5.公爵令嬢マリエル
久しぶりに外の空気を吸ったような気がする。
独房に入っているときに身に着けていた薄地のワンピースは風が吹くと少し肌寒い。
国外追放を言い渡された私は数時間前に牢から解放され、誰に見送られることもなく王城を出た。明日までにはこの国を出ていかなければならない。これもおそらくハロルド殿下とアンジュ様のおかげだとは思うけれど、私は自分の足で歩いて一人で国を出ていくことができる。もう二度とこの国へは戻れないと思ったとき、たった一つだけ最後にどうしても行きたい場所があった。
その場所は、13年経っても何一つ変わらずにそこにある。噴水もベンチも、そして空も――あの日とまったく同じ。
当時を思い出すように、私はそっと木製のベンチに腰掛けた。
『マリーがここで良い子にしていたら戻ってくるわ。だから、ここで待っていてね』
大好きな母親の声が聞こえたような気がした。
待っていたよお母さん。ここでずっと良い子にして。お空に願い事をしていたのに雨が降ってきちゃったから、お母さんは戻ってこなかったの…………?
空を見上げれば、灰色をした重たい雲が空一面を覆っていた。あの日と同じだ。違うのは、私はもう何も知らない子供じゃないということ。
*
あのとき、5歳だった私はこの場所で自分が捨てられたことに気が付かなかった。良い子にして待っていれば迎えにきてもらえる。そう思って雨の中をずっと待っていた。それなのに、何時間過ぎても母親が私の前に現れることはなかった。
夜が近づくにつれて雨脚は強くなっていくばかりだった。冷える体を抱きしめながら、いったいどのくらいの時間をそこで雨に打たれていたのだろう。やがて、広場のベンチに座りながらずぶ濡れ状態の私を見つけて保護してくれたのは見知らぬ女性だった。
『あなたがマリエルちゃんね?さぁ、私と一緒にいきましょう』
彼女は、身寄りのない子供たちが暮らす施設の人だった。私もこれからはそこで暮らすのだと言われた。
けれどそのときもまだ私は母親に捨てられたなんて思っていなかったから、差し伸べられたその手を思い切り振り払った。
お母さんの用事が長引いているだけ。もう少し待っていれば迎えに来てくれるのに、どうしてこの大人は私のことを連れていこうとするのだろう。抵抗したけれど、引っ張られるように私は施設に連れていかれてしまった。
施設では良い子にしていた。大人たちの言うことをよく聞いた。他の子たちとも仲良く遊んだ。いつも笑顔で楽しく暮らそうと思った。そうしていれば、母親が迎えに来てくれると信じていたから。
時々、広場にも行った。ベンチに座りながら母親が迎えに来てくれるのを待っていた。けれどどんなに待っても現れなくて、それでも空を見上げながら待ち続けているといつも決まって雨が落ちてきた。
捨てられたと気が付いたのは、他の家の子供になったときだった――――――。
*
「――――雨…?」
昔のことを思い出していたら頬に冷たいものが降ってきた。空を見上げると、ポツリポツリと滴が落ちてくる。やがてそれは音をたてて激しく降り始めた。
傘なんてもっていなかった。
これからどうしよう…………。
家を追い出され、国からも追放されてしまった。
明日までにはこの国を出なければならない。そうなればもう2度とこの国へ戻ってくることはできない。そう思ったら、自然と足がこの広場に向かって動いていた。
13年前、母親に捨てられた悲し思い出の場所なのに。それでもここへ来たいと思ってしまうのは、たぶんまだ期待しているからだ。捨てられたと気が付いても、もしかしたら母親が迎えにきてくれるかもしれない、と期待しているから。そんな自分の考えに少しだけ笑ってしまう。
「ばかみたいだよね」
そんな呟きは雨音によって一瞬でかき消された。
このまま雨に打たれながら、まるごと消えてしまえたら楽なのかもしれない。
あの日、結婚祝いのパーティーでアンジュ様が会場の外で泣いている姿を見た。声を掛けようと思った。ハンカチを渡してあげようと近付こうとした。けれど、足が動かなかった。彼女が泣いているのは私のせいだと気が付いたから。
私の婚約を白紙に戻して、ハロルド殿下とアンジュ様の婚約を元に戻してあげたいと思った。けれどそんな理由はお義父様には通用しないし、決して許してはもらえない。
私がいなくなればいいの?
でも、自ら命を断つ勇気はなかった。こっそりどこかへ逃げたとしても、きっとお義父様がどこまでも探して追いかけてくる…。
気が付けば、階段を降りようとしているアンジュ様の背中を押していた。
アンジュ様には悪いことをしてしまったと反省している。怖い思いと、痛い思いをさせてしまった。けれどああするしか他に思い浮かばなかった。中途半端なことをしても私とハロルド殿下の婚約は破棄にはならない。やるなら大胆に。全ての人が私を恐れ、嫌いになってもらえるように。私がハロルド殿下の婚約者としてふさわしくない女性だと全ての人に思ってもらえるように――――――――。
最初の頃、婚約が決まったとき私はとても複雑な気持ちでいっぱいだった。
身寄りのない私をお義父様が引き取ってくれたのは、私を良い家柄に嫁がせるため。子供ながらになんとなく気が付いていたし、素直にそれに従おうと思っていた。
私は義父様が決めた人と結婚をしよう。そしてきちんとその人のことを好きになろう。そうしたら相手も私のことを好きになってくれるかもしれない。政略結婚だけれどそこに愛が生まれたらきっと私も幸せになれるはず。ずっと憧れていた家族ができるかもしれない。
だから結婚相手がハロルド殿下だと知ったときは複雑だった。私は殿下のことを好きになろうと思うけれど、殿下はきっと私のことを好きになってはくれない。ハロルド殿下の婚約者はずっと幼馴染のアンジュ様で二人が互いに強く想い合っていることを知っていたから。
私が殿下の婚約者になれば、両想いの二人の仲を引き裂いてしまうのだと罪悪感に悩んだ。けれどお義父様の言うことは絶対で逆らうことができない。そうして私は18歳のときにハロルド殿下の婚約者になった。
王族関係者や貴族たちが集まるパーティーでは、婚約者として私が常にハロルド殿下の隣に立った。それなりに会話も二人で交わしていたけれど、殿下の視線はいつも必ず誰かを追いかけていた。その先には決まってアンジュ様がいた。二人は言葉こそ交わさないでいたものの、互いを見つめ合い、まるで目だけで会話をしているようだった。長年ずっと一緒にいた幼馴染で、両想いの二人にしかできないことだと思った。
二人の愛を見たような気がした。
私がいたらだめだ。
二人を幸せにしてあげたい。
たった一度の人生だ。
愛のある生き方をした方が幸せに決まっている。
母親に捨てられた私にはできなかった。
きっとこれからもできないと思う。
あの二人には私のようにはなってほしくない。
愛を失ってほしくなかった。
愛で満ちた幸せな生き方をしてほしい。
国の象徴である王族が愛に満ちた生き方をしてそれを示せば、きっと国民たちも愛のある生き方ができると思うし、愛で溢れた国になると思う。
そうなれば私のような悲しい思いをした子供がいなくなるかもしれない。
そのためなら私なんてどうでもよかった。
お義父様やお義兄様には悪いことをしてしまったと深く反省している。爵位は守られたそうだけれど、お義父様は体を悪くしてしまい他国で療養していると聞いた。いずれウィズマロン家を継ぐであろうお義兄様にも迷惑をかけてしまった。
私一人で償えると思ったのにそれだけでは足りなかったようだ。私の考えが甘かった。ウィズマロン家の顔に泥を塗ってしまったことは、どんなに謝ってもきっともう取り返しがつかない。
それでも私は、勝手だけれど自分のしたことに後悔はない――――――――。
膝の上で握りしめていた両手にポツンと滴が落ちた。
「…………また雨」
ポツン、ポツン、と温かな滴が次から次へと手に落ちてくる。そのたびにだんだんと視界がぼんやりと霞んでいく。これ以上落ちてこないように両手で必死に目元をこすってもそれは溢れて止まらなかった。
あの日からずっと雨がやまない。ここへ来るたびに必ず落ちてくる。降らないようにと願い事をしているのに、それでも雨が降ってくる。
「――――――マリー……………」
雨音に混ざってふと名前を呼ばれたような気がした。
誰だろう?
マリー。
そんなふうに呼ばれたのはもうずいぶんと久しぶりのような気がする。
「やっぱりここにいた」
懐かしい声だった。
そういえば小さな頃もこんな風にそっと声を掛けられたことがあった。
「待たせてごめん」
振り向いた先にいた人物は変わらない笑顔で立っていた。その姿に私の涙が溢れて止まらない。
いつも遠くからその姿を何度も見ていた。
殿下の婚約者となり王城へと赴く機会が増えたとき、その人は決まってそこにいた。
私のことなんて気が付かないだろうと思って声を掛けられなかった。それに、きちんとお別れも言えなかったから怒っているかもしれない。私のことなんてもう忘れているかもしれない。―――――そう思っていたのに。
「…………ディノ」
私のこと覚えていてくれたんだね。
近衛兵が着用する制服のままディノは立っていた。雨の中、私の後を追いかけて走ってきてくれたのだろうか。肩で息をするディノの黒い髪の毛から滴がぽたぽたと落ちている。
「マリー。そこにいろよ」
ディノの相変わらずな大きな声はこんな雨の中でもよく聞こえる。
私はベンチに座ったまま彼が一歩一歩近付いてくるのをじっと見つめていた。
「かっこよく現われるなんて言ったけど、今の俺ぜんぜんかっこよくないよな。雨でびしょびしょだ。……でも、約束は守るぞ、マリー」
背の高いディノが地面に片膝をつくと、ベンチに座る私と視線を合わせる。
「どうしてほしいんだった?こういうときは」
いつもはうるさいくらいの大声で話すのに、こういうときだけ穏やかになるディノの低い声が懐かしい。その声に張り詰めていた糸がプツンと音をたてて切れたような気がした。
「……お姫様抱っこ、してほしい」
震える声でそう告げれば、ディノが私の髪をくしゃくしゃに撫でる。よく言えたな。そう言ってもらえたような気がした。
「よしっ!」
ディノが勢いよく立ち上がる。と、太い腕が私の腰と膝裏に回され思い切り抱き上げられた。
「うわっ!」
あっという間にディノが私を横抱きにしてしまう。
「力持ちだね、ディノ」
「当たり前だろ。お前一人を抱えるくらいガキの頃からどうってことないんだ」
二カッと白い歯を見せてディノが笑う。小さい頃からその笑顔が大好きだった。その笑顔につられて私も笑顔になれた。
「よし!マリー、これから俺と一緒にアンクレカムへ行こう」
「アンクレカムへ……?」
その国の名前は聞いたことがある。たしかブライアンお義兄様の留学先の国だ。一度だけ連れて行ってもらったことがあるけれど、自然がたっぷりでとても素敵な国だった。でも、どうしてアンクレカムへ?
「マリーは今日から自由なんだ。どこへだって行けるんだろ?」
「う……うん」
国を追放された私はもうこの国にはいられない。ディノはそれを自由だと言う。
「でもディノ。どうしてアンクレカムなの?他にも国はたくさんあるのに……」
「マリーはアンクレカムへ行くんだ。俺と一緒に。そこに行けば、住む家も、仕事も、もう全部きちんと用意されているそうだ」
用意されている?
どういうことだろうか。
意味が分からずに首を傾げる私に、ディノは笑ってこう言った。
「今度、兄貴に会ったらしっかりと礼をしろよ」
「!」
もしかしてお義兄様――――。
「マリーの兄貴から、お前のことをよろしく頼むって言われたんだ」
何も知らなかった。
今回の件でさんざん迷惑をかけてしまったのに、そんな私のために……。
「これからはアンクレカムで一緒に暮らそう。マリー」
ディノと一緒に暮らせる。夢みたいだ。すごく嬉しい。嬉しいけど、でも……。
「ディノ。……たしか来月から近衛兵団の隊長になるんでしょ?」
「え?ああ、知ってたのか」
ディノが驚いたような顔を見せる。
「知ってたよ。ディノが近衛兵にいること。遠くから見てたんだから」
「なんだ。だったらお互い様だな。俺も遠くからマリーのこと見てたんだ」
「え……?」
知らなかった。
ディノも私に気が付いていたなんて。
「でもいいのディノ?隊長になればお給料が今よりもずっと増えるし、良い生活ができるんだよ。それがディノの夢だったでしょ?」
小さい頃ディノはよく言っていた。
俺の夢は王都に行って良い暮らしをすることだって。
「あぁガキの頃はそんなこと言ってたっけな。んでも、もうどうでもいいんだよ。マリーがいてくれたら。…………つか、そもそも俺が近衛兵に入った理由はマリーだからな」
「私?」
「おう。王都に来ればお前に会えると思った。それでちょうど近衛兵の入団試験があったから受けてみたら合格しちまったんだ。ほら、俺ってば力持ちだからな」
「わっ!ちょっとディノ!危ないよ!」
ディノが横抱きにしていた私のことをポンと軽く上に飛ばした。一瞬の浮遊感に私は慌てるが、すぐにディノの逞しい腕に受け止められ、元通りの横抱きにされる。
「ビックリした!」
「悪ぃ悪ぃ」
再び同じことをされないようディノの太い首にしっかりと腕を回して抱き着くと、ディノが肩を揺らして笑った。
「マリー…………愛してる」
さっきまであんなに強く降っていた雨がいつの間にか止んでいる。灰色の分厚い雲と雲の間からは陽が差し込み、そこから少しだけ青い空が見えた。
あの日からずっと空を見上げて祈っていた。
その願いがようやく届いたような気がした。
「ありがとう、ディノ」
私を迎えに来てくれて――――――
アンクレカムのクをグに変えるとお花の名前になります。花言葉は……。その国で幸せに暮らす二人を妄想しつつ――完結となります。
お読みいただきありがとうございました。
そしてブクマ・評価ありがとうございます!