↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
飢えた孤児100人を育てた俺、20年後に英雄たちから「父さん」と呼ばれています  作者: レモンティー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
61/120

第六十一話 継承の朝、父さんが最初に渡したのは鍵ではなく鍋だった

「鍵は、まだ渡さない」

ライアンの言葉に、フィルは思わず顔を上げた。

今朝から食堂の責任者になるはずだった。

帳面も仕入れ先も覚えた。

なのに、父さんは鍵束を机に置いたまま、焦げた大鍋を差し出した。

「まず、これで朝食を作ってみろ」

「鍋なら、いつも洗ってるよ」

「洗うのと、百人分を食べさせるのは違う」

夜明け前、厨房にはマルタとフィルだけがいた。

麦を量り、水を張り、薪を組む。

鍋の底に残る黒い跡は、ライアンが昔、初めて大人数の粥を焦がした名残だという。

「父さんにも失敗した日があったんだ」

「毎日だよ」

とマルタは笑った。

ところが火をつけた直後、マルタがふらついた。

熱がある。

「今日は休んで」

「この人数をあんた一人で?」

フィルは答えられなかった。

手伝いを呼ぶべきか、父さんを起こすべきか。

迷っているうちに、薪の火が強くなった。

そこへ寄付者が現れた。

「英雄の署名がなければ、来月の寄付は続けられません。責任を取れる方を呼んでください」

フィルは鍋をかき混ぜながら、帳面を差し出した。

「今日の朝食は僕が作ります。仕入れと残金は、ここにあります」

「責任者が調理中とは、ずいぶん頼りない」

言い返したかった。

けれど鍋から目を離せば、粥が焦げる。

「頼りないのは、その通りです。でも、数字を隠すつもりはありません」

寄付者は訂正印のついた行を指さした。

「間違いまで載せるのですか」

「はい。間違えたことが分からなければ、次の人も同じ失敗をします」

寄付者が帰ると、フィルは厨房の入口に立つ若い見習いを見つけた。

「手伝ってくれる?」

「僕でも?」

「椀を並べて。熱い鍋には触らなくていい」

見習いは勢いよく頷いた。

マルタには水を運び、寝室へ戻ってもらった。

「休んでる間、何かあったらどうするんだい」

「帳面に書いておく。次に困ったら、みんなで考える」

朝食は十分遅れた。

一番小さな子が「お腹すいた」

と泣き、フィルは頭を下げた。

「ごめん。明日はもう少し早く作る」

「明日もフィルが作るの?」

「うん。マルタさんが元気になるまでは」

子供は椀を両手で持ち、ひと口すすった。

「ちょっと焦げくさい」

「……ごめん」

「でも、あったかいよ」

それを聞いて、フィルの肩から力が抜けた。

昼前、ライアンが厨房へ来た。

フィルは失敗も遅れも隠さず報告した。

寄付者への返事、見習いの仕事、マルタの熱。

全部話し終えると、鍵束を見た。

「まだ、渡せない?」

ライアンは鍋の焦げ跡を指でなぞった。

「俺なら今朝、どうしたと思う?」

「一人で全部やろうとしたかも」

「そうだ。だから昔は、何度も失敗した」

ライアンは鍵を差し出した。

「お前は人に頼めた。自分の失敗も話せた。俺より上手だよ」

フィルは鍵を受け取ったが、すぐに腰へ下げなかった。

「合鍵も作る。僕が倒れたら、次の人が開けられるように」

「それがいい」

その日の終わりに、フィルは見習いたちへ翌朝の役割を一人ずつ尋ねた。

自分だけで決めない練習も、責任者の仕事だった。


三日後、フィルは最初の大きな失敗をした。

仕入れの注文を二重に書き、同じ日に麦袋が二台の荷車で届いてしまったのだ。

「どうしましょう。倉庫には入りません」

見習いが青ざめる。

フィルは頭の中で父さんの顔を思い浮かべた。

以前なら、黙って一台を帰していただろう。

しかしそれでは御者の運賃が無駄になる。

「まず二台とも待ってもらって。注文書を見せて、こちらの間違いだと伝える」

御者の一人は怒った。

「往復の半日を返してくれるのか!」

「返せません。だから、契約にある待機料を払います」

「そんな金があるなら子供に食わせろと言われるぞ」

フィルは答えに詰まった。

確かにその金は寄付から出る。

だが、相手の仕事をただ働きにしてよい理由にはならない。

「僕の間違いを、あなたに負担させたくないんです」

御者はしばらく黙り、荷車の横木にもたれた。

「だったら次は注文書を二人で見ろ。俺も積み込み前に確認する」

余った麦は、近隣の救済所に必要量を尋ねてから回した。

帳簿には誤発注と待機料を隠さず記載した。

マリナが後日確認すると、フィルは先に頭を下げた。

「父さんなら、こんな間違いはしなかったかな」

「したわよ。昔、塩を三か月分も買って、湿らせたことがある」

マリナは笑った。

「大事なのは、同じ間違いを見つけられる仕組みを作ること」

二人は注文書に確認者の欄を増やした。

記入する人と確かめる人を分け、急ぐ日ほど声に出して数量を読み合わせる。


その晩、ライアンは新しい注文書を見せられた。

「細かい字が増えたな」

「面倒だと思う?」

「少しな。でも、面倒なことを誰か一人に押しつけないための字だろう」

フィルは頷いた。

鍵を受け取ることは、間違えない人間になることではない。

間違えたとき、食堂を止めずに直せる人間になることだ。

フィルは翌日の献立を黒板に書いたあと、ふと鍋底の焦げ跡を指でなぞった。

前なら失敗を隠すために磨き続けただろう。

今は違う。

見習いを集め、「火を強くしすぎたのは俺だ。明日は二人で火加減を確かめてほしい」と告げた。

年下の料理人が「責任者なのに間違えるの?」と聞く。

「間違える。だから、間違えたときに止めてくれる人が必要なんだ」


翌朝、鍋のそばには火加減を記した木札が吊られていた。

ライアンはそれを見て、鍵を渡した意味を初めて実感した。

翌朝、献立表にはフィルの字で「麦粥」

と書かれ、その下に見習いの字で「椀の数、確認済み」と添えられた。

焦げた鍋は、今日も火に掛かっている。

父さんがいなくても朝が来る。

そのことが寂しいのではなく、頼もしいと思える日が、ようやく始まった。

フィルは鍵を受け取ったその日に、食堂の入口へ緊急連絡先を掲示した。

「責任者がいない日はどうする?」

見習いが尋ねる。

「代理を決める。食材が足りないときは、隠さず献立を変える。体調の悪い人を無理に働かせない」

マルタは椅子に座り、湯を飲んでいた。

「ずいぶん立派な決まりね」

「今朝、決まりがなかったから困ったんだ」

ライアンは掲示を読み、最後の空欄を指した。

『困ったことを伝える相手』

フィルはそこへ自分の名を書き、その下に代理の名も書いた。

「父さんだけに知らせる仕組みは、今日で終わりにしたい」

ライアンは頷いた。

鍵を渡すとは、扉を開ける権利だけでなく、誰かが声を上げられる場所を渡すことだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。