第六十五話 百万軍の大将軍が、孤児院の門番になった日
夜半、倉庫の扉が軋んだ。
ガイアが灯りを向けると、元兵士の男が小麦袋を抱えて立っていた。
男の背後では幼い娘が泣いていた。
「袋を下ろせ」
男は従った。
剣に手を掛けた夜警を、ガイアが制した。
「盗みは見逃せない。けれど、子供に食事を与えるのは別の話だ」
ガイアは夜警に記録を任せ、娘を食堂へ連れていくよう頼んだ。
男は娘の背中を見送り、ようやく膝をついた。
「復員手当が止まったんです。働き口もなくて」
「それを確かめる。だが、ここには食料を待っている子供がいる。奪っていい理由にはならない」
翌朝、マリナが調べると、男の所属していた補給隊は戦後に解散し、記録の一部が移管されていなかった。
本人の勤務証明は残っている。
窓口で再審査できるはずだった。
「将軍の名前で命令すれば、すぐ通ります」
部下の提案にガイアは首を振った。
「俺の知り合いだけが救われる仕組みなら、次の男はまた盗みに来る」
マリナは申請の手順を書き直し、同じ状況の元兵士にも知らせるよう役所に求めた。
男には倉庫の修繕仕事を紹介した。
賃金を払う契約で、盗んだ袋の弁償についても別に話し合う。
ところが、倉庫係の老婆が反対した。
「あの夜、孫は怖がって眠れなかった。盗みに入った人間を、今度は門に立たせるのかい」
男は何も言えなかった。
ガイアは老婆に頭を下げた。
「信用してくれとは言いません。鍵は夜警長が管理します。男は修繕から始め、見張りには必ず別の人間をつけます」
「それなら、いつ許せばいいんだい」
「許すかどうかは、あなたが決めてください。仕事を任せることと、許しを強いることは違います」
男も顔を上げた。
「弁償はします。でも、許してくださいとは言いません。娘に、盗む以外の生き方を見せたい」
一週間後、男が直した門の蝶番は静かに動いた。
夜警長が施錠を確かめ、勤務表に署名した。
「今夜は見習いとして門に立て。ただし、夜明けまで一人で頑張ろうとするな」
「信用を取り戻したいんです」
「眠らない門番は判断を誤る。交代して休むのも仕事だ」
男は頷いた。
夜更け、ガイアが巡回すると、男は時間どおりに交代していた。
倉庫係の老婆が遠くからその様子を見ていた。
「まだ、許したわけじゃないよ」
「分かっています」
「でも、明日も鍵の音を聞いてみる」
老婆はそう言って帰った。
百万の兵を動かした大将軍にも、人の信頼を一晩で取り戻す命令は出せない。
ガイアは剣を鞘に納め、門の脇に立った。
次の交代まで、男と同じ冷たい風を受けながら。
翌朝、門の前には復員兵の男だけでなく、仕事を探す若者が二人並んでいた。
ガイアは三人に同じ勤務条件を説明した。
夜勤の回数、賃金、休みの日、そして危険を感じたら一人で対処せず連絡すること。
男が「将軍がいるなら安心だ」と言うと、ガイアは首を振った。
「俺がいない日にも安全でなければ意味がない」三人は交代表にそれぞれ名前を書いた。
初日の終わり、娘を迎えに来た男は門の鍵を次の当番へ渡した。
誰かの好意ではなく、約束された仕事として門が守られ始めた。
その翌週、男の復員手当の再審査結果が届いた。
未払い分の一部は支給されるが、残額の確認には時間がかかるという。
「全部戻ると決まったわけじゃないんですね」
「そうだ。だから今の仕事の賃金は、手当とは別に支払う」
ガイアは勤務記録を男に渡した。
門番としての仕事が、将軍の気まぐれな施しにならないようにするためだった。
男は娘を呼び、帳面の金額を指さした。
「これは父さんが働いてもらった金だ。盗んだ袋の代わりに、倉庫へ返す分もここから払う」
娘は数字を読めなかった。
だが、父が目をそらさずに話す姿を見つめていた。
門番の仕事が始まって十日目、夜警長が一枚の報告書を持ってきた。
「昨日、食料庫の裏に人影がありました。見習いが追いかけようとしています」
ガイアは報告書の最後を見た。
追跡は行わず、笛で応援を呼んだとある。
「正しい判断だ」
「しかし、逃がしてしまいました」
「守るべきは小麦と子供たちだ。追って門を空ければ、もう一人が入れる」
見習いの元兵士は、褒められても顔を上げなかった。
「昔の部隊なら、敵を逃がしたと殴られました」
「ここは戦場じゃない。失敗を隠すより、次の夜を安全にすることが大事だ」
翌朝、夜警長は門の死角を調べた。
壁際の積み薪が高く、外から倉庫の様子をうかがえる場所があった。
薪を移すには人手が要る。
倉庫係の老婆が、孫と一緒に作業へ加わった。
「私が鍵の音を聞いているだけじゃ足りなかったね」
元兵士は薪束を抱えながら、言葉を探した。
「娘がここで食べさせてもらったこと、まだ礼を言っていませんでした」
「礼なら、娘が腹いっぱい食べてからにしな」
老婆はそっぽを向いた。
昼、ガイアは勤務表に一つ欄を増やした。
異常を見つけた時刻と、誰へ知らせたかを書く欄だ。
夜警長が尋ねた。
「将軍が直接見回れば早いのでは?」
「俺がいなくなった翌日に壊れる門では困る」
その言葉を聞いた元兵士は、娘が読めるようになるまで勤務表を家へ持ち帰らないと決めた。
仕事の証拠を娘に見せる日は、弁償が終わってからにしたかった。
月末、倉庫係の老婆が見習いへ小さな紙包みを渡した。
中には油を染み込ませた布があった。
蝶番の手入れに使うものだ。
「門は直った。でも冬にはまた軋むよ」
「そのときは、また直します」
「約束だけじゃ駄目だ。油を差す日も勤務表に書きな」
ガイアは二人のやり取りを聞き、笑わずに頷いた。
信頼とは、許しの言葉よりも、明日の仕事を任されることなのかもしれない。
翌朝、娘は門の前で父を待っていた。
『お仕事、終わった?』『ああ、次の人に鍵を渡したよ』男は鍵のない手を広げた。
娘はその手を握り、二人で家へ帰った。
門番になった元兵士は、ある朝、古い部隊の仲間と鉢合わせた。
「将軍に拾われて、いい身分だな」と笑われる。
男は言い返さず、来訪者の名前を帳面に書いた。
ガイアが口を挟もうとすると、男は小さく首を振った。
仕事が終わってから男は言った。
「娘には、将軍の名でなく俺の働きで飯を食わせたい」
ガイアは翌月の勤務評価を他の門番に任せた。
特別扱いをしないことも、彼に返せる敬意だった。
門の内側では、子供たちの朝食の匂いがした。
ガイアはその匂いを確かめ、今日も門が守られたと知った。




