第六十二話 英雄百人がいなくても、朝のパンは焼けるのか
「ガイア様を呼べば、橋の向こうから粉を運んでもらえます」
粉屋の荷車が来ないと知ったエルは、連絡札を握りしめた。
英雄たちが食堂の運営を任せて三日目。
一週間の試験は、まだ半ばにも達していなかった。
橋の補修が長引き、小麦粉は予定より二日遅れるという。
「呼ぶのは最後にしよう」
フィルは在庫を数えた。
今ある粉では、全員のパンを焼けない。
「朝食を抜くわけにはいかない」
「でも、別の粉屋は値段が倍だよ」
エルの声が震えた。
フィルは帳面を広げ、残った大麦と昨日のパンを確認した。
大麦は粥にできる。
固くなったパンは汁に浸せば食べられる。
小麦を食べられない子もいれば、固形物を飲み込みにくい子もいる。
調理器具を分け、材料を確認する必要があった。
「同じものを全員に出すだけじゃ駄目なんだね」
「そう。まず、誰が何を食べられるか確かめよう」
二人は献立を三つに分けた。
いつものパンを楽しみにしていた子には、説明してから選んでもらう。
「今日は大麦の粥。明日はパンを焼けるように手配する」
掲示板に書いたが、子供たちの表情は明るくならなかった。
「明日って、本当?」
少年が尋ねた。
フィルはすぐに「絶対」
とは言わなかった。
「約束したい。でも、橋がまだ直らない。だから、別の道も探してる」
「前の施設でも、明日って言われた」
その声に、エルは返す言葉が見つからなかった。
食べ物の約束を破られた子にとって、献立の変更は小さなことではなかった。
エルは町の粉屋へ走った。
迂回路なら届けられるが、荷車を二台使うため運賃が上がる。
全量を買えば翌月の薪代が足りなくなる。
エルは値切る代わりに、二日分だけの見積もりを頼んだ。
残りは近くの農家から大麦を仕入れる。
「今あるお金で、明日も明後日も食べられる方法にしたいんです」
粉屋は少し考え、配達時刻を書いた紙を渡した。
「橋が直ったら、元の値段に戻す。その日も書いておこう」
翌朝、粉は見積もりに記された時刻に届いた。
エルは納品量と運賃を帳簿に書き、次の便の手配先も控えた。
しかし、焼き始める直前に井戸の水が濁った。
エルは桶を置いた。
「この水じゃ生地を作れない」
「英雄に頼む?」
と見習いが聞いた。
フィルは首を振った。
「まず、井戸の修理屋を呼ぼう。飲み水は共同水場から運ぶ。足りない分は、調理を遅らせる」
結果、朝食は三十分遅れた。
子供たちは不満を口にしたが、フィルは遅れの理由を説明し、先に温かい汁を配った。
七日目、ガイアたちが戻ってきた。
「何も問題はなかったか」
フィルは帳面を開いた。
「問題だらけだった。三日目は粥に変更。四日目は水が足りなくて遅れた。でも、食べられなかった子はいない」
ガイアは笑いかけ、途中で表情を引き締めた。
「よくやった、で終わらせていいのか」
「駄目。次は井戸の点検を先にする。粉屋も一軒だけに頼らない」
エルが続けた。
「それと、子供に『明日』
って言う前に、何が確かで何が未定か伝える」
ライアンは厨房の隅で、焼き上がったパンを一つ受け取った。
底は少し焦げていた。
「父さん、失敗した」
とエルが言う。
ライアンは半分に割り、一切れをエルへ渡した。
「失敗を隠さずに、次の朝のことを考えたんだろう」
エルは自分の分を食べた。
英雄に頼らず切り抜けた一週間は、何も起きなかった一週間ではない。
フィルは次の発注書に、代わりの粉屋と確認期限を書いた。
遅れが分かった日に献立を変え、食物制限のある子の分は別に確保する。
次の朝、エルは帳面を見て「今日は何を焼けるか、先に言える」と笑った。
一週間の試験が終わっても、エルの心には一つだけ引っかかることがあった。
あの朝、粥を食べられなかった少女がいたのだ。
体調が悪くて、温かいものの匂いさえつらかったらしい。
後でセーラの医療班が診てくれたから大事には至らなかったが、帳面には「食事提供済み」と記されていた。
「これ、間違いだよね」
エルが指すと、フィルは筆を止めた。
「食堂に出した数と、子供が食べた数は違う」
二人は配膳表を作り直した。
名前を人目にさらさず、必要な配慮だけ厨房に伝える欄を設ける。
食べられなかった子には、後から食べられるものを選んでもらう。
無理に完食させない。
翌朝、少女は少量の薄い汁を選んだ。
「昨日の粥、嫌いだった?」
エルが尋ねると、少女は首を振った。
「匂いが強いと、気持ち悪くなる日があるの」
「じゃあ、今日は別の鍋で作るね」
少女は小さく頷いた。
エルはその返事を、特別な許可を得たように大切に聞いた。
月末、フィルは代替の粉屋へ支払った運賃を集計した。
通常より高かったが、食堂を閉めた場合の影響と比べれば、緊急時の費用として備える価値がある。
とはいえ、毎回その値段で買うわけにはいかない。
「予備費を作ろう」
とフィルが言う。
「そのお金がないから困っているんじゃない?」
「だから一度に貯めない。無理のない額を、毎月分けておく」
エルは帳面の端に小さな欄を引いた。
粉代、薪代、水の点検費。
それから、予備費。
次の橋の工事予定を調べると、粉屋が先に知らせてくれることになった。
「英雄を呼ばないって、意地を張ることじゃないんだね」
「うん。自分たちで判断して、必要なら助けを頼む。そのためにも、何が足りないか知らないと」
エルは連絡札を捨てなかった。
札は厨房の見える場所に掛け、使う条件を皆で決めた。
粉屋の遅配が解消した日の夕方、エルは橋の向こうへ礼を言いに行った。
粉屋の主人は、壊れた車輪を見せた。
「橋だけの問題じゃない。うちの馬も老いた」
エルは新しい契約書に、遅配時の連絡先だけでなく、代替の荷車を手配する費用の分担を書き足した。
主人は驚いた。
「値切りに来たんじゃないのか」「次も届けてもらいたいんです」
帰り道、エルは小麦袋より重かった自分の見栄を、ようやく下ろせた気がした。
翌週、ライアンは朝食の列で少年から尋ねられた。
「今度また橋が壊れたら、パンはなくなる?」
エルは父の返事を待たずに答えた。
「なくならないように準備する。でも遅れることはある。分かったら、先に知らせるね」
少年は少し考えてから、「じゃあ、知らせて」と言った。
その一言を聞いて、エルは初めて胸を張れた。
エルは新しい表の一番上に『まず子供の体調を確かめる』と書いた。
粉の量だけを数えていた頃には、そこに気づかなかった。
困ったときに誰へ相談すればよいかも、厨房の皆が覚えた。




