第七十一話 父さんの休暇を壊した、国境からの黒い手紙
海辺の休暇から戻って四日目、ライアンは食堂の庭で、旅先から持ち帰った貝殻を洗っていた。
波に削られた小さな貝殻が七つ。
百人全員に土産を用意するつもりだったのに、結局それだけになった。
「父さん、今日は仕事をしない日だからね」
フィルが窓から顔を出す。
「分かってる。これは仕事じゃない」
「その台詞、薪割りをするときにも聞いたよ」
笑い合った直後、門の外で馬が止まった。
使者の外套には乾いた泥がこびりついていた。
差し出された黒い封筒には、国境へ向かった輸送隊百台のうち、先頭十台と連絡が取れなくなったと記されていた。
後続の九十台は谷の手前で待機している。
ライアンは反射的に立ち上がった。
「俺も行く」
フィルが袖をつかむ。
「父さん、まだ何が起きたか分からないよ」
「十台も消えたんだぞ」
「だから、まず誰が乗っていたか調べよう」
それを聞いて、ライアンは封筒を読み直した。
行方不明なのは荷車十台。
人夫の人数は不明。
襲撃という文字もなかった。
「……そうだな。急いで、決めつけるところだった」
食堂の奥には、すでにガイアとマリナが集まっていた。
マリナは積荷台帳と御者名簿を並べた。
「十台には、御者が十人。護衛と荷役を合わせると、少なくとも三十六人。交代要員が同乗したかどうかは確認中よ」
「旧行政院の残党でしょうか」
若い兵士が尋ねた。
ガイアは首を振る。
「分からない。崖崩れ、道迷い、通信の故障。全部調べる。敵を決めるのは、生存者を見つけてからだ」
ノアが古い測量図を広げた。
「谷の奥に廃関所がある。今の地図には道がないけれど、昔は荷車が通れたはずだ」
「なら捜索隊を二つに分けよう」
ガイアは谷へ向かう班と、後続九十台を安全な宿営地へ誘導する班を決めた。
どちらの班にも帰還時刻と連絡手段を指定する。
ライアンは地図を覗き込んだ。
「俺にできることは?」
「帰ってくる人の食事をお願いしたい」
ガイアの答えは迷いがなかった。
「それなら、食堂の皆で準備する。俺一人じゃなくてな」
フィルが少しだけ目を丸くした。
ライアンは苦笑した。
「休暇で覚えたんだ。任せるのは、手を抜くことじゃないって」
ただし、人数も到着時刻も分からない。
温かい汁を百人分作れば、届く前に傷むかもしれない。
フィルは乾燥豆と麦の在庫を数え、帰還者の人数に応じて鍋を増やす段取りを組んだ。
「毛布は?」
「洗濯屋に頼もう。ただし借りた数は記録して、後で返せるようにする」
町の洗濯屋の女主人は、最初、代金など要らないと言った。
「困ったときはお互い様だよ」
「ありがとう。でも、次に誰かが困ったときにもお願いできるよう、費用を決めておきたいんです」
フィルの言葉に、女主人は少し考えてから、洗濯と修繕にかかる分だけ受け取ることにした。
夕刻、マリナが使者の到着記録を持ってきた。
「最後の報告は正午に届いている。でも、報告に書かれた位置を通ったのは朝のはず。時刻が合わないの」
「誰かが嘘をついたのか」
ライアンが尋ねると、マリナは首を振った。
「まだ分からない。途中の伝令所で報告が遅れたのかもしれない」
ノアは地図の廃関所に印を付けた。
「谷の石は白い。関所の周辺だけ、昔、黒い砂利を敷いた記録がある。荷車の跡を探す手掛かりになるかもしれない」
ガイアは捜索班に情報を渡したが、関所が犯行現場だとは言わなかった。
出発前、彼は隊員の家族への連絡先を書いた名簿をライアンに預けた。
「もし遅れたら、家族には『分かっていること』だけ伝えてほしい」
ライアンは名簿を受け取った。
「必ず帰れとは言わない。でも、帰るための準備は惜しむな」
ガイアは頷いた。
ライアンは包みを二つ手渡した。
「一つはお前の飯。もう一つは、途中で腹を空かせている誰かの分だ」
ガイアは子供の頃と同じように、二つとも大切に外套へしまった。
翌夕、谷から最初の伝令が届いた。
「荷車を一台発見しました。車輪が外されています。御者たちは見つかっていません」
食堂にいた者たちの手が止まった。
「血の跡は?」
「今のところ確認できません」
「残り九台は?」
「未発見です」
ガイアからの報告は、それだけだった。
フィルは壁の掲示板に紙を貼った。
『確認済み:荷車一台。
安否未確認:乗員。
次の報告予定:明朝』
その下に、帰還者のための食事と毛布の準備数を書き添える。
ライアンは七つの貝殻のうち、一つを窓辺に置いた。
海辺では、何もせず波を眺めることを覚えた。
今は、動くべき子供たちを信じて待つことを覚えなければならない。
「父さん、鍋の火は僕が見てるよ」
フィルが言った。
「じゃあ俺は、帰ってきた人の椅子を並べようか」
「それは二人でやろう」
フィルは使者の靴底を見た。
泥が乾ききっていない。
国境から休まず走ってきたのだろう。
「先に温かいものを」と声を掛けると、使者は驚いたように瞬きをした。
「急ぎの知らせです」「だからこそ、倒れられたら困る」
湯を渡してから、フィルは手紙に記された地名を地図で照合した。
同じ名の集落が二つある。
父が慌てて出発していたら、間違った道へ向かったかもしれない。
「父さん、こっちは僕が確かめる。出発する人には、必ず帰着の連絡先も渡そう」
ライアンは貝殻を握ったまま頷いた。
心配していることと、全員を自分の手で動かすことは違う。
使者が食べ終えるまで待つ時間さえ、昔のライアンには惜しかった。
今はフィルが、その時間を守ってくれる。
手紙の封には、国境の役所で使う黒い染料が塗られていた。
フィルは火にかざす前に、差出人と受取時刻を帳面へ書いた。
「父さん、読んだら休暇が終わってしまうよ」
「読まないまま眠ったら、向こうで待っている人の夜が長くなる」
ライアンは封を切った。
書かれていたのは救援要請だけではない。
通行許可を出した役人が翌朝交代するという知らせだった。
「今夜、動く必要があるのは誰だろう」
ライアンが尋ねると、フィルは紙の端を押さえた。
「僕が連絡する。父さんは、誰に頼めるか教えて」
二人は国境へ向かう者と、翌朝の確認を担う者を分けた。
休暇を守るとは、目の前の困りごとを無視することではない。
父一人に全部を背負わせないことだった。
翌朝、使者が出発するころ、ライアンは貝殻を洗い直していた。
「父さん、今度は海へ戻れる?」
「戻れるさ。今度は誰かと、土産を選ぶ時間も取ろう」
フィルはその言葉を聞き、当番表の父の名前を一本の線で消した。
フィルは黒い手紙を保管箱に入れ、受け取った者の署名を添えた。
次の知らせが届いても、父を探して町じゅうを走らなくて済むように。
「父さん、今夜は眠れる?」
フィルの問いに、ライアンは一度だけ首を傾げた。
「眠れるように、頼れる人を増やしてくれたんだろう」
その返事に、フィルはようやく肩の力を抜いた。
父と子は、まだ誰が座るか分からない椅子を、一脚ずつ並べ始めた。




