第七十七話 父さんが消えた夜、百人は初めて命令を待たなかった
夕食の椀が一つ余った。
ライアンが戻らないと気づいたのは、フィルだった。
「病気の子を見舞うと言っていた。夕方には帰るはずだったんだ」
ガイアは護衛隊を集めようとした。
けれど、マリナが先にライアンの予定表を開く。
『旧水路・避難小屋、咳の子』。
窓の外では雨が強くなっていた。
「捜索は必要よ。でも、道を全部封鎖したら救急の荷車まで止まる」
ガイアは唇を噛んだ。
「父さんがいなくなったんだぞ」
「だからこそ、父さん以外の人も置いていかない方法を選ぶの」
フィルは地図を広げ、避難小屋までの道と、洪水のとき孤立しやすい家に印をつけた。
「父さんならどうするか、じゃない。僕らで決めよう」
旧水路の入口で、避難係が名簿を握りしめていた。
「子供が三人、見つからない」
ガイアは父の名を呼びかけたかった。
しかし、フィルは名簿の重複を確認し、一人が別の避難所にいると突き止めた。
残る二人は水路の奥にいる可能性が高い。
ノアが水位を測り、セーラが医療班を組んだ。
「父さんが見つかっても、ほかの人を置いて帰るな」
ガイアは隊員たちに告げた。
言い終えたとき、自分の声が震えていることに気づいた。
避難小屋では、ライアンが少女メイに毛布をかけていた。
母親は足を痛め、別の部屋で動けなくなっている。
水が増して通路が塞がれ、伝言を頼んだ少年も途中で引き返したらしい。
「おじさん、みんな来る?」
メイは咳き込みながら尋ねた。
ライアンは安易に「来る」とは言わなかった。
「来てもらえるよう、こっちも合図を出そう」
二人は窓枠に白い布を結びつけた。
布を見つけたのは、フィルだった。
「いた! でも小屋の外にも人がいる。まず全員の位置を確かめよう」
ノアが足場を照らし、ガイアが母親を運び、セーラがメイを診た。
最後にライアンが出てきたとき、フィルは駆け寄りかけて足を止めた。
「父さん、歩ける?」
「ああ。すまなかった」
「謝るのは帰ってから。今は僕の灯りを見て歩いて」
フィルは父の手を引く代わりに、ぬかるんだ道を照らした。
二十年前、父が自分たちにしてくれたように。
食堂に戻ると、ライアンは濡れた靴を脱いで言った。
「俺一人で何とかしようとして、かえって心配をかけたな」
セーラは毛布を肩にかけた。
「次からは、助けを呼んで。私たちはもう子供じゃないんだから」
翌朝、フィルは捜索記録を読み返した。
同じ道を二組が探し、誰も見ていない道が一本あった。
父が帰ったから、それで成功とは言えない。
彼は避難所ごとの連絡先と担当区域を一枚の地図にまとめた。
ライアンは壁に貼られた地図を見て、照れくさそうに笑った。
「俺の行き先まで書くのか」
「誰が迷っても、帰れるようにするんだよ」
後日、フィルは避難小屋の壁に貼る連絡票を作った。
『助けを求める合図』『最後に確認した人数』『次の連絡先』。
メイの母親がそれを読んで、ひとつ指摘した。
「文字を読めない子には、どうするの」
フィルは紙の横に白い布の絵を描いた。
あの夜、窓辺で揺れていた合図だ。
「これならメイにも分かるかな」
「分かるよ。あの布、ライアンさんと一緒に結んだもの」
救助の記録に、助けられた側の工夫が初めて書き加えられた。
次の避難訓練で、メイは白い布を窓に結んだ。
見張り役の兵士は合図に気づいたが、布が風で裏返ると見失ってしまった。
「これじゃ夜は分からないね」とメイが言う。
フィルは布を二枚に増やし、灯りを使う場合の決まりも相談した。
危険な場所で子供に合図を任せきりにしないよう、近くの大人が確認する役も決める。
訓練の終わり、メイは自分の意見が紙に書き込まれるのを見た。
「次は、もっと早く見つけてね」
兵士は笑わず、真剣に頷いた。
ライアンが見つかるまでの数時間、フィルは何度も門の方を見た。
自分の判断が遅れたら、父を失うかもしれない。
そんな恐怖を、声に出す暇はなかった。
マリナが差し出した地図には、雨で水位が上がる箇所が赤く記されている。
「ここは子供を通さない。捜索は大人の二組で」
フィルは頷き、留守を守る子たちに温かい食事の準備を頼んだ。
「僕も探しに行きたい」と言った幼い子には、帰ってきた人の人数を確かめる役を渡した。
誰もが父を助けたかった。
でも全員が水路に入れば、助ける人数が増えるだけだ。
帰還の知らせが届いたとき、フィルは喜ぶより先に、捜索班全員の名前に丸を付けた。
最後の一人を確認してから、ようやく椅子に座り込んだ。
ライアンが最後に目撃された施療所の前には、濡れた足跡が残っていた。
ガイアは追跡を急ごうとしたが、フィルが止めた。
「父さんは子供を見舞うと言った。まず、その子に会おう」
病室の少年は毛布の端を握り、窓を見た。
「おじさんは、僕の妹を探しに行ったんだ。僕が言うと怒られると思って……」
「怒らない。どこで別れた?」
少年が示したのは、市場の裏道だった。
百人は一斉に走り出さなかった。
通りを区画に分け、捜索済みの印を地図へ付け、帰ってきた者が必ず報告する決まりを作った。
暗くなる前に妹が見つかった。
ライアンもそのそばにいたが、足を痛めて動けなくなっていた。
「迎えに来るとは思っていたよ」
ライアンが笑うと、フィルは怒った顔のまましゃがんだ。
「父さん、待つ側は、どこへ行ったか知らないんだ」
その一言に、ライアンはようやく頭を下げた。
次からは行き先と帰る時刻を必ず残すと約束した。
帰宅したライアンは、食堂の壁に小さな板を掛けた。
出掛ける者が行き先と帰宅予定を書くための板だ。
最初にそこへ名前を書いたのは、ライアン自身だった。
フィルは妹を探した少年にも、帰る前に声を掛けた。
「困ったときは、誰に知らせたらいいか一緒に考えよう」
少年は施療所の受付を指さした。
次に助けを求める場所を、もう知っていた。
ライアンは、フィルが作った新しい連絡票を見て頷いた。
ライアンが戻った翌朝、フィルは連絡板の前に子供たちを集めた。
「大人だけが書く決まりにはしない。遊びに行く子も、帰る場所を伝えよう」
一人の少年が手を挙げた。
「文字を書けない子は?」フィルは板の横に絵札を置いた。
市場、川、施療所、畑。
行き先を指して札を掛ければよい。
「帰る時間が分からないときは?」と別の子が聞いた。
「迎えが必要なら、ここに丸を付けて」
ガイアはそのやり取りを見ながら、昨夜の自分なら命令だけを出していただろうと思った。
百人が動いたのは父の命令を待たなかったからだ。
だが本当に変わったのは、次に誰かが迷子になったとき、百人が駆けつけなくても見つけられる仕組みを作ったことだった。




