第七十六話 王国の広場に、百人の英雄を憎む人々が集まった
王都の広場に「英雄はいらない」
と書かれた布が掲げられた。
ガイアは足を止めた。
「俺たちは食料を運んだだけだ」
「その『だけ』が問題なのよ」
マリナが指さした先には、荷車を引いてきた男がいた。
馬はいない。
「軍が無料で運んでくれるようになって、俺たちの仕事が消えた!」
男はトムと名乗った。
「冬に馬を売った。荷車だけ残した。あんたらが村を救った日、俺の家の夕飯は減ったんだ」
ガイアは反論しようとして、言葉を飲んだ。
軍の輸送表には、救った村の名前が並んでいる。
仕事を失った御者の名前は、一人もなかった。
「何をしてほしい」
「感謝を強制しないでくれ。まず、俺たちが何を失ったか聞いてくれ」
ガイアは剣帯を外して部下へ渡し、広場の石段に腰を下ろした。
その場で全てを解決する約束はできなかった。
マリナが調達記録を調べると、平時の輸送まで軍が無償で請け負い、地元業者への発注が減っていた。
一方、災害時には軍の即応力が必要だ。
「どちらかを全部やめるのではなく、役割を分けるべきね」
マリナは新しい案を作った。
危険地域と緊急輸送は軍が担当する。
通常の輸送は地元業者へ有償で発注し、契約の条件を公開する。
説明会で、トムは書類を机に叩きつけた。
「保証金が高すぎる。馬を売った俺には応募もできない!」
別の業者が言った。
「大商会だけが仕事を取る仕組みだ」
マリナは書類を見直した。
保証金の額は、彼女の商会が普段使う基準だった。
「私の感覚で決めてしまった。申し訳ありません」
彼女は自分の商会を審査から外し、第三者の委員を招いた。
小規模な仕事に分割し、保証金を下げる。
車両の修理には返済可能な貸付制度を設ける。
ただし、貸付を受けた人が必ず契約を得られるわけではない。
「落ちることもあるのか」
「あります。でも、理由は説明します」
トムは唇を噛んだ。
「じゃあ、応募する」
最初の審査で、トムは落選した。
車輪の修理が終わっていなかったからだ。
「結局、同じじゃないか!」
彼が怒鳴ると、審査員は修理の基準と再応募の日を示した。
ガイアは黙っていた。
軍の名で合格させることは簡単だったが、それでは新しい仕組みが壊れる。
トムは貸付を受け、町の職人に車輪を直してもらった。
職人は受け取った代金で、弟子の給金を払えた。
二度目の審査で、トムは小麦を運ぶ短い便を受注した。
だが契約書を見た彼は、また手を止めた。
「この運賃じゃ、馬の餌代を引くと何も残らない」
担当官は軍の無料輸送を基準に計算していた。
「人が働く値段になっていない」
マリナは担当官と計算をやり直した。
公開された運賃表も修正した。
トムはようやく署名した。
初めての配送先は、以前、軍が食料を運んでいた村だった。
村長は受領書に判を押し、運賃を支払った。
トムは硬貨を数え、荷車の座席でしばらく動かなかった。
「どうした」
見送りに来たガイアが尋ねた。
「仕事をした金だ。久しぶりでな」
「俺たちは、助けているつもりだった」
「助かった村もある。それは本当だ」
トムは手綱を握り直した。
「でも、俺の家も村の一部なんだ」
ガイアは頷いた。
次の月も契約が続くかは分からない。
制度の点検も必要だ。
だが、軍が引き受けていた一つの便が、町の仕事として戻った。
トムはまだ英雄に礼を言わなかった。
ガイアも礼を求めなかった。
守るべきものは、運んだ小麦袋の数だけではない。
翌月の公開審査では、軍の荷車にも不備が見つかった。
ガイアは整備長を呼び、修理が終わるまでその車を使わないと決めた。
トムは傍聴席から黙って見ていた。
審査のあと、彼はガイアに近づいた。
「軍にも同じ決まりを守らせたんだな」
「最初からそうすべきだった」
トムは礼を言わなかったが、次の運送契約に応募するための書類を受け取った。
英雄を好きになる必要はない。
それでも、公平な条件で仕事を競えるようにはできる。
説明会の席でトムは、軍の荷車が通る道を指さした。
「この区間は俺たちなら半日で運べる。軍は二日掛けている」
ガイアは地図を覗き込み、道幅と橋の耐荷重を確かめた。
「なら、任せたい。ただし冬に通れるかは別に調べる」
トムは首を横に振った。
「冬はこっちの旧道だ。地元の者しか知らない」
その場にいた車輪職人が、旧道用の補強輪なら修理できると申し出た。
軍が無料で何でも引き受けるほど、町の技術は失われていた。
ガイアは契約書に運賃だけでなく、修理費と悪天候時の中止基準も書き込ませた。
トムは紙を読み、初めて「それなら仕事として引き受ける」と言った。
拍手は起きなかった。
代わりに、明日の積み荷の数を数える声が聞こえた。
広場の隅に、荷運び職人の組合長が立っていた。
「英雄の荷車が無料で走るなら、俺たちの仕事はどうなる」
ガイアは反論しかけ、口を閉じた。
食料を運んで救えた命はある。
しかし、そのたびに仕事を失った者がいたなら、感謝だけを求めるわけにはいかない。
「いくらの仕事が消えたか、見せてくれ」
組合長は擦り切れた帳面を差し出した。
空欄が続いていた。
翌日、マリナは救済用の輸送と通常の商売を別の表にした。
緊急時に無償で動く条件と、平時には地元の運び手を雇う条件を、広場で読み上げた。
「英雄が決めた条件じゃない。ここで働く人と、荷を待つ人が直せる条件にしたい」
組合長は赤い筆で一箇所を直した。
雪の日の危険手当が抜けていたのだ。
ガイアはその赤い線を見つめた。
剣なら一振りで決着がつく。
だが、暮らしの不公平は、間違いを指摘してもらえる場所を作らなければ直せない。
広場の掲示板には翌朝、救済輸送の依頼条件と組合の連絡先が並んだ。
反対していた職人が最初の契約書に署名したとき、ガイアは拍手を求めなかった。
翌週、組合長は自分の息子を連れて救済所へ来た。
「今度は俺たちが運ぶ。代金は決めた通りでいい」
ガイアは初めて、その申し出を対等な仕事として受け取った。
守るべきものは小麦だけではない。
それを運ぶ人と、車輪を直す人が、明日も暮らしていけることだった。
広場の端で、車輪職人の娘が父の袖を引いた。
「英雄を嫌いにならなきゃいけないの?」父は困った顔をした。
「嫌いなわけじゃない。仕事がなくなったら、お前の靴も買えないんだ」
ガイアは二人の会話を聞き、輸送契約の説明会に職人も招くよう頼んだ。
荷車が走れば車輪は摩耗する。
運び手だけでなく修理する者の仕事も、見積もりに入れるべきだった。
娘は掲示板に描かれた新しい荷車の印を見て、「これなら父さんも働ける?」と尋ねた。
ガイアは即答せず、職人の父に条件を確かめてもらった。
「そういう話なら、俺にもできることがある」
その返事を聞いて、娘はようやく布の標語から目を離した。




