第六十八話 飢えをなくす法律に、最初に反対したのは農民だった
「種麦まで持っていかれたら、来年は何を植えろと言うんだ」
議会で農民ハインが立ち上がった。
備蓄法の原案は、各農家の収穫量に応じて一定割合の小麦を国が買い上げるというものだった。
飢えた町へ送るためだ。
だが不作の畑でも、割合は変わらない。
役人は「国民のため」と繰り返した。
ハインは泥のついた手帳を机に置いた。
「この数字を見てくれ。去年は水路が壊れて、収穫が半分だった。残った麦を売ったら、冬の飯も春の種もない」
ライアンは役人に反論するより先に、ハインに尋ねた。
「畑を見せてもらえるか。机の上の数字だけで、春に残す種まで決めたくない」
翌日、マリナと役人も同行した。
壊れた水路には石が詰まり、畑の端は乾いていた。
隣の村では雨が多すぎて麦が傷んでいた。
同じ法律で同じ割合を求めても、負担は同じにならない。
「数字だけで畑を測ったつもりでした」
若い役人が言った。
ハインは頷かなかった。
「謝るだけじゃ、種は戻らん」
マリナは修正案を作った。
買い上げは任意とし、種麦と家庭の食料を守る。
価格は公表し、農民と消費者の代表が確認する。
凶作時は買い上げを停止できる。
ハインはそれでも首を横に振った。
「国が買わなくても、税を払うために安く売る農家がいる」
議場がざわついた。
反対していた男が、今度は制度の穴を教えていた。
「小さな農家には税の猶予と貸付が必要です」
マリナが財源を示すと、議員は予算不足を理由に難色を示した。
ライアンはハインを見た。
「急いで通せば、困るのは来年の子供たちだ。もう一度話そう」
審議は延期された。
村へ戻ったハインを、若い農夫が責めた。
「町では今も腹をすかせた子がいるのに、法案を止めたのか」
「止めたんじゃない。来年も食わせるために直してる」
ハインは言いながら、自分も胸が痛かった。
町の空腹も本当だからだ。
そこで村の農民たちは、今すぐ出せる余剰麦を持ち寄り、価格を明記して町へ売ることにした。
マリナは運搬を手配した。
恒久的な制度を待つ間にも、今日のパンを焼く方法はあった。
数週間後、修正法案が可決された。
ただし、最初の倉庫候補地は川沿いの低地だった。
ハインが現地を見て、水害の跡を見つけた。
「また紙の上だけで決めるところだったな」
役人は候補地を変更した。
若い農夫が次の見回りを申し出た。
ハインは麦の穂を指で挟み、ようやく小さく笑った。
法律が人を救うかどうかは、議場の拍手では決まらない。
来年の春、種をまけるかどうかで試されるのだ。
修正法が成立したあとも、ハインは議会に呼ばれるたびに不機嫌そうだった。
「法律ができたから終わりだと思うな」
彼は倉庫の鍵を役人に渡さず、農民代表と救済所代表の二人が立ち会う方法を求めた。
誰か一人の善意に任せないためだ。
最初の備蓄検査で、雨漏りが見つかった。
倉庫を急いで完成させた役人は「少しの湿気です」と言ったが、ハインは濡れた袋を持ち上げた。
「この『少し』が、春の種を腐らせるんだ」
ライアンはその場で補修を命じるのではなく、倉庫の管理者に期限と予算を書かせた。
「俺がいなくても直るようにしてくれ」
ハインは初めてライアンを見て笑った。
「ようやく、農民の話が分かってきたな」
春、ハインの村で最初の種まきが始まった。
若い役人が検査に来た。
帳簿には「備蓄への売却量ゼロ」と書かれている。
「協力していないと見なされませんか」
ハインは尋ねた。
役人は改正条文を読み上げた。
「種麦を確保した後の任意売却です。ゼロでも罰則はありません」
それを聞いて、農民たちはようやく袋の封を切った。
一方、町では麦の不足が続いていた。
マリナは倉庫の在庫を掲示し、配給量の変更を住民に説明した。
「全部は守れないのか」
列の最後の男が言った。
「今ある分は隠しません。次の入荷日も、分からなければ分からないと書きます」
法案が通っただけでは飢えは消えない。
だが、畑の種と町の鍋の両方を数える仕事が始まった。
夏の初め、ハインは町の配給所を訪れた。
畑で余った麦を運んできたのだが、窓口には長い列ができていた。
「農民が値をつり上げているんだろう」
並んでいた男が言った。
ハインは言い返そうとして、荷車の荷台を見た。
運賃と保管料を引けば、手元に残る金は少ない。
それでも列の人間に、その計算は見えない。
「値段をここに書いてくれ」
ハインは紙を求め、種麦として残した量、売った量、運賃を順に記した。
男は紙を読んで眉をひそめた。
「じゃあ、こんなに高いのは誰のせいなんだ」
「誰か一人のせいにしても、麦は増えん」
その日の会合には、農民、配給所の職員、荷運びの組合が集まった。
荷運びの代表は、道の橋が壊れたため遠回りしていると説明した。
職員は倉庫の雨漏りを直す費用が必要だと言った。
「全部必要な金なのは分かった。でも、子供の椀が空なら困る」
ライアンが言うと、ハインは机を指で叩いた。
「だから橋を直すんだ。毎回、誰かが無理して安く運んでも続かない」
マリナは応急の修繕費と恒久的な架け替え費を分けて記録した。
救済費を橋の工事に流用したように見えないよう、議会にも公開することにした。
数日後、村の若い農夫がハインに尋ねた。
「町の人は、俺たちを嫌っているのかな」
「腹が減っている人間は、相手の畑まで見に来られん」
「じゃあ、どうしたらいい?」
「麦を運ぶとき、畑のことも話せ。向こうの話も聞け」
最初の備蓄検査で、若い役人は収穫量の計算が合わない畑を見つけた。
ハインは畑へ連れて行き、流された水路の跡を示した。
「紙の数字は正しい。でも畑は去年と同じじゃない」
役人は靴を泥で汚しながら歩き、検査表に被害状況を追記した。
議会へ戻った報告には、買い上げ量を減らした理由と、次の収穫までの見込みが添えられた。
町への配給量も調整が必要になったが、マリナはその不足を隠さず掲示した。
秋の検査では、備蓄倉庫の扉に新しい掲示板が付いた。
売却量だけでなく、種麦の確保状況と翌月の見込みも載せる。
見込みが外れれば、その理由を書き足す。
ハインは掲示板の文字を確かめてから、若い役人に言った。
「法律を守るってのは、紙を額に入れて飾ることじゃない。数字が間違っていたら直すことだ」
役人は苦笑し、消しゴムと鉛筆を掲示板の横に置いた。




