第九十一話 改革を憎む貴族たちの密会
王都の議事堂で、マリナは救済予算の削減案を読み返していた。
「支出の透明化」
という文言の下に、冬季の炊き出し費用が丸ごと消されている。
「父さん、これが通れば、来月から三つの地区で食堂を閉めることになる」
ライアンは紙の数字より、廊下で待つ母子の顔を見た。
貴族たちを悪者にするだけでは、閉まった食堂は開かない。
マリナは反対派にも帳簿を開示する覚悟を決めた。
削減案の提出者は、北部の小領主ガストンだった。
マリナは彼が先月まで救済所に麦を寄付していたことを知っていた。
「昨日まで協力していた人が、どうして突然?」
会議場の隅で尋ねると、ガストンは破れた手袋を隠した。
「領地の橋が落ちた。麦を売りに出せず、税だけが残った」
「だから都の食堂を閉めるんですか」
「都の者はわしらが飢えても知らぬ顔だ」
マリナは反論しかけ、口を閉じた。
机上の帳簿には、橋の復旧費も、孤児たちの夕食も、同じ『支出』と書かれている。
けれど、どちらかを消せば、別の場所で人が苦しむ。
彼女は議場を出て、地方代表の宿へ向かった。
橋が落ちた村では、乳牛を売って税を納めた家があるという。
都の食堂では、昨日まで給食を受けていた子が、明日から仕事を探さねばならないという。
両方の証言を聞いたライアンは、どちらにも同じことを尋ねた。
「今夜、食べるものはあるか」
ガストンは初めて視線を上げた。
「領地の子には、ない家がある」
「じゃあ、そこにも運ぼう。橋を直す話はそのあとだ」
「簡単に言うな。川を越えられぬのだぞ」
「舟は?」
ライアンの問いに、マリナは地図を広げた。
川下の渡し場は生きている。
遠回りになるが、二日分の食料なら届けられる。
その夜、マリナは予算を三つに分けた。
緊急の食料、橋の仮復旧、補助金の監査。
不正支出の疑いがある事業を一時停止しても、正当な支払いまで止めない。
財務官は難色を示した。
「不正が確定していない金を振り替えることはできません」
「では、議会の予備費を使います。使途を公開し、次の会期で精算する」
「前例がありません」
「前例がないことと、できないことは違います」
言い切ったマリナの指が震えていた。
ライアンだけが気づいた。
「怖いか」
「怖いよ。間違えたら大勢が困る」
「だったら、一人で決めるな。困る人にも聞こう」
会議前夜、マリナは北部から来た老婆に、食堂の献立を見せた。
「都では毎日、温かいものを食べられるのかい」
「毎日とは限りません。子供の分を優先して、足りなければ大人が後回しです」
老婆は献立の紙を裏返した。
「こっちの村でも同じさ。橋が落ちてから、孫が朝の粥を残すようになった。わしに食べさせようとしてね」
マリナは、その話を帳簿の余白に書いた。
翌朝の議論に使うためではない。
数字だけを見て、忘れないためだった。
採決の直前、南部の議員が席を立った。
「交易路の補修を遅らせるなら、うちの村の小麦は春まで王都へ運べなくなる。食堂を守っても、麦が届かなければ同じことだ」
マリナは答えられなかった。
南の交易路は、彼女自身が昨年改修を求めた道だった。
そのときは雪解けの泥で荷車が転倒し、御者が片脚を失っていた。
道路の補修を先送りするとは、あの御者にもう一度危険な道を走れと言うことでもある。
「補修を削る案は撤回します」
議場がざわついた。
「なら、どこから金を出す!」
議長が休憩を宣言したとき、マリナは議事堂の階段で北部から来た荷運び人に呼び止められた。
「橋が落ちてから、麦袋を背負って谷を迂回してる。二往復すると一日が終わるんだ」
男の掌には縄の跡が食い込んでいた。
マリナは食堂の利用者名簿を見せるのをやめ、彼の手に紙を差し出した。
「必要な荷車の数を、ここに書いてください。橋が直るまでの運び方も予算に入れます」
「俺の字でいいのか」
「あなたが運ぶんです。あなたの字でなければ困ります」
男は鉛筆を握り、少し考えてから三本の線を引いた。
数字の下に小さく『夜は危険』と書き添えた。
マリナはその四文字を削らずに議場へ持ち帰った。
「冬の間に着手する区間を、橋の手前と急坂に絞ります。残りは雪解け後です。全面補修より高くつくかもしれません。その差額も公開します」
財務官は眉を寄せた。
「試算には三日かかります」
「今日決められないなら、三日間の緊急配給だけ先に認めてください」
ガストンが椅子を鳴らして立った。
「わしの村は、その三日を待てん」
ライアンが傍聴席から声をかけた。
「荷車はもう出した。舟を使えば明日の夕方には着く」
「議会の決定もないのに?」
「食料は俺たちが集めた寄付だ。公金とは別に、できることがある」
ガストンの唇が震えた。
「……都の人間は、北部を見捨てたと思っていた」
「都にも北部にも、腹を減らした子がいるだけだよ」
その言葉で議論が終わったわけではない。
補修費の見積もりを疑う声も、予備費の使い道を巡る異論も続いた。
マリナは一つずつ議事録に残した。
反対意見を消さないことが、次に困った人を救う道になると信じたからだ。
夜更け、財務官が予備費の一覧を持ってきた。
「橋の仮復旧と炊き出しを両方続ければ、春の道路補修が遅れます」
「どの道路ですか」
「南の交易路です。補修が遅れれば、運賃が上がるでしょう」
マリナは指先で表を追った。
今を救う支出が、次の冬の値上がりを招くかもしれない。
「補修をやめるとは書かないでください。着手時期をずらした場合の費用と危険を、議員全員に示します」
「反対する者が増えますよ」
「隠して通した予算では、次に困った人が助けを信じられません」
戸口で聞いていたライアンは、何も言わなかった。
代わりにマリナの冷めた茶を温め直した。
その手つきが、幼い日に算盤を間違えて泣いた自分を思い出させた。
決めるのは彼女だ。
父はただ、決める人が空腹にならないようにしていた。
緊急配給の暫定承認から数日後、ガストンから小さな包みが届いた。
中には北部の乾燥した麦穂が一本入っていた。
添えられた紙には「渡し場に着いた最初の荷車から」とある。
マリナはその麦穂を予算書に挟んだ。
数字の間に植物を置くのは、財務官には奇妙に見えただろう。
けれど、マリナには必要だった。
マリナは翌月の議題に、渡し場の運航日数と橋の仮復旧率を記入した。
報告が届かなければ担当者に問い合わせる。
数字を決めて終わりにしないための、小さな仕組みだった。
採決で救えたのは今日の食事だ。
橋が直るまで見届けなければ、北部の子供たちはまた置き去りになる。
予算が動けば、誰かの食卓が動く。
その事実を忘れないために。
ライアンは麦穂を見て「来年は種を残せるといいな」と言った。
今夜を越えるだけでなく、次の収穫まで考えられる国にしたかった。
ガストンから追加の書状が届いた。
『削減案は取り下げた。
北部の窮状は議事録に残してほしい』。
マリナは採決の日に交わした約束を、もう一度読み直した。
議場から出ると、ライアンは荷車の前で待っていた。
「父さん、何をしてるの?」
「荷車に積む縄を点検してる。橋が直るまで、渡し舟に荷を移すからな」
その傍らで、荷運び人は掲示板の工事予定日を指でなぞった。
「三日遅れたら、誰に言えばいい?」
マリナは担当者の名前を予定表の下に書き足した。
「私にも知らせてください。約束を守れたかどうか、届ける側だけで決めたくありません」
翌週、後続の荷車も渡し場に着いたという知らせが届いた。
マリナは歓声を上げかけ、橋の仮復旧はまだ先だと思い直した。
だが、北部の村で今夜の鍋に火が入る。
届けた事実より、届き続ける仕組みが大切だった。
マリナは議事録に、先発便の到着だけで成功と書かないよう赤線を引いた。
橋の仮復旧を待つ間、川向こうの村には渡し舟で麦を運ぶ。
船頭の賃金と天候による欠航時の連絡先まで、マリナは自分の字で記した。
到着したのは先発便だけだ。
それでも今夜、北部の子供たちは空の椀を抱えて眠らずに済む。
橋の仮復旧予定日、北部から遅延の知らせが届いた。
マリナは机を叩きかけたが、すぐに工事担当者へ理由を確かめた。
増水で橋脚の点検が必要になったのだ。
「予定を守るために危険な橋を開けたら、また荷車が落ちる」
ガストンが言った。
二人は欠航時の配給表を見直し、渡し舟が止まる日にも食料が切れないよう村ごとの在庫を調べた。
マリナは議会に追加費用を報告した。
予定より高くつく。
反対意見も出た。
それでもガストンは賛成票を投じた。
「都の食堂も、北の橋も、数字の向こうに人がいる」
マリナは採決後、ガストンの破れた手袋を思い出した。
都の議場では反対票一つで片づく話が、北部では橋を渡れない荷車の数になる。
翌朝、彼女は配給所の戸口に「橋が使えない日の受取場所」を書いた板を立てた。
字の読めない老人には係員が読み上げる。
ガストンはその様子を見て、黙って板を支える杭を打った。
「領地の人間にも知らせる。議会で賛成しただけじゃ足りないからな」マリナは初めて、彼を対立相手ではなく同じ仕事を背負う人間として見た。
その夜、マリナは父へ手紙を書いた。
『勝ったわけじゃない。
でも、明日の鍋を止めずに済みそうです』




