第百話 最後のパンを百一人で分けた日
療養を終えたライアンが食堂へ戻ると、長い食卓には、最初の百一脚に後から加わった一脚を合わせ、百二脚の椅子が並んでいた。
けれど、全員が座っているわけではない。
遠方で働く子供たちの席には、それぞれ手紙が置かれていた。
中央の皿には、小さな黒パンが一つ。
「どうして、これを?」
ライアンが尋ねると、ガイアが古い帳簿を開いた。
「二十年前、父さんがセーラに分けたパンを覚えているか」
「忘れるわけがない」
「俺たちは、その続きの話をしたかったんだ」
帳簿には最初の冬の食料の数が記されていた。
何度も消して書き直した数字の下に、ライアン自身の字が残っている。
『子供百人。
明日まで生かす』。
「こんなこと、書いたのか」
「毎晩だよ」
マリナが言った。
「父さんは明日の食事のことばかり考えてた。自分の分を数えるのを忘れて」
ライアンは笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「俺は立派な父親じゃなかった。寒い夜もあったし、腹を空かせたまま寝かせた日もある」
セーラが隣の椅子を引いた。
「だが、明日が来た。父さんが一人で全部救ったからじゃない。私たちにもできることを任せてくれたから」
「最初は任せられなかったよ」
「知ってる。だから、今はちゃんと座って」
ライアンは空いた椅子に腰を下ろした。
ガイアはパン切り包丁を持ったが、百一切れにするには小さすぎた。
「切ったら粉になるぞ」
「粉でもいいさ」
ライアンが言うと、マリナは首を横に振った。
「味が分からないほど細かくしたら、食べ物を粗末にすることになる。みんなで分けたいのはパンだけじゃないでしょ」
ガイアは包丁を置いた。
そこでセーラが提案した。
「この一つは、父さんと最初に分けた私が半分にする。そのあとで、新しく焼いたパンを皆に配ろう。ここに来られない人の分は届ける」
ライアンは少し考えて頷いた。
「そのほうがいいな。誰かを空腹にしてまで、思い出を再現する必要はない」
セーラは黒パンを二つに割った。
片方をライアンへ渡す。
「半分こ」
二十年前、雪の路地で聞いた声と重なった。
あの夜、少女はパンを受け取る前に『あとで返せって言わない?』と尋ねた。
いま目の前にいるのは、誰かを守るために法廷に立つ大人だ。
ライアンは半分を受け取り、ゆっくり噛んだ。
「固いな」
「昔と同じでしょ」
「いや。昔より、ずっとおいしい」
そのとき、食堂の入口で小さな言い争いが起きた。
遠くから来た男が、昔からの百一脚と、その隣に増えた一脚を見て足を止めていた。
「ここは英雄の家族だけの食堂なのか。俺たちは外で待つしかないのか」
ガイアが答えようとすると、ライアンが立ち上がりかけた。
だがセーラは、父の肩に手を置いたまま入口へ向かった。
「ここにある最初の百一脚は、家族が昔の約束を確かめるための席です。でも、食事は皆さんの分もあります」
「じゃあ、どうして中へ入れない?」
「今日は奥の部屋を使っています。こちらの席が空くまで、温かいスープを先にお渡しします」
セーラはフィルに合図し、配膳の列を整えた。
マリナは入口の掲示を確かめた。
普段の食堂と今日の集まりを区別する案内が足りなかったのだ。
「ごめんなさい。私たちの思い出に気を取られて、初めて来る人への説明を忘れていました」
男は湯気の立つ椀を受け取った。
「……そういうことなら、待てる」
ライアンはそのやり取りを見守った。
かつてなら、誰より先に立ち上がって謝り、椀を運んだはずだった。
けれど今日は、子供たちが自分で問題に気づき、直している。
百人を育てたことより、百人が誰かの空腹に気づけるようになったことが、何より誇らしかった。
厨房から焼きたてのパンが運ばれた。
出席できなかった子供たちには、名前を書いた包みを用意する。
ガイアは父の椅子の背に手を置いた。
「父さん。あのとき俺たちが欲しかったのは、英雄じゃない。明日も一緒に食べてくれる大人だった」
「俺は何度も、食べ損ねたな」
「だから今日は食べてくれ」
ライアンはもう一口、パンをかじった。
その姿を見て、マリナがようやく笑った。
食堂の扉は開いたままだった。
外では、今日の食事を求める人たちが列を作り始めている。
ライアンが立とうとすると、セーラが肩を押さえた。
「配るのは私たちの番。父さんは座っていて」
彼は初めて、仕事を譲ることを申し訳ないと思わなかった。
食堂の奥では、若い職員が次週の当番表を作っていた。
百人が集まれる今日と、誰も集まれない明日の両方を支えるためだ。
ライアンは表に自分の名前がないのを見て、一瞬だけ寂しくなり、それからパンをもう一口食べた。
祝宴がひと段落したころ、遠方からの手紙を読み上げる時間になった。
最初の一通は、国境の診療所で働く子からだった。
『今日は帰れません。
夜の当番があるからです。
でも、患者の一人が温かいパンを食べられるようになりました』
次は港の倉庫を管理する子。
『食料を運ぶ船が遅れています。
ここを離れたら、待っている人たちが困ります。
父さんの分のパンは、来月一緒に食べます』
ライアンは一通ごとに頷いた。
「帰ってこられなくて、申し訳ないって書いてある」
マリナが言うと、ライアンは首を振った。
「謝ることじゃない。あの子たちが自分の場所を守ってるんだ」
その言葉を聞いて、ガイアは遠方の席に置かれた手紙を一度整えた。
食堂の入口では、初めて来た男がまだスープを飲んでいた。
「今日は特別な日なんだな」
フィルが頷く。
「はい。でも、明日も食堂は開きます」
「それなら、明日は手伝いに来てもいいか」
男は空になった椀を持ち上げた。
「今は仕事を探してる。配膳くらいならできる」
フィルはすぐに採用を約束せず、担当者と相談する時間を伝えた。
男はそれを聞いて安心したように笑った。
「ちゃんとした手続きがあるなら、また来るよ」
ライアンはそのやり取りを遠くから見ていた。
百人の子を育てた家が、知らない誰かにも開かれている。
それは今日の祝宴よりも、ずっと長く続く約束だった。
夕暮れ、セーラは父の椅子の横にもう一つ椀を置いた。
「おかわりは?」
「まだ食べてるよ」
「いつもは誰かの分を先に考えるのに」
ライアンは苦笑した。
「今日は、自分の分を最後まで食べる」
昔からの百一脚のうち、空いた席もあった。
それでも寂しさだけではなかった。
そこに座るはずの子供たちが、それぞれの町で誰かの食卓を守っている。
ライアンは最後の一口を噛みしめた。
食堂を出る前、ライアンは壁の古い献立表を見つけた。
最初の冬の文字は薄く、パンの欄には何度も訂正した跡がある。
隣には今朝の献立が、若い職員の字で書かれていた。
ライアンは二つを見比べた。
「ずいぶん賑やかな食堂になったな」フィルが笑う。
「明日の仕入れも決まってるよ。父さんが寝坊しても大丈夫」ライアンは答えず、明日の欄に小さく丸をつけた。
自分がいなくても続く朝が、何よりの贈り物だった。
翌朝、ライアンは配膳台の前で立ち止まった。
昨日の祝宴で使った皿が、洗い場に山積みになっていた。
遠くから帰った子供たちはもう旅支度を始めている。
「父さん、手伝おうか」とガイアが尋ねた。
「いいや、今日はお前たちが休め」
そう言いかけたライアンは、昨夜交わした約束を思い出した。
「……いや、頼む」
将軍は袖をまくり、商人は布巾を配り、魔導師は水桶を運んだ。
誰も英雄らしい仕事ではなかった。
皿が一枚ずつ乾いていくのを見て、ライアンは百人を育てた歳月が終わったのではなく、形を変えて続いているのだと知った。
皿洗いを終えたライアンは椅子に腰を下ろし、隣に座る子供とその日の昼食の話をした。




