第八十八話 大聖女が病院の裏口を開けた理由
西区施療院の正門で、幼い子を背負った母親が立ち尽くしていた。
「住所がないなら受付できないと言われました」
子供は苦しそうに息をしていた。
セーラは胸の動きを見て、すぐに職員を呼んだ。
「診察室へ。登録はあとでいい」
セーラは職員に呼吸状態と意識を確認させ、診察を急ぐ理由を明確に伝えた。
「規則では、住所の確認が先です」
「今は呼吸を確かめるのが先です」
正門には石段があり、担架を通せない。
セーラは裏口へ回るよう指示した。
そこには荷車用の緩やかな通路があった。
子供は診察を受け、医師が必要な処置を始めた。
セーラは母親に説明し、そばにいてよいと伝えた。
廊下では受付係が青ざめていた。
「私が規則を破ったことになりますか」
「あなたが決めた規則ではないわ」
「でも、次に同じ人が来たら、どうしたらいいんです」
その問いに、セーラはすぐ答えられなかった。
今日だけ特別扱いにすれば、次の親子はまた門前で止められる。
彼女は病院長と受付係、搬送担当者を集めた。
「住所がない患者は、どこで診察を断られるの?」
受付係は用紙を示した。
住所欄が空白だと、記録番号を発行できない仕組みだった。
「診察記録と、連絡先の確認を分けましょう」
病院長は慎重だった。
「あとから患者を追えなくなれば、治療の継続に支障が出る」
「連絡の取り方は相談できます。住所がないことと、治療が必要ないことは別です」
セーラは母親の許可を得て、連絡方法について尋ねた。
母親は週に二度、共同炊事場へ通うという。
病院からの伝言を受け取れるか、炊事場の担当者にも確認する必要があった。
病院長は仮の受付番号を発行し、翌日までに運用手順を作ることを認めた。
ところが夕方、搬送担当者が言った。
「裏口を診察の入口にすると、薬や寝台を運ぶ人とぶつかります」
セーラは通路を歩き、狭さを確かめた。
車椅子や担架が必要な患者のため、裏口の通行時間と誘導担当を決めた。
歩ける患者には、正門で住所がなくても受付できることを知らせる。
次の朝、受付に新しい札が掛かった。
『住所がなくても、まずご相談ください。
診察の必要性を確認します』
受付係は札を見上げ、深く息を吸った。
「もし私が判断に迷ったら?」
「一人で抱えないで。医療担当者を呼んで」
昨日の母親が、子供を抱いて再診に来た。
子供の呼吸は落ち着いていたが、まだ治療が必要だった。
「昨日だけのことかと思っていました」
母親が言う。
セーラは新しい受付票を見せた。
「次もここへ来てください。分からないことがあれば、一緒に確認します」
母親は番号札を受け取った。
裏口は、担架を安全に通すための扉として残った。
正門では、住所のない人を追い返さない手順が始まった。
セーラはその二つの入口を見比べた。
誰か一人を助けるために扉を開けることはできる。
けれど、次に来る人が同じ扉を探して迷わないようにするには、皆で決まりを直さなければならなかった。
翌朝、受付係は裏口から入った親子の診察票を確認した。
住所の欄は空白のままだったが、診察の順番は消えていない。
セーラは「居場所が決まってから治療するのでは遅い」と伝え、次の当番にも同じ手順を引き継いだ。
病院の裏口に新しい案内板が掛けられた。
セーラはそこへ、夜間に助けを求める人が迷わないよう、小さな灯りも取り付けさせた。
「入口を開けただけじゃ、暗い道からは見えないもの」
ライアンは病院を出る親子がその灯りを確かめる姿を見届けた。
診察が一段落したあと、受付係は裏口の敷居に腰を下ろした。
「規則を守ったつもりだったんです。あの子の息が苦しそうなのは見えていたのに」
セーラは責めなかった。
「あなた一人が判断を背負わなくていいように、決まりを直すの。次に同じ子が来たら、誰を呼べばいいか分かるように」
二人で受付の紙を広げた。
住所欄の横に『不明でも受付可』と書き、呼吸が苦しい、意識がはっきりしない、といった危険な状態を見たら医療担当者へ直ちに伝える欄を作った。
「でも、裏口が開いていない夜は?」
「当直に鍵を預ける。担架の通れる通路を物で塞がないよう、毎晩確認する」
受付係は鉛筆を握り直した。
目の前の患者を救えたのはセーラだった。
次の患者を門の外で待たせないためには、自分の仕事が必要なのだ。
翌月、正門に新しい板が敷かれた。
担架の車輪が段差で止まらないか、受付係が自分で押して確かめた。
セーラは横で見守るだけだった。
「今度は私が先に気づきます」
受付係が言うと、セーラは頷いた。
だが、その日の午後、読み書きのできない男性が受付用紙の前で動けなくなった。
受付係は紙を取り上げず、「口で教えてもらってもいいですか」と尋ねた。
男性が小さく頷く。
名前と症状を確認し、必要な診察へ案内した。
セーラは帰り際に記録を見せてもらい、病院の入口に必要なのは一つの裏口ではなく、誰にとっても通れる道なのだと感じた。
翌日、職員たちは裏口から担架を運ぶ練習をした。
角を曲がるときに車輪が壁へ当たり、荷物の箱が通路を狭めていると分かった。
箱を移し、夜間用の灯りを掛ける。
医師は救急対応の順番を説明し、受付係は呼び出しの鐘を鳴らしてみた。
「誰かが倒れてからでは、こんな練習はできませんね」
「そう。患者さんの勇気だけに頼らない病院にしよう」
セーラが答えると、受付係は新しい用紙を胸に抱いた。
一週間後、受付係は一人で新しい用紙を使った。
住所欄が空白の老女に、緊急の症状がないかを確認し、医療担当者へつないだ。
「連絡先がない場合は?」
「次の受診日と、本人が受け取りやすい連絡方法を相談しましょう」
セーラは答えたが、代わりに記入はしなかった。
老女は診察を終え、用紙を折って懐に入れた。
「今度は正面から入っていいんだね」
受付係が頷いた。
裏口を開けた日のことを、誰も忘れてはいない。
その後、受付係は緊急時の連絡順を紙に書き、診察室の扉に貼った。
住所がない人を特別扱いするのではなく、誰に対してもまず症状を確かめるための手順だった。
別の日、荷車で運ばれてきた患者にも同じ順番で対応できた。
セーラはその様子を見て、裏口を開けた判断が一度きりの例外で終わらなかったことに安堵した。
けれど制度が変わった証拠は、英雄が扉を開けなくても患者が通れることだった。




