第九十九話 父さんが倒れた夜、誰も眠らなかった
陶器の水差しが割れた音で、セーラは目を覚ました。
食堂の戸口に、ライアンが倒れていた。
「父さん!」
駆け寄ると、父の額は熱かった。
呼びかけにはかすかに応じるが、立ち上がれない。
「ガイア、医師を呼んで。サラ、清潔な布と水を。ノアは廊下を明るくして」
セーラは声を落ち着かせ、呼吸と意識の状態を確かめた。
大聖女として数え切れない患者を診てきた。
けれど今、目の前にいるのは、かつて自分の熱を測ってくれた父だった。
「……夕飯は、みんな食べたか」
ライアンが呟く。
「食べたよ。だから、もう心配しないで」
セーラは父の手を握った。
間もなく医師が到着し、診察を始めた。
高熱と脱水があり、慎重な経過観察が必要だという。
「治癒術なら、すぐに……」
セーラが言いかけると、医師は首を振った。
「使える処置は検討します。ただ、今は状態の変化を見逃さないことが大切です。あなたも一人で抱え込まないでください」
セーラは頷いた。
廊下には、見舞いに来た兄弟姉妹たちが集まり始めていた。
ガイアが入口に立つ。
「父さんに会いたいのは分かる。でも、今夜は休ませよう」
「一目だけでも」
「その一目が百回続いたら、父さんは眠れない」
不満の声が上がったが、セーラが病室から出てくると、皆が静かになった。
「容体はまだ安定したとは言えない。今夜は必要な人だけ付き添う。ほかの人には、明日の仕事を頼みたい」
マリナが帳簿を開いた。
食堂の配給、薪の運搬、救済所への連絡。
普段ライアンが気に掛けていた仕事を、一つずつ割り振る。
「私もここにいたい」
マリナが言う。
「でも、父さんが目を覚まして配給の心配をしないようにする」
エレナは王宮からの見舞いを断り、代わりに救済所へ人員を送る手配をした。
ノアは病室の灯りを整え、眩しすぎないよう光を落とした。
ガイアは夜番の名簿を作った。
どの仕事も、戦場の勝利や大魔法とは無縁だった。
だが、誰かがしなければならなかった。
深夜、セーラは父の古い手帳を開いた。
二十年前の頁に、子供たちの名前と熱の記録が残っている。
『セーラ、夜半に水を飲めた』
その一行の隣には、何も書かれていなかった。
父自身が何時間眠ったか、食事を取ったか。
そういう記録は、どこにもない。
「父さん、あの頃は誰が父さんを休ませたの?」
返事はなかった。
眠っている父の手を、セーラはそっと布団へ戻した。
夜明け前、ガイアが病室を覗いた。
「交代する。セーラも少し寝ろ」
「私は医師よ」
「だからだ。眠らない医師に、父さんを任せたくない」
セーラは言い返そうとした。
けれど、自分の指先が震えていることに気づいた。
「交代の医師は?」
「もう来ている。記録も引き継げる」
ガイアが示した紙には、診察時刻と水分摂取の記録、医師への連絡方法が書かれていた。
セーラはそれを確かめ、ようやく椅子から立ち上がった。
「変化があったら、すぐ呼んで」
「ああ」
隣室で横になると、廊下の足音が聞こえた。
子供の頃、眠る前に父の足音を聞いていたことを思い出す。
今は、父のために兄弟姉妹が歩いている。
翌朝、ライアンは目を覚ました。
「……みんなは?」
セーラが水を差し出した。
「それぞれの仕事をしてる。父さんが休めるように」
「迷惑をかけたな」
「私たちが熱を出したとき、父さんは迷惑だと思った?」
「思うわけないだろう」
「私たちも同じ」
ライアンは目を閉じた。
それから三日、医師の指示で安静に過ごした。
熱が下がっても、セーラはすぐに仕事へ戻ることを許さなかった。
庭へ出ることを認められた午後、ライアンはベンチに腰を下ろした。
食堂の窓から、サラが子供たちへスープを配る姿が見える。
一人が椀をこぼすと、ガイアが布を持って駆け寄った。
ライアンは立ち上がりかけ、思い直して座り直した。
誰も自分を呼びに来ない。
誰も困り果てていない。
それが少し寂しくて、たまらなく嬉しかった。
セーラが隣に座った。
「何を見てるの?」
「俺がいなくても、みんなで飯を配れるんだな」
「父さんが教えたんでしょう」
ライアンは笑った。
「そうだったな」
庭に風が吹いた。
ライアンが眠ったあとも、廊下の灯りは一つだけ残された。
セーラは診察の記録を整え、ガイアは面会を控えるよう皆に伝えた。
心配だからと全員が枕元に集まれば、父は休めない。
子供たちは初めて、見守るために部屋を出た。
医師が到着するまでの時間は、いつもより長く感じられた。
セーラは父の手を握りたい衝動を抑え、脈や呼吸の変化を記録した。
「水は飲ませた方がいい?」
サラが尋ねる。
「意識がはっきりしない間は無理に飲ませないで。医師が来たら、いつから具合が悪かったか伝えよう」
ガイアは食堂に集まりかけた兄弟たちを廊下へ誘導した。
心配だからといって、寝台の周りに百人が立てば診察の邪魔になる。
「順番に様子を知らせる。今は先生に任せよう」
自分の声が震えていることに、ガイアは気づいていた。
夜明け前、ライアンが少しだけ目を開けた。
「……騒がせたな」
セーラは泣きそうな顔を隠さなかった。
「謝らないで。父さんが倒れたら、私たちは心配するよ」
「お前たちには仕事があるだろう」
「ある。だから交代してここにいるの。父さんが昔、私たちの熱が下がるまでそうしてくれたみたいに」
ライアンは何か言いかけて、やめた。
百人の子を育てた男にも、誰かに世話をしてもらう夜が必要だった。
医師は朝の診察で、熱が下がってもすぐに働かないよう言い渡した。
ライアンが反論しかけると、セーラは机に当番表を置いた。
配給、帳簿、食堂の戸締まり。
どの欄にも子供たちや職員の名がある。
「父さんの名前は?」とライアンが聞く。
「今週は休養欄」ガイアが答えた。
ライアンは苦笑し、ようやく毛布を引き寄せた。
夜通し起きていた子供たちにも、交代で眠るよう頼む。
父を守ることは、皆が倒れることではない。
セーラは最初の当番を終え、安心して椅子に腰を下ろした。
ライアンが眠っているあいだ、セーラは診察の記録を医師と共有した。
家族だからといって一人で判断を抱え込まない。
ガイアは夜番を交代し、眠っていない子供には休むよう声をかけた。
父が起きたときに百人全員が疲れ切っていたら、きっとまた自分のせいだと心配する。
そう気づいた子供たちは、静かに役割を分けた。
食堂からは、器の触れ合う音と、子供たちの笑い声が聞こえていた。




