたはプラティナが生きているうちは下にも置かない扱いだった。

クリソプレーズはまた数えた。夫が前の妻の名前を口にするのを。



クリソプレーズはよく覚えている。

あの女が初めて自分たちの前に現れた日を。あの、運命の夜会を。




****




クリソプレーズとジラソル・フロウライトは幼いときからの許婚だった。

美しいクリソプレーズとジラソルは一対の絵のよう、と若いときから周囲に誉めそやされていた。

互いに伯爵家に生まれ、爵位の釣り合いも取れていたし、財産的な面でも釣り合っていた。

二人に障害など見受けられない。

あの夜までクリソプレーズはそう信じていた。


その夜会は最近力を付けて来ていた子爵家の主催で、貴族だけでなく富裕層の子弟も招待客にいる。

若い者たちには人気の夜会で、流行の発信元になっていた。


クリソプレーズとジラソルはその夜会には初参加だった。

顔なじみの貴族の友人たちも皆その夜会に参加しており、いつもどおり楽しく過ごすことができた。

酒を取り、ダンスの輪に入り、宴もたけなわという頃、会場から息を呑む声が聞こえた。

どうやら遅れて来た招待客が来たらしい。

子爵自らが迎え、手をとりダンスホールに現れた。


「どうしたの?」


クリソプレーズが隣にいた友人に聞く。

彼女は頬を紅潮させていた。


「ソーダライト嬢がいらっしゃたの…! あの方病弱だからあまり夜会には参加なさらないのに! 見て、なんて綺麗な方…!!」



--今までクリソプレーズは自分の前で他の女の賞賛を聞くことなどなかった。

クリソプレーズの美しさは群を抜いていたから。

蜂蜜のような金の髪、空色の瞳、薔薇色の頬。すべて、精霊の祝福を受けたような瑞々しさを放っている。

だが、今 目の前の友人はそのクリソプレーズのことなど目に入っていない。

彼女の視線の先を辿ると、そこに夜の女王がいた。


銀の緩くうねった髪を結い、湖水の澄んだ瞳のその令嬢は、その場の支配者だった。

周囲の誰もが彼女に跪きたがっていたのがわかった。

自分もその引力に屑折れそうになる。


クリソプレーズは己の思い上がりを恥じた。

この世には、自分と次元の違う女性がいると--。


そのとき、クリソプレーズは気が付いた。

ジラソル・フロウライトの視線の先を。

クリソプレーズは今まで覚えたことのない不安と恐怖にさいなまれる。

彼が今どんな顔をしているか見たくなかった。

そして、その視線の先のプラティナ・ソーダライトもジラソル・フロウライトを見ていた。

彼女はその瞳を一瞬見開き--赤い唇の口角をあげた。

まるで、下弦の月のように。



それからはクリソプレーズには悪夢だった。

プラティナ・ソーダライト。彼女は嵐だったのだ。


クリソプレーズは愛しい恋人をその暴風に奪われた。




****




クリソプレーズ・フロウライトは自分を労わり自室に戻る夫の背中を見送り、再び手紙の続きを綴り始めた。手紙の宛先は実家のハーキマー伯爵家。

先日届いた、父からの手紙の返信だ。


「…エレスチャレ子爵家ではアイアンディーネは追い出されたそうね…。うふふ」


ハーキマー伯爵家はクリソプレーズがフロウライト伯爵家から婚約破棄されたとき、酷い屈辱を味わっている。


成金のソーダライトはハーキマー伯爵家にとってそのとき、憎い仇になった。

それから純粋な伯爵令嬢であったクリソプレーズは変わった。

金にものを言わせ伯爵夫人の座を娘に買ったオニキス・ソーダライトを憎み、仕方のないことだと婚約破棄を迫った前フロウライト伯爵を嫌悪した。

そして、なにより、自分と関係を持ち、プラティナ・ソーダライトを罵りながらもその存在に確かに惹かれていたジラソル・フロウライトを許せなかった。

愛しているからこその激しい憎悪を、ジラソル・フロウライトにクリソプレーズは抱いていた。


それでも、プラティナが死んで、クリソプレーズは心底ホっとした。

もうこれでジラソルを惑わす者はいないのだと。


彼女の死後すぐの婚儀に周囲は眉を潜めたが、クリソプレーズは念願のジラソル・フロウライト伯爵の正妻の座に満足していた。


だが、ある日、ジラソルの書斎の奥に隠し部屋があることを知り、こっそりそれを覗いたとき、彼女は再び忘れていたオニキス・ソーダライトへの憎しみを掘り起こした。


彼女の行動は早かった。

何も知らない執事を通して紹介したメイドにオニキス・ソーダライトに毒を盛らせた。

メイドは自分が始末されるとは思っておらず、大金を喜んで受け取りクリソプレーズの言うとおりオニキス・ソーダライトに薬を混ぜた茶を出し続けた。

メイドを殺害したのは、実家が雇った者たちだ。

その金を出したのはクリソプレーズであり、フロウライト伯爵に資金援助しているオニキス・ソーダライトの金が巡りめぐって彼自身を害したことにクリソプレーズは溜飲を下げた。

…幸い、この事件についてクリソプレーズが疑われることはなかった。


だが、オニキス・ソーダライトは一命を取り留める。

その後オニキス・ソーダライトの警護は厳しくなり、二度目のチャンスはないとクリソプレーズ・フロウライト伯爵夫人は歯噛みした。


だが、その数年後、偶然見かけたアイアンディーネに戦慄した。

プラティナとあまりに似ているその姿に、クリソプレーズ・フロウライト伯爵夫人は恐怖を覚える。

そのときまで、オニキス・ソーダライトに怒りと憎しみを抱いていても、アイアンディーネに対してクリソプレーズは無関心だった。だが、その容姿はプラティナを思い出させた。

この娘をフロウライト家に置いてはならないと。

再び、クリソプレーズの人生に波乱が起きると慄いた。

魔力取得の儀式で彼女が無事であったことにも驚きを隠せなかった。

儀式には『呪い』が現れたと聞いた。

これはしめた、と思ったものだ。

少なくともアイアンディーネは魔力を得られない。公的にはアイアンディーネが長女なのだ。あれが魔力を無事得ていれば、可愛いパールにこのフロウライト伯爵家を継がせることができないのだ。

上手くすれば、アイアンディーネの命の灯火も、魔力と伴に『呪い』が食い尽くすかとほくそ笑んだ。


だが、アイアンディーネの夢に入り込み、アイアンディーネの魔力を残らず貪るかと思われた『呪い』は彼女の中で消失した。

魔導師の言うには『呪い』に打ち勝ったのだろうと。

貴族としての魔力を得ているか確認したところ、魔力量は平民レベル。跡継ぎに相応しい魔力量ではなかった。

これにクリソプレーズは安心はしたが、このとき、アイアンディーネの生命力に不安を覚えたのだ。

夫のジラソル・フロウライト伯爵はアイアンディーネに憎しみに近い感情を持っていることは知っていた。

だが、安心は出来ない。

もし、このままアイアンディーネが育てば母親のプラティナにきっと瓜二つになる。

プラティナのあの引力をこの娘が受けついでいたら、きっと、またクリソプレーズの平穏が脅かされるのだ。


…クリソプレーズ自身も、プラティナに逆らえなかったのだから。


クリソプレーズ・フロウライト伯爵夫人はそのため、画策した。

まず、オニキス・ソーダライトと同様、毒で殺害も考えたがアイアンディーネの乳母や主治医に隙がない。

それで、ジラソルに取って代わろうと野心を持つ代官たちに目を付けた。

フロウライト伯爵領には複数の代官がいて、彼らが税の徴収人だ。

その中のエレスチャレ子爵は代替わり前からフロウライト伯爵家の領地経営に口を出しすぎる。

しかも、あのオニキス・ソーダライトも最近なにかと金銭の使い道にうるさい。


(ならばこうしましょう。

エレスチャレ子爵にアイアンディーネを押し付け、それでオニキス・ソーダライトを黙らせればいい。あの男は貴族と縁者になりたいだけの下品な成り上がりなのだもの。

鉱山開発をジラソル主導でフロウライト伯爵家に有利に始めれば、オニキス・ソーダライトもこのフロウライト領の経営に口出しできなくなるわ。

エレスチャレ子爵もジラソル・フロウライト伯爵の義理の息子となれば、ジラソルに口出ししなくなるでしょう…。でも、それでエレスチャレ子爵家がオニキス・ソーダライトの味方になるのではダメ。お互いが足を引っ張り合ってもらわないと。そのために、疑心暗鬼になる事件が必要だわ…)


良い考えだとクリソプレーズ・フロウライト伯爵夫人はその時本気で思った。

そして、計画を実行した。


実家のハーキマー伯爵家に頼み、父親の息のかかった女をエレスチャレ子爵に近づけた。

男やもめのエレスチャレ子爵は疑うことなくその女を信用し、その女同様、罠にかけるため手配した詐欺師のアゲートを雇った。

あとはタイミングよくアイアンディーネをエレスチャレ入りさせ、アゲートに騙されたことを知ったあとの感情の昂ぶったエレスチャレ子爵が、アイアンディーネをどう扱うかは女の報告からも想定していた。


(孤立した七歳の子供が何できるものですか…)


ハーキマー伯爵家で手配した相場師の輩はもともと子飼いの連中で、今回の成功報酬はそれこそ、エレスチャレ子爵のもつ子爵位だ。

フロウライト伯爵と違い、領地を持たない王都の官僚の父、ハーキマー伯爵はいずれこのフロウライト伯爵領を手に入れたいと考えていた。そのための一歩だ。

クリソプレーズが愛人の座に甘んじることを受け入れた、あのときからフロウライト伯爵領を手に入れることが自分を裏切ったジラソルや今は亡きその父親、前フロウライト伯爵への復讐だ。


(オニキス・ソーダライトにこの領は渡さない…。絶対に…)


そう、うっそりと笑いながらもまだクリソプレーズは本心で安心はしていない。

この漣のような不安はこのフロウライト伯爵の館にいる間、消えることはない。

ここには、この館には、まだあのプラティナの気配が残っている。


そうして、彼女はその美しい面に複雑な感情を乗せて、夫のいる彼の書斎の方を見つめた。

きっと、ジラソル・フロウライト伯爵は書類を片付け、隠し部屋の扉を開けた頃だ。彼の心の中などお見通しだ。

ジラソルがアイアンディーネを好意的に思うはずはない。

なぜなら、プラティナはアイアンディーネを産んだために死んだから。

愛人のクリソプレーズをすぐにも屋敷に入れたのも、プラティナを失った喪失感に耐えられなかったから。


すべて、クリソプレーズの杞憂であれば本当は良かったのだが、あの隠し部屋にあるものを知ったあと、クリソプレーズはジラソルの真心がどこにあるか知ってしまった。




****




ジラソル・フロウライト伯爵は書斎の奥にある小さな扉を開けた。

壁のように偽装されており、代々の当主しか知らない小部屋だった。


彼は扉の先に目を向け、ようやく息をつく。


「…ただいま、私の…美しい支配者」


その目にたたえられているものは ただ純粋な愛だった。


その目の先にあったもの。


プラティナ・フロウライトの肖像画。

その口元はあの夜と同じ、下弦の月のごとくの微笑みを残している。







プラティナは嵐だった。

その嵐に出会ったあと、クリソプレーズは今のクリソプレーズになったのだ。

あの夜、ジラソル・フロウライト伯爵がプラティナと出会った夜。

あれはクリソプレーズにとっても運命の夜。

プラティナはクリソプレーズ・フロウライトにとっても、忘れえぬ人になったのだ。



プラティナお母さんのカリスマは異常。

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