第八十四話 八万枚の金貨より重い一冊の帳面
「回収金、金貨八万枚。事件処理、完了」
救済本部の報告書には、そう書かれていた。
マリナは最後の二文字に赤い線を引いた。
「被害者への支払いは?」
担当官は別の帳面を開く。
「まだです。申請書が揃っていない人が多くて」
「では、完了ではありません」
そのとき窓口係が駆け込んできた。
「今夜までに宿代を払えなければ、部屋を出される家族がいます。補償の申請書が足りないと、受付で帰してしまいました」
担当官は報告書を見た。
「手続きが終わっていない以上、支払いは……」
「補償の認定を急いで偽る必要はありません」
マリナは窓口係へ向き直った。
「でも、今日泊まる場所を探す支援は別です。緊急宿泊の担当へつないで。申請書がないことを理由に追い返さないでください」
ライアンも立ち上がった。
「子供がいるなら、今夜の食事はうちで用意できる」
帳面の『完了』を消しただけでは、誰も暖かくならない。
そのことを、マリナは目の前で突きつけられた。
戸口で待っていた老人が、椅子から立ち上がった。
「娘が亡くなった夜、配給所は閉まっていた。金を取り戻したら、その夜も消えるのかね」
担当官は返事に困り、マリナへ視線を向けた。
ライアンは老人に席を勧めた。
「娘さんの話を聞かせてもらえますか」
老人はすぐには答えなかった。
何度も同じ説明を求められ、そのたびに娘の死を証明しなければならなかったのだ。
「名前はミーナ。寒い日でも、庭に咲いた花を数える子だった」
マリナは帳面に名前を書こうとして、筆を止めた。
「ここに記録してもいいですか。公開するかどうかは、あとで選べます」
老人は頷いた。
金貨の回収額を記す帳面と、被害者の証言を記す帳面を分けることにした。
名前を公表したくない人のために、証言を非公開にする手続きも用意する。
けれど、午後の会議で反対が出た。
「証言だけでは補償金を支払えません。偽の申請が混じったらどうするのです」
マリナは頷いた。
「確認は必要です。でも、書類を失った人を最初から除外するのは違います」
彼女は二枚の記録を並べた。
一枚は倉庫の出庫票。
もう一枚は配給所が閉まった日の勤務記録だった。
「支援が届かなかったことは、この記録でも確認できます。個々の被害額は別に調べましょう」
担当官が首を傾げた。
「死亡と配給停止の因果関係までは分からないのでは」
「そのとおりです。だから分かったことと、まだ分からないことを分けて記録します。亡くなった理由を勝手に決めるのも、被害がなかったことにするのも、同じくらい危険です」
老人は会議室の隅で黙って聞いていた。
「私が欲しいのは、娘の命に値段をつけることじゃない」
マリナは筆を置いた。
「はい。お金で埋められる費用と、埋められない喪失は分けます」
結論はその日には出なかった。
申請書の再提出を求める代わりに、聞き取りと残存資料の照合を行う窓口を設けることだけが決まった。
翌週、老人の家を訪ねた調査員は、ミーナが通っていた診療所の記録を見つけた。
薬代と葬儀費については支払い対象として審査に回せる。
しかし、閉鎖された配給所が死にどれほど影響したかは、なお確認中だった。
「まだ待たせるのか」
老人の声には怒りがあった。
ライアンは頭を下げた。
「待たせてしまいます。でも、分からないことを分かったと書きません。調査の途中経過は必ずお伝えします」
老人はしばらく黙ってから、小さな紙を差し出した。
そこには花の絵が描かれていた。
ミーナが生前に残したものだという。
「これを記録に入れてくれ。金額の欄じゃなくて、あの子がいたというところに」
マリナは絵を受け取り、保管方法を説明した。
原本は老人に返し、本人の同意を得て写しだけを残す。
「娘さんの名前は、どこまで公開しますか」
「名前だけでいい。絵は、まだ私の手元に置きたい」
「分かりました」
その夕方、マリナは報告書の「完了」
を消し、代わりに三つの欄を作った。
『回収済み』『支払い審査中』『調査継続中』。
そして欄外に、もう一つ記した。
『今夜の支援が必要な人』。
夕方、宿を失いかけた家族は緊急宿泊の紹介状を受け取り、ライアンの食堂で夕食を取った。
翌朝、窓口係はその家族の申請を一緒に書き直すことになった。
「お金が戻るまで待てない人もいるのね」
マリナの言葉に、担当官は何も言わず、紹介状の控えを帳面に綴じた。
数字は一つも増えていない。
だが、何を終え、何を終えていないのかが初めて分かる帳面になった。
帰り道、ライアンが言った。
「八万枚も戻ったのに、まだ何も終わっていないんだな」
「全部は終わってない。でも、終わっていないことを隠さずに済むようになった」
マリナは帳面を抱え直した。
明日も、説明を待つ人がいる。
名前を残すことを望まない人もいる。
そのどちらの意思も守れる記録を作らなければならない。
金貨八万枚は数え終えられる。
マリナは返還通知に、受け取りを拒む場合と、説明だけを求める場合の連絡先を加えた。
八万枚という総額の陰に、異なる選択をする人がいる。
帳面の空欄を埋めるために、本人の返事を急がせることだけはしなかった。
新しい窓口が開いてから、最初の一週間で三十件の相談が寄せられた。
支払いを求める人、記録の訂正を求める人、ただ話を聞いてほしい人。
担当官は最初、全員に同じ申請書を渡していた。
「これでは、書けない人がいます」
窓口係の若い女性が言った。
「文字が読めない人も、亡くなった家族のことを何度も書きたくない人も」
マリナは書類を見直した。
必要な情報を一度だけ聞き取り、別の担当者が繰り返し質問しなくても済むようにする。
本人が望めば、説明を聞くだけで帰れる窓口も作った。
「金を払えば終わりだと思っていた」
担当官がつぶやくと、女性は首を振った。
「払うまでの道が長すぎたら、途中で諦める人が出ます」
ある日、老人が再び訪れた。
ミーナの絵の写しを保管する場所を、自分の目で確かめたいという。
マリナは施錠された棚を見せ、閲覧できる担当者を説明した。
「娘の絵を誰にでも見せたくないんです」
「分かっています。公開する場合は、改めて許可をいただきます」
老人はしばらく棚を見つめていた。
「これを預けたら、私の手元から娘が消える気がしていた」
「原本はお返ししています。いつでも写しを取り下げる相談もできます」
老人はゆっくり息を吐いた。
「なら、今はここに置いてください」
マリナは保管記録に日付を書き、本人へ控えを渡した。
一か月後、回収金の使途を報告する会議が開かれた。
『回収済み』
の数字は変わらない。
しかし『支払い済み』
と『審査中』
の欄には、少しずつ新しい数字が並んでいた。
担当官が「処理は順調です」
と言いかけると、マリナは首を振った。
「順調かどうかは、窓口へ来られなかった人にも届いているかを確かめてからです」
地方へ出向く担当者を増やし、交通費がない人には郵便でも相談できるようにした。
老人は会議を傍聴し、終わり際にマリナへ声をかけた。
「娘のことを、数字だけにしないでくれてありがとう」
マリナは頭を下げた。
「まだ終わっていません」
「知っています。だから、また来ます」
その約束を受けて、マリナは帳面の「処理完了」
の欄を見直した。
支払いが終わっても、相談の窓口は閉じないことにした。




