第六十七話 百人目の子供が、二十年ぶりに本当の名前を告げた
ユアンが出生記録を見つけたのは、移住届を出そうとした日のことだった。
古い書類には、彼が知らない名前と、父親とされる男の名が記されていた。
男には敵国への情報漏洩の疑いがあったという。
「この名前で届けを出せば、監視の対象になるかもしれません」
窓口の役人は、ユアンの顔を見ずに言った。
「俺が何をしたっていうんですか」
「お父上の記録が……」
「俺のことを聞いているんです」
役人は答えられなかった。
食堂に戻ったユアンは、ライアンに書類を差し出した。
「父さんは、俺の名前を知っていた?」
「いや。拾ったとき、お前は自分の名を言えなかった」
ライアンは古い養育帳を開いた。
最初の頁には「名前不明」
とあり、その下に「ユアン」と書き足されている。
「呼ぶ名がないと、飯の時間に探せないと思ってな」
「勝手に付けたの?」
「ああ。嫌だったか」
ユアンは答えなかった。
二十年もの間、その名前を呼ばれるたびに振り向いてきた。
今になって偽物だと言われた気がした。
翌日、ガイアは身元調査を申し出た。
「父親の疑惑が事実なら、先に確かめておいた方がいい」
「調べてほしい。でも、俺の代わりに結論を出さないでくれ」
ユアンははっきりと言った。
マリナは役所に、監視を求める法的根拠を書面で示すよう要求した。
父親の記録と息子の行動は別だ。
調査官もそれを認め、二週間後、監視の要請は取り下げられた。
しかし、出生名の記録は残った。
ユアンは生まれた家の足跡をたどった。
港町の記録係は、分からない箇所を推測で埋めなかった。
「この先は記録がありません」
その答えに落胆したが、嘘の希望を渡されるよりよかった。
帰りの馬車で、ユアンは二枚の紙を見比べた。
生まれた家を示す記録と、育った家を示す養育帳の写し。
どちらかを破れば、答えが一つになる気がした。
けれど、どちらも破れなかった。
夜、ライアンはいつもの席に椀を置いた。
「戻ったか。飯は温めてある」
「父さん。出生名は役所の記録に残す。でも、ここではユアンと呼んでほしい」
「分かった」
「……それだけ?」
「お前が決めたんだろう」
ユアンは笑いかけ、途中で泣いた。
「本当の名前が分かったら、今までの俺が消えると思ってた」
ライアンは木の名札を渡した。
幼い頃、食事の席を間違えないように作ったものだ。
「この名で呼んだ二十年は消えない。ほかの名を知ったって、同じだ」
翌朝、ユアンは本人の希望を記した訂正届に署名した。
役人は出生名と通称を別々に記録した。
帰宅した青年は名札を引き出しにしまった。
捨てるためではない。
明日も自分で取り出せる場所に置くためだった。
数日後、窓口へ来た老女は、生まれた村が戦火で失われたため証明書が一枚もないと話した。
ユアンは自分の帳面を差し出しかけ、思いとどまった。
「俺のやり方が、そのまま使えるとは限らない」役人に尋ねると、近隣の証言や古い税の記録を調べる手続きがあるという。
老女は説明を聞き、「すぐには決まらないんだね」と言った。
「はい。でも、次に何を調べるかは一緒に確かめられます」ユアンは自分の名前を誇るより先に、老女の話を最後まで聞いた。
数日後、ユアンは役所で別の青年に声をかけられた。
出生記録の誤記を直したいが、証人を探せずにいるという。
「俺のときは、養育帳があったから」
ユアンは答えてから、自分が特別に恵まれていたことに気づいた。
「記録がない人は、どうすればいいんですか」
窓口の役人は調査の申請書を示したが、読み書きができない者には難しい書式だった。
ユアンはマリナに相談し、申請に必要な項目を一枚にまとめてもらった。
自分の名を取り戻すために知った手続きを、次の誰かが使えるようにする。
その日の夕食で、ユアンはライアンに言った。
「俺、名前が二つあることを怖がってた。でも、名前を確かめる方法が一つもない人もいるんだな」
ライアンは椀を置いた。
「だったら、そっちの話も聞こう」
役所で相談を受けるようになってから、ユアンは一つの間違いに気づいた。
「出生名が分かれば安心する」と、自分の経験だけで考えていたのだ。
村から来た老女は、記録に残る旧姓を口にしたくないと言った。
戦争のあと、ようやく新しい家で暮らし始めたからだ。
「書類に昔の名を書けば、またあの村へ戻されるのかい」
役人は慌てて否定したが、老女は信用できない様子だった。
ユアンは机の端に置かれた二枚の紙を見た。
出生の証明と、今の生活を証明するもの。
自分が握り締めた紙と同じだった。
「名前を調べることと、どこで暮らすかを決めることは別です。そう書いてもらえますか」
役人は制度の説明を一行ずつ書き直した。
その帰り、ユアンは港町の記録係に手紙を書いた。
自分の父親について、未確認の噂を記録から消してほしい、と。
返事は慎重だった。
『事実でないと断定できない記述は、削除できません。
ただし、疑いが確定していないことを追記できます』
ユアンは最初、その返事に腹を立てた。
無実を証明できない人間は、ずっと疑われるのか。
だが、ライアンは手紙を最後まで読んで言った。
「消せない記録なら、その隣に今分かっていることを書いてもらおう」
「父さんは、あの人が何をしたか気にならないの?」
「気になるよ。でも、お前が何をしたかの方は、俺が二十年見てきた」
ユアンは記録係へ再び返事を書いた。
父親の疑惑を消す代わりに、息子に監視の必要はないと判断された経緯を残してほしいと。
一か月後、追記された写しが届いた。
小さな一行だった。
けれど、次に同じ記録を見る役人が、少なくとも立ち止まる理由になる。
ユアンが名札を作る日、新しく来た少女は名前を言おうとしなかった。
彼は木札を置き、「空白でもいいよ」と言った。
少女は少しして「明日、決めてもいい?」と尋ねた。
「もちろん」
その夜、ユアンは自分の古い名札と出生記録を並べて見た。
どちらも嘘ではない。
けれど、どちらか一つだけで自分が決まるわけでもない。
翌朝、少女は自分で選んだ呼び名を伝えた。
ユアンは一文字ずつ確かめながら彫った。
夕食の席でユアンは、幼い頃の木の名札を食卓に置いた。
「これ、今度は俺が新しい子に作ってもいい?」
「本人が望むならな」
「うん。先に、どう呼ばれたいか聞くよ」
ライアンは頷いた。
名前を与えたあの日の自分には、それを聞く余裕さえなかった。
今なら、息子が自分より丁寧に尋ねてくれる。




