第六十六話 王女が差し出した金貨千枚を、父さんは受け取らなかった
食堂の机に、金貨の入った箱が置かれた。
「千枚あります。冬の食料に使ってください」
王女の申し出に、ライアンは深く頭を下げた。
しかし、随行の財務官が差し出した契約書を読むと、手が止まった。
『食事の前に王家への感謝を唱えること。
食堂の正面に王家の肖像を掲げること』。
ライアンは厨房を見た。
小麦の袋はあと三つ。
薪の支払いも残っている。
明日の朝に来る子供の数を、彼は知っていた。
今ここで断れば、食事を減らすことになるかもしれない。
「この条件では、受け取れません」
王女の顔が強ばった。
「王家からの支援が不満なのですか」
「支援はありがたい。でも、食事をもらう子が感謝を口にしなければならない場所にはしたくありません」
「感謝を言うことの、何が悪いのでしょう」
ライアンは答えを急がなかった。
「言いたくて言うのはいい。言わなければ食べられないと思わせるのが、怖いんです」
財務官が言った。
「王家の支援だと示さなければ、王宮で予算を説明できません」
マリナが帳面を開いた。
「必要なのは名誉の証明ではなく、支出の説明ではありませんか。
何袋の小麦を買い、何食を提供したか。利用者の名前を公表せずに、金額は監査できます」
王女は契約書を持ち帰った。
ライアンは閉じた扉を見つめた。
「父さん、無理をしていない?」
マリナの声に、ライアンは頷きかけて止まった。
「怖いよ。明日の鍋が空になったら、俺が責められて当然だ」
「じゃあ、今夜のうちに別の備蓄を探す。断った責任を父さん一人に背負わせない」
マリナは商会へ連絡を出し、ガイアは運搬できる荷車を確認した。
断ることと、子供を飢えさせないこと。
その両方を守るために動き始めた。
その日の夕方、食堂の入口に、一人の少年が立っていた。
「今日は食べてもいいのかな」
「もちろん」
「前に別の配給所で、支援者の名前を知らないって言ったら怒られた」
ライアンは少年に椀を渡した。
「ここでは、何も言わなくていい。熱いから気をつけて」
翌日、王女は飾りのない外套を着て食堂を訪れた。
身分を告げず、列の最後に並ぶ。
前にいた子が振り返った。
「初めて? 椀はあそこにあるよ」
「お金は?」
「なくても食べられる。僕は昨日も来た」
王女は椀を受け取り、長椅子に座った。
壁には、寄付者の肖像ではなく、その日の献立と不足している食材が書かれていた。
少年はパンを半分残し、包んでもらっていた。
「弟の分?」
「ううん。明日の朝の分。朝はここが開くまでお腹が空くから」
王女は返す言葉が見つからなかった。
千枚の金貨があれば、食材は買える。
けれど、開いていない時間にどう食べるかまで考えていなかった。
宮廷へ戻ると、王女は財務官に命じた。
「感謝の条項を削除してください。会計は公開し、食事を受けた人の名前は出さない。それから朝食の提供方法も相談します」
「王家の名が残りません」
「帳簿には残ります。それで十分です」
数日後、改めた契約書が食堂へ届いた。
ライアンは条件を確認して署名した。
金貨は会計係が数え、マリナが使途と残高を掲示した。
「今度は受け取ってくださるのですね」
「はい。王女様が子供の食卓を守ってくれるなら」
王女は頷いた。
翌朝、食堂では早い時間にも温かい粥が配られた。
金貨で買った小麦だけではない。
新しい時間帯を担当する人を募り、無理なく続けられるか一週間試すことにしたのだ。
昨日の少年が粥を受け取り、王女に気づかないまま笑った。
「今日は、明日の分を心配しなくていいや」
王女は名乗らなかった。
試験の一週間が終わると、マリナは朝の利用人数と残った粥の量を掲示した。
王女はそこに自分の名前がないことを確かめた。
「名前より、続けられるかどうかを知りたいのです」
財務官は黙って次月の費用を計算し直した。
支援を受け入れて一か月後、王女は会計報告のために食堂を訪れた。
壁に貼られた数字には、購入した小麦の量だけでなく、廃棄した食材の重さも記されていた。
「残った分があるのですね」
「はい。多めに作りすぎた日がありました」
マリナは隠さず答えた。
財務官は眉をひそめた。
「王家の金を無駄にしたと報告するのですか」
「使った結果を報告するんです。次は減らせるように」
王女は数字の横に書かれた献立を見た。
雨の日は利用者が少なく、寒い朝は粥を求める人が増える。
「明日の人数は、どうやって予想するのですか」
「完全には分かりません。だから余った分を安全に保管できる時間も決めています」
マリナは説明し、調理責任者にも確認を取った。
王女は頷いた。
寄付をする側にできるのは、立派な報告書を求めることではなく、間違いを隠さず話せる条件を作ることなのだと分かった。
その日の帰り際、例の少年が王女に声をかけた。
「お姉さん、前も来たよね」
「ええ」
「粥が早くなって、弟と一緒に食べられるようになった」
少年は小さな弟の手を引いていた。
「でも、弟は熱いのが苦手だから、冷めるまで待ってる」
王女は椀を見つめた。
早く出すことが、すべての子にとって食べやすいことではない。
「席で待てる場所があるといいですね」
少年は首を傾げた。
「もうあるよ。あそこの窓際。フィルが椅子を増やしてくれた」
王女は思わず笑った。
自分が思いつくより前に、ここで働く人たちが気づいていた。
王宮に戻ると、財務官が新しい報告様式を差し出した。
支援した施設に、王家への感謝状を求める欄が残っていた。
王女は筆で線を引いた。
「この欄は要りません」
「しかし、成果を示す資料が」
「利用した人の数と、困りごとへの対応を示してください。感謝の言葉を集めても、空腹が減ったかどうかは分かりません」
財務官はしばらく考え、様式を書き直した。
次の冬、同じ制度で支援を受ける施設が増えた。
王女はその知らせを聞いても、肖像を飾るようには命じなかった。
王女は次の寄付の契約書にも目を通した。
そこには寄付を途中で止める場合の通知期限が書かれていなかった。
「支援が急に途絶えたら、食堂は困りますね」
財務官は驚いた顔をした。
「王家が寄付をやめることまで考えるのですか」
「考えなければいけません。支援する側の都合で、子供の食事を止めるわけにはいかないから」
王女はマリナと相談し、変更があるときは事前に知らせる条項を加えた。
その条項を見たライアンは、「これなら来年の冬も計画が立てられます」と言った。
王女は初めて、寄付を受け取る側の安心が何から生まれるのかを知った。
その冬、王女は食堂の入口で、少年が自分から「ありがとう」と言うのを聞いた。
誰も求めていない言葉だった。
王女は微笑んで頷き、献立と残高の掲示板へ目を向けた。
感謝を集めるための金貨ではなく、明日の食事を続けるための金貨にできた。
ライアンは厨房から二人を見ていた。
あの日、千枚を断った手は震えていた。
今も、選んだ道がいつも正しいとは思わない。
それでも、食べる子が頭を下げるかどうかで、椀の中身が変わる食堂にはしない。




