第七十話 百人の英雄が、父さんに休暇を命じた
家族会議で、ライアンだけが休暇に反対した。
「俺がいない日に鍋が空になったら?」
フィルが仕入れ表を広げた。
「代わりの粉屋も決めてあるよ」
「病人が出たら?」
「当番の医師と看護師がいる」
セーラが答えた。
「屋根が壊れたら?」
「大工に連絡する」
マリナが言った。
答えを聞くたびに、ライアンは新しい心配を探した。
ガイアが笑う。
「父さん。心配がないから休むんじゃない。心配を分けられるようになったから休めるんだ」
休暇先は海辺の小さな宿だった。
ライアンは朝食のあと、食堂へ手紙を書こうとした。
『粉の袋は湿気に気をつけて』『釜の火を落とすときは』
と書き始め、途中で紙を裏返した。
代わりに、窓から見える海を描いてみた。
波の線は曲がり、船は不格好だった。
誰かに役立つものではない。
だが、描いている間は時間を忘れた。
三日目、宿に食堂から知らせが届いた。
『配達が一日遅れたけれど、フィルとマルタで献立を変えて対応しました。
全員食べています』
ライアンは安堵したあと、妙な寂しさを覚えた。
自分がいなくても、困りごとは解決してしまう。
旅の二日目、ライアンは海辺の宿で朝食を一人で食べた。
隣の席では、若い夫婦が子供の靴紐を結び直していた。
「早くしなさい」と父親が言いかけると、子供は自分で結ぶと首を振った。
夫婦は急がず待った。
結び目は不格好だったが、子供は誇らしげに立ち上がった。
ライアンは、百人を育てていた頃の自分を思い出した。
食事を作り、薪を割り、病人を看病し、いつも次の用事に追われていた。
子供が自分でできることまで奪っていた日もあったかもしれない。
「何を考えているんです?」
宿の主人に聞かれ、ライアンは苦笑した。
「手を貸すのと、手を出しすぎるのは違うんだなって」
「うちの子も、靴紐ひとつで朝が終わる日がありますよ」
主人は笑い、温かい茶を注いだ。
ライアンは茶が冷めるまで、誰の予定も決めなかった。
それだけのことが、彼には思いのほか難しかった。
その夜、セーラへの返事に『俺はもう必要ないのかもしれない』と書きかけ、破った。
けれど、破った紙を捨てられなかった。
翌朝、宿の少年が朝食を運んできた。
「お客さん、パンは二個で足りますか」
「十分だよ」
「なら、ゆっくり食べてください。僕は昼に妹と交代しますから」
少年は自分の仕事を誇らしそうに話した。
ライアンは思わず手伝おうと立ち上がりかけ、椅子に座り直した。
手伝わなくても、この少年は自分の一日を生きている。
「ありがとう。とてもおいしいよ」
少年は照れくさそうに笑った。
帰る前日、ライアンは浜辺で貝殻を拾った。
最初は百一個集めるつもりだった。
子供たち全員に渡せるように。
けれど七個目で手を止めた。
一人ずつに何かを配らなくても、話したいことは山ほどある。
彼は七個を鞄にしまい、海の絵を折り畳んだ。
帰宅すると、食堂はいつも通り騒がしかった。
フィルが献立表を持って駆け寄る。
「父さん、報告がある」
ライアンは笑って手を上げた。
「あとで聞く。先に、海の話をしてもいいか」
子供たちが一斉に椅子を寄せた。
「父さん、楽しかった?」
「うん。初めて、何もしない時間が楽しかった」
セーラが尋ねた。
「また休んでくれる?」
ライアンは驚いた。
いつもなら自分が許可を出す側だった。
「……また休んでもいいか」
「もちろん!」
その返事を聞いて、ライアンは自分の席に座った。
誰かに必要とされることと、誰かに愛されることは同じではない。
何もしていない日にも帰ってきていい。
それを、ようやく子供たちから教わった。
休暇から戻った翌朝、ライアンは習慣どおり夜明けに目を覚ました。
食堂へ行くと、フィルが帳簿を開き、仕入れ先から届いた伝票を照合している。
「父さん、おはよう。今日は何をする予定?」
「薪を割って、鍋を磨いて……」
言いかけて、ライアンは黙った。
壁には当番表が貼られ、薪割りの欄には別の名前がある。
「俺の仕事がないな」
「あるよ。今日の昼、子供たちに海の絵を見せる約束」
ライアンは困ったように笑った。
仕事として数えたことのない約束だった。
昼、子供たちは机を寄せ、ライアンの描いた不格好な船を見た。
「これ、魚?」
「船のつもりなんだが」
笑いが起こった。
ひとりの少女が紙の端を指さす。
「ここにいる小さい人は誰?」
「宿の子だ。自分で靴紐を結べたのが嬉しくて、走っていった」
「父さんも教えてもらったの?」
「そうだな。待つのが苦手だってことを教わった」
少女はしばらく考えてから、自分の靴を差し出した。
「じゃあ、今日は私が結ぶまで待って」
結び目ができるまで、ライアンは口を出さなかった。
少女は二度失敗したが、三度目には立派な輪を作った。
「できた!」
その声に、台所の奥からセーラが顔を出した。
「父さん、手を出さなかったのね」
「手を出す方が簡単だったよ」
夕方、ライアンは自分の予定を書いた小さな紙を当番表の横に貼った。
『明日、庭で子供たちの話を聞く』
ガイアがそれを見て笑った。
「軍の予定表より難しそうだ」
「相手の話が終わるまで待たなきゃいけないからな」
「それは確かに、父さんには難しい」
夜、ライアンは旅先で破った手紙をもう一度読んだ。
『俺はもう必要ないのかもしれない』。
その紙を燃やす代わりに、裏へ新しく書いた。
『必要とされない時間にも、ここにいていい』
誰に見せるでもなく、引き出しへしまった。
次の休暇のためではない。
明日の朝、また余計な心配を始めたときに、自分で読み返すためだった。
次の日、ライアンは当番表の前で立ち止まった。
自分の名前がなくても、食堂からは笑い声が聞こえる。
彼は安心して戸を開け、手伝いではなく客として、焼きたてのパンを一つ受け取った。
休暇から戻った翌週、ライアンは厨房で手を伸ばしかけて止まった。
見習いが焦がしたパンを前に、フィルが原因を尋ねている。
「俺が代わりに焼こうか」という言葉は喉まで出たが、飲み込んだ。
フィルは見習いと焼き直しの時間を決め、朝食を待つ子供たちには先に粥を出した。
誰もライアンを呼ばなかった。
少し寂しく、けれど誇らしかった。
彼は自分の皿を洗い、次の休暇の日付を帳面に書き込んだ。
そのパンは、誰かの役に立とうとしなくても、温かかった。
だから、うれしかった。




