第八十六話 王国初の孤児保護法が生まれる日
議会の廊下で、セーラは法案の草稿を読み返していた。
「保護施設を設ける。必要に応じて収容する……」
そこには、子供が施設から出たいときの手続きがなかった。
隣にいた青年が、小さな声で言った。
「昔の施設は立派でした。外から見れば、何も問題がないように見えた」
「中では?」
「鍵が掛かっていた。逃げたら罰せられた」
セーラは草稿を閉じた。
「今日、あなたの話を議員に伝えてもいい?」
青年は首を振った。
「名前を知られるのが怖い」
「分かった。名前は出さない。あなたが話したくなったら、そのときに決めて」
ライアンは横で頷いた。
誰かのための法律を作る場で、その人の意思を踏みにじってはいけない。
審議が始まると、議員の一人が言った。
「施設の秩序を守るには、管理者の権限が必要です」
セーラは答えた。
「安全を守る権限は必要です。でも、子供が助けを求めた相手が、同じ施設の管理者しかいなければどうなりますか」
議場は静まった。
傍聴席の少女が、弟の手を握りしめた。
彼女は発言を申し出たが、議長は規則を理由にためらった。
ライアンは代わりに話さなかった。
「本人が望んでいます。話す機会を設けてください」
休憩のあと、議長は発言を認めた。
少女は立ち上がったものの、すぐには言葉が出なかった。
セーラが水を差し出す。
「弟と離されたとき、どうしてなのか、誰も教えてくれませんでした」
少女は震える声で続けた。
「私たちのことなのに、私たちには聞いてくれなかった」
議員の一人が、手元の草稿に線を引いた。
条文の修正には時間がかかった。
施設から独立した相談窓口、定期訪問、本人への説明、兄弟姉妹を分ける際の審査。
反対派は費用を問題にした。
「相談員を雇う金はどこから出すのです」
マリナは予算表を示した。
「窓口だけ作って人を置かなければ、紙の上の権利です。まず試行地区を定め、必要な人数と費用を公開しましょう」
議員はさらに問うた。
「施設を抜け出した子が危険に遭ったら、誰が責任を負う」
セーラは首を横に振った。
「理由を聞かずに閉じ込めるのも危険です。緊急時の保護先と、安全を確認する手続きを一緒に決めましょう」
議論は夜まで続いた。
採決の日、法案は修正案とともに可決された。
議場の外で結果を聞いた青年は、歓声を上げなかった。
「これで、本当に相談できるようになるんですか」
セーラは答えた。
「法律ができた。次は窓口を開いて、相談しても不利益を受けないか確かめる仕事が始まる」
「もし、相談したことが施設に知られたら?」
「そのときに逃げ込める場所も用意する。まだ足りないところは、あなたにも教えてほしい」
青年は長いあいだ黙っていた。
「……僕の名前は、記録に載せなくていい?」
「もちろん」
青年はようやく頷いた。
少女は弟と手をつないで帰っていった。
議事録には、彼女の名前を載せなかった。
その代わり、彼女が訴えた言葉と、議会が直した条文が残った。
ライアンは議場の出口でセーラに尋ねた。
「これで子供たちは守られるかな」
「まだ、守り始めたところ」
セーラは言った。
「昔、父さんは私たちに『嫌なら断っていい』と言ってくれたよね」
ライアンは覚えていた。
最初の冬、戸口で震えていた子に、無理に家へ入れとは言わなかった。
「ああ」
「今度は、その言葉を父さんのいない場所でも守れるようにするの」
二人は議会を出た。
採決の翌週、セーラは相談員の募集要項を読み返した。
『施設長の推薦が必要』という一行を見つけ、赤線を引く。
「施設に不満がある子が、施設長の推薦をもらえるとは限らない」
マリナは独立した選考委員を設け、相談内容を施設へ無断で伝えない規則を加えた。
法律ができた日よりも、こうした地味な修正の日のほうが長い。
セーラは新しい用紙を、子供の目の高さに掲示した。
相談窓口の初日、少女が一人でやって来た。
受付の大人を見て引き返しかけたので、セーラは少し離れた椅子に座り、話すかどうかを少女に任せた。
少女は長い沈黙のあと、「ここで話したら、施設の人に全部伝わるの」と尋ねた。
セーラは秘密にできる範囲と、安全のために共有が必要な場合を、難しい言葉を使わず説明した。
「じゃあ、今日は質問だけ」
少女はそれだけ言って帰った。
相談員は受付簿に『相談を強制せず』と記した。
法律ができた日よりも、最初の質問に正しく答えた日が、少女には大切だった。
法案の審議で、一人の議員が手を挙げた。
「施設を抜け出す子を放置しては危険ではないか」
セーラは頷いた。
「危険です。だから閉じ込めるのではなく、帰ってきたときに相談できる人を残すんです」
議場にいた元孤児の青年が、古い手首の傷を見せた。
「逃げた理由を聞かれる前に、罰を受けました。戻りたくても、戻れなくなった」
議員たちは条文を読み直した。
保護する側の義務だけでなく、子供が異議を伝える窓口と、施設の外にいる相談員を明記することになった。
可決の日、セーラは拍手に加わる前に青年へ向き直った。
「あなたの話を法律に使わせてもらった。けれど、話したことで困ることがあれば言ってください」
青年は少し考えて答えた。
「次の子には、名前を名乗らなくても相談できるようにしてください」
その一文も、最後の修正として書き加えられた。
施行の日、相談窓口の戸口には子供の背丈でも読める案内が貼られた。
セーラはその文字を確かめ、難しい言葉を一つずつ書き換えた。
少女が最初に書いた相談は、「今日は話したくない」だった。
受付係はそれを破らずに保管した。
断る権利が本当に守られるかどうかは、こういう日に試される。
法案が可決された翌日、セーラは相談窓口へ行き、子供の目線までしゃがんで掲示を読んだ。
「保護措置を申請する者は――」
難しい言葉に眉をひそめると、隣にいた少女が「ここに来たら帰れなくなるの?」と尋ねた。
セーラは担当者に説明を求め、相談だけでも利用できること、危険がある場合には安全確保を優先することを短い文章に書き直した。
職員の一人が「条文と違う表現は困ります」と言う。
セーラは原文を残した上で、子供向けの説明を併記することにした。
「守るための法律を、読めない子だけが使えないのでは意味がありません」
少女は案内札を読み終えると、「今日は相談しない。でも場所は覚えた」と言って帰った。
セーラはその背中を引き留めなかった。
法律の一行が、子供の帰る道をふさぐ鍵ではなく、開けられる扉になるように。
議会を出た青年は、窓口の案内札をしばらく眺めていた。
「ここに行っても、また施設へ戻されませんか」
セーラは法律の条文を示す代わりに、相談員の名簿を渡した。
「相談した内容を施設へ伝えるには、あなたの同意が必要です。ただし命の危険があるときは、安全を守るために動くことがあります。そのときも理由を説明します」
青年は名簿を折り畳み、胸の内ポケットへしまった。
「法律ができたから安心しろ、とは言わないんですね」
セーラは頷いた。
「安心できるかどうかは、これからの私たちの仕事です」




