第六十四話 大聖女の病院で、治せない患者が笑った理由
「治らないなら、どうして今まで黙っていた」
テオの声に、医師は答えられなかった。
窓の外では市場の鐘が鳴っていた。
テオは長年、木馬を作る職人だった。
だが病気が進み、指の力も落ちていた。
医師は回復が難しいと知りながら、本人には「様子を見ましょう」とだけ伝えてきた。
「希望を失わせたくなかったのです」
「希望を決めるのは、わしじゃ」
セーラは医師を責めなかった。
ただ、椅子を引いてテオの目線に合わせた。
「今から、分かっていることをお話しします。途中で聞きたくなくなったら、止めてください」
テオは頷いた。
病気を元どおりに治す方法は見つかっていないこと。
痛みを和らげる治療は続けられること。
これからの時間について、確かな日数は誰にも言えないこと。
「なら、孫に木馬を作りたい」
「指が痛むでしょう」
「だから、できるところを教えてほしい」
翌日、木工職人が病室に来た。
刃物を使う工程は職人が受け持ち、テオは車輪の形を選んだ。
孫の好きな青い色を、娘が持ってきた小瓶の絵の具で塗ることにした。
ところが二日目、テオは起き上がれなかった。
「明日まで待てば、少しはよくなるかもしれない」
医師がそう言うと、テオは目を閉じた。
「明日が来ると決めて話すな。今日できることはないか」
セーラは木馬を枕元へ運んだ。
車輪はまだ一つしかついていない。
「色を選ぶだけでも、立派な仕事ですよ」
「それなら、あの青じゃない。孫は赤が好きだった」
娘が笑った。
「お父さん、青が好きなのは私よ。あの子は赤」
「そうか。わしも随分、勝手に決めていたんだな」
テオは小さく笑い、しばらくして眠った。
その晩、医師はセーラに尋ねた。
「治せない患者に、私たちは何ができるのでしょう」
「何もできないと決めつけないことです。それから、本人が望むことを聞くこと」
「でも、願いをかなえられなかったら」
「できると約束する必要はありません。一緒に考えると約束すればいい」
数日が過ぎて、テオは短い時間だけ椅子に座れた。
職人が木馬を完成させ、娘が孫を連れてきた。
少年は赤い車輪の木馬を床に走らせた。
「おじいちゃん、これ、まっすぐ走らないよ」
テオは顔をしかめた。
車輪の軸が少し曲がっていた。
「職人としては失敗だな」
「でも、僕が直せるよ。教えて」
テオは震える指で軸を指し、油を一滴差す場所を教えた。
少年は真剣に聞いていた。
「次は自分で作ってみる」
「そうしろ。わしより上手に作れ」
テオは声を上げて笑った。
痛みが消えたわけではない。
未来の不安がなくなったわけでもない。
だが、今日の笑い声は本物だった。
医師は診療記録の最後に、新しい欄を作った。
『本人が、残された時間に望むこと』。
医師は新しい欄の横に『本人への説明日』『希望を実現するための協力者』も設けた。
テオが望んだ工作の時間は、薬の量を変えただけでは生まれない。
少年が来られる曜日を確かめ、作業台を車椅子の高さに合わせる必要があった。
翌週、医師は新しい記録欄を使って、別の患者に話を聞いた。
「今、一番気になっていることはありますか」
患者の女性は薬の説明を聞いたあとで、窓の外を指した。
「家の猫です。隣人に頼んだきりで」
医師は一瞬戸惑った。
治療方針とは関係がないと思ったのだ。
しかしセーラは、女性がその話をするあいだだけ表情を和らげることに気づいた。
「連絡できる方はいますか」
看護師が隣人への手紙を預かり、翌日には猫の世話が続いていると返事が届いた。
女性はようやく夜に眠れたという。
「薬より効いたとは言いませんよ」
女性は笑った。
「でも、眠れない理由を一つ減らしてもらいました」
医師は診療録に、薬の効果と生活上の心配を別々に記した。
テオの木馬も、完成して終わりではなかった。
孫が何度も遊ぶうちに、車輪の軸が緩んだのだ。
娘は修理を頼みに来るのをためらった。
「父にまた仕事をさせたら、疲れさせるでしょうか」
セーラはテオに直接尋ねた。
「今日は指が痛い。見て教えるだけならできる」
その言葉を聞いて、職人は小さな工具を持ち込み、孫に作業を任せた。
テオは椅子から、削る方向を一つずつ伝えた。
「強く押すな。木のほうをよく見ろ」
孫は言われたとおりに手を動かし、車輪を回した。
今度は真っすぐ走った。
「おじいちゃんが直したんだね」
「違う。お前が直した」
テオの声は弱かったが、その言葉だけははっきりしていた。
医師は後日、セーラに一枚の紙を見せた。
患者の希望を聞くための質問を増やしたが、長すぎて疲れる患者もいるという。
「聞けばいいというものでもないのですね」
「そうですね。答えたくないときは答えなくていい。本人が話せる時間に、少しずつ聞きましょう」
二人は質問を減らし、必要な項目を先に確認する形に変えた。
テオが教えてくれたのは、何かを作る技術だけではない。
相手の時間を、こちらの都合で決めないことだった。
翌朝、テオは自分で医師を呼んだ。
「今日は工作を休む。孫には、疲れたから休むと伝えてくれ」
医師は頷いた。
「分かりました。明日も、やるかどうかはテオさんが決めてください」
病室の外で娘が待っていた。
「父は、頑張らないといけないと思っているんです」
セーラは静かに答えた。
「休むことも、本人が選べるようにしましょう」
娘は頷き、木馬を棚に戻した。
青い絵の具の小瓶は、まだ使われないまま残っている。
娘はそれを見て微笑んだ。
「これは私が好きな色なんです。今度は父に、私のための小さな箱を作ってもらおうかしら」
「頼む前に、できるか聞いてみてくださいね」
セーラの言葉に、娘は少し照れたように笑った。
医師はその日の診療録に『本人の希望により休息』と記した。
病状だけでは読み取れない、大切な判断だった。
午後、テオの娘は病室へ木片を持ち込んだ。
「小箱を頼んだら、父が疲れると思って」
テオは木片を掌に載せ、長い間眺めた。
「今日は角を一つ削るだけにしよう」
娘が刃物を用意しようとすると、セーラは医師に痛みと疲労の確認を頼んだ。
テオは自分で削る時間を決め、十分後に道具を置いた。
出来上がったのは箱ではなく、小さな丸い角だった。
「続きは明日でいい」
娘はその木片を大切に包んだ。
治療の記録には、痛みの強さだけでなく、本人が望んだ作業を終えられたことも記された。
セーラは記録を確かめ、翌日の予定にテオの休息時間を記した。




