第九十話 魔導師が魔法を使わず教えた文字
北区の教室へ向かったノアは、黒板に一文字だけ書いた。
『家』。
「これを読める人は?」
何人もの手が上がった。
窓際のヨルだけは、膝の上で拳を握った。
「読めなくてもいい。今日は、ここから始めよう」
ノアが言うと、後ろの席から笑い声がした。
「そいつ、魔法の適性もないんだぜ」
ヨルは椅子を引いた。
「帰る。ここは才能のある奴の場所だろ」
ノアは杖を机に置いた。
「僕が今日、魔法を使わない理由を聞いてくれる?」
ヨルは戸口で立ち止まった。
「僕は昔、字が読めなかった。だから帳簿の数字が何を意味するか分からず、仲間の食事を数え間違えそうになった。魔法が使えても、文字を知らなければ守れないものがあった」
「でも先生は、天才だって」
「今の僕を見た人がそう呼ぶだけだよ。最初の僕は、失敗するのが怖い子供だった」
ヨルの机には『才能なし』
と書かれた紙が押し込まれていた。
ノアは紙を拾ったが、破らなかった。
「誰が書いたかは、先生たちと確かめる。君が悪い証拠にはならない」
ヨルは唇を噛んだ。
「字が読めないと、配給所で名前も書けない。係の人に嘘つきだって言われた」
ノアはようやく問題の大きさを理解した。
読み書きの授業から排除されれば、支援を求める書類すら書けない。
才能の評価が、暮らす権利を奪う口実になっていた。
その日の午後、ノアは教室の責任者を呼んだ。
「魔法の適性検査と、読み書きの受講資格を分けてください」
「規則を変えるには許可が要ります」
「では、誰の許可が必要か教えてください。僕が書類を作ります」
責任者は渋い顔をした。
「そこまでして、ひとりの子を?」
「ひとりじゃありません。今日帰ろうとした子が、今まで何人いたか調べたいんです」
ライアンが教室へ来たのは夕方だった。
ノアから事情を聞き、ヨルの隣に腰を下ろした。
「字が読めないと、ここにいちゃいけないと思ったのか」
「うん。何もできないから」
「俺も若いころ、帳簿の字を何度も間違えた。子供たちに教わったんだ」
ヨルは顔を上げた。
「大人でも?」
「大人でも。恥ずかしいから隠してたら、ずっと間違えたままだった」
ノアは紙に『ヨル』と大きく書いた。
「最初は、自分の名前から始めよう」
少年は筆を握った。
最初の一文字は傾き、二文字目は線がはみ出した。
後ろの席で誰かが笑いかけたとき、ノアは黒板の前に立った。
「間違えた字を笑う教室では、誰も質問できなくなる。僕も君たちも、間違えるためにここへ来ていい」
それを聞いて、笑い声は止まった。
その夜、ノアが提出した申請書は一度差し戻された。
理由は、教室の予算が魔法適性者の養成費から支払われていたためだった。
「読み書きだけの子を入れれば、帳簿の説明がつきません」
責任者は困り果てていた。
ノアは反論する代わりに、ヨルが配給所で受け取れなかった申請書を机に置いた。
「この子が字を読めないままだと、食事の申請すらできません。授業の目的を変えるのではなく、費用の出所を分けてください」
マリナが確認したところ、町には一般教育のための小さな基金が残っていた。
ただし使うには、教室の出席記録と公開の承認が要る。
ノアは教室に戻り、子供たちへ事情を説明した。
「今日から全員入れる、と言いたかった。でも、許可が必要なんだ」
ヨルは俯いた。
「やっぱり僕は邪魔なんだ」
「違う。君を追い返す理由が間違っているから、変える手続きをしている」
後ろの席で笑った少年が、おずおずと手を挙げた。
「……僕、出席記録をつけるのを手伝える」
ノアは頷いた。
謝罪を言葉だけで終わらせず、教室を変える仕事に参加してもらうことにした。
数日後、基金の使用が認められ、責任者は全員の前で受講条件を読み上げた。
「魔法の適性の有無は、読み書きの受講資格に関係しない」
ヨルはまだ笑わなかった。
けれど、その日初めて、自分の机に鞄を置いた。
翌週、受講条件から魔法の適性に関する項目が外された。
変更を知らせる掲示には、文字だけでなく、誰でも入れる教室の絵も添えられた。
ノアはそこで終わりにしなかった。
欠席した子を訪ね、配給所の書類には代筆の窓口を設けてもらった。
教室が開いて一か月後、ノアは欠席者の名簿を見直した。
文字を習いたくないのではなく、夕方まで働いていて通えない子がいた。
教師と相談し、週に一度だけ朝の時間にも授業を開くことにした。
ヨルは新しい教室の入口に、習ったばかりの字で『ここから』と書いた。
字を間違えたので書き直そうとすると、年下の子が「読めたよ」と言った。
ノアは笑い、札の下に授業の時間を付け足した。
教えることは、知識を渡すだけでなく、来られる道を作ることでもあった。
翌週、ノアは教室の机に紙を三種類置いた。
大きな文字を書いた紙、指でなぞれる溝を刻んだ木札、短い文章を並べた紙だ。
「同じ文字でも、覚えやすい方法は人によって違う。今日は好きなものを選んで」
ヨルは木札を選んだ。
指先で『家』の形をたどる。
何度も間違えていた線が、少しずつつながっていった。
隣の席の少女が小声で尋ねた。
「その札、貸してくれる?」
ヨルは驚いて顔を上げた。
自分が使っているものを、誰かが必要としている。
「僕が終わったら」
その返事だけで、少女は嬉しそうに頷いた。
次の授業で、ヨルは黒板に『家』と書こうとして、途中で手を止めた。
「間違えた」
ノアは消し布を渡さず、「どこが違うと思う?」と尋ねた。
ヨルは見本を見比べ、一本だけ線を足した。
隣の子が「僕も昨日そこを間違えた」と言い、二人で笑った。
授業が終わるとヨルは配給表を手に取り、明日の当番を自分で読んだ。
ノアが「もう魔法はいらないね」と冗談を言うと、ヨルは首を振った。
「魔法はあってもいい。でも、読めるのは僕の力だ」
ノアは杖を持ち上げず、教室の窓を開けた。
外では子供たちがそれぞれの帰り道を選んでいた。
授業の終わり、ノアは生徒に一枚ずつ紙を渡した。
「読めるようになった言葉ではなく、これから読めるようになりたい言葉を書いてみよう」
『母さんの手紙』と書く子がいた。
『店の看板』と書く子もいた。
ヨルは迷った末に『明日の予定』と書いた。
「明日の予定?」
「文字が読めたら、誰かに教えてもらうまで待たなくていいから」
ノアはその答えを黒板に残した。
魔法で一瞬にして文字を覚えさせることはできるかもしれない。
しかし、誰かが自分で次の日を選べる喜びまで、代わりに与えることはできない。
数日後、ヨルがライアンの食堂を訪ねた。
「これ、読んで」
差し出された紙には、震える文字で『ただいま』とあった。
「自分で書いたのか」
「うん。まだ上手じゃないけど」
ライアンは何度も頷いた。
「十分だ。帰ってきたって、ちゃんと分かる」
ヨルは少し迷ってから、紙の裏にもう一つ書いた。
『また、あした』。
ノアはその文字を見て、杖を使わずにできた仕事の重さを噛みしめた。
翌日の教室で、ヨルは黒板の『家』を読んだ。
後ろの席から、昨日笑った少年が小さな声で「ごめん」と言った。
ヨルはすぐには返事をしなかった。
ノアも仲直りを急がせなかった。
代わりに二人へ別々の紙を渡す。
「今、伝えたいことを書いてみよう」
ヨルは時間をかけて『ここにいていい』と書いた。
誰かに言ってほしかった言葉を、自分の手で書けた。
ノアはその紙を黒板の隣に貼った。
魔法ではなく、教室の約束として。




