第六十話 百人の英雄が選んだのは、父さんのいない未来だった
古い食堂には、百人の子供とライアンのための百一脚の椅子があり、後から加わった一脚も残されていた。
百人の子供たちと、父さんの一脚。
ライアンは長い年月、そう数えてきた。
だが今夜は、椅子の数だけでは足りない。
新しく救われた子供たちが、窓際の長椅子にも座っていた。
「今日は、俺がいなくなったあとの話をしたい」
ライアンがそう言うと、ガイアが立ち上がった。
「縁起でもないことを言うなよ、父さん」
「明日の話だ」
「明日なら、父さんはいるだろ」
「そうだな。でも、明後日は熱を出すかもしれない。来年は足が悪くなるかもしれない」
セーラがライアンの顔を見た。
「体の具合が悪いの?」
「今は元気だ。ただ、元気なうちに決めたいんだ」
マリナが古い帳面を開いた。
最初のページには、黒パンの代金が書かれていた。
その隣に、かすれた字で『明日は二つ』とある。
「これ、私が書いたの?」
セーラが尋ねると、ライアンは笑った。
「お前が、外で泣いてた子の分も欲しいと言った日だ」
セーラは黙って文字をなぞった。
あの日、ライアンは自分が明日もパンを買えるかどうか、分かっていなかった。
それでも約束をした。
「父さんの代わりを、誰か一人がやるのは無理ね」
マリナが言った。
「私が会計を預かっても、医療は分からない。ガイアが守っても、台所は回せない」
ガイアは苦い顔をした。
「俺は鍋を焦がす」
「知ってる」
セーラが即答すると、食堂に笑いが広がった。
けれど、問題は笑って終わらなかった。
マリナが食料の帳簿を示した。
寄付は月によって大きく変わり、保管倉庫の鍵はライアンしか持っていない。
セーラの施療院も、彼女が不在になると判断できない案件がある。
ガイアの護衛隊は、命令系統が一人に集中していた。
「父さんが倒れたら、三つとも止まる」
マリナははっきり言った。
「そうだ」
ライアンは認めた。
「俺が全部抱えてたせいだ」
最初に手を挙げたのは、食堂で働くフィルだった。
「鍵を僕にください」
ガイアが心配そうに見た。
「まだ若いだろ」
「だから、一人では持たない。交代できるように、合鍵と記録を作りたい」
マリナは頷いた。
「鍵を渡すだけじゃなく、在庫を数える人と支出を確認する人を分けよう」
セーラも続けた。
「施療院は担当者を育てる。私がいなくても診察が止まらないように」
ガイアは腕を組んで考えた。
「護衛は地域ごとに責任者を置く。ただし、緊急時の連絡方法は統一する」
ライアンは口を挟まなかった。
それぞれが案を出し、異論を言い、直していく。
誰も父さんの答えを待っていない。
ほどなく、窓際にいた小さな男の子が手を挙げた。
「父さんがいなくなったら、ここに来ちゃ駄目なの?」
食堂が静かになった。
ライアンは男の子の前にしゃがんだ。
「来ていい。俺がいなくても、腹が減ったら来ていいんだ」
「でも、誰がご飯をくれるの?」
フィルが答えた。
「僕が作るよ」
「フィルが病気になったら?」
マルタが笑った。
「そのときは私が作るさ」
「マルタさんも病気になったら?」
今度は見習いの少年が手を挙げた。
「僕、椀を並べられる。麦を量るのも習う」
男の子は少し考えてから頷いた。
「じゃあ、大丈夫だね」
会議の終わりに、ライアンは食堂の鍵を机へ置いた。
フィルは受け取ったが、すぐに腰へ下げなかった。
「明日、合鍵を作ります。それから、鍋の使い方も教えてください」
「鍋はマルタの方が上手だ」
ライアンが言うと、また笑いが起きた。
夜遅く、子供たちが寝静まったあと、ガイアが父の隣に座った。
「父さんのいない未来なんて、選びたくない」
「俺も、お前たちのいない未来は嫌だよ」
「じゃあ、どうして」
ライアンは空になった椀を見た。
「お前たちが、俺の代わりをするために生きるのは嫌なんだ。自分の人生を生きてほしい」
ガイアは何も言わず、父の椀を片づけた。
翌朝、厨房から鍋を洗う音が聞こえた。
ライアンが起きるより先に、フィルと見習いたちが朝食の支度を始めている。
ライアンは扉の前で足を止めた。
自分がいなくても、朝が来る。
それは、置き去りにされることではなかった。
あの日渡した黒パンが、百人の手を渡って、明日の食卓まで届いたということだった。
ライアンは厨房へ入り、何も命じずに椀を一つ取った。
「俺の分も、あるか?」
「もちろんだよ、父さん」
翌月、食堂では初めてライアンのいない当番日を設けた。
病気ではない。
ライアンは朝から近くの村へ畑仕事を手伝いに行き、食堂の鍵にも帳簿にも触れない約束だった。
「本当に何もしなくていいの?」
セーラが何度も確認する。
「それを試す日だろう」
ライアンは笑って出かけた。
ところが昼前、仕入れ先から小麦の到着が一日遅れると知らせが来た。
フィルは倉庫を調べ、夕食の分は残るが翌朝の分が足りないと気づいた。
「父さんを呼ぼう」
見習いが言った。
フィルも一瞬、そうしたくなった。
父さんなら、昔の知り合いに頼んで麦を手に入れるかもしれない。
だが、フィルは掲示した手順を開いた。
最初に在庫を確認し、次に代替の献立を考え、最後に不足を知らせる。
「今夜は麦粥を薄めない。代わりに豆の煮込みを増やす。明朝の分は、隣の共同厨房に相談しよう」
「断られたら?」
「そのときは別の方法を考える。隠さないことが先だ」
共同厨房は麦を分けてくれた。
ただし、その日の午後は向こうも人手が足りなかった。
フィルは食堂の見習い二人を手伝いに出し、借りた麦の返却日を帳面に書いた。
「これで本当に大丈夫かな」
見習いが心配する。
「分からない。でも、どこで困ったかはみんなに話せる」
夕暮れ、ライアンが帰ると、食堂には豆の香りが漂っていた。
フィルは麦の遅延も、借り入れも、手伝いに出した人数も報告した。
「俺なら昔、誰にも言わずに走り回って、夜中に倒れてたな」
ライアンが言うと、ガイアが苦笑した。
「それ、何度も見た」
フィルは少し胸を張った。
「父さんがいなくても、誰かに頼っていいんだね」
「ああ。俺に頼るなって意味じゃない。俺だけに頼るなって意味だ」
会議が終わると、フィルは翌日の炊き出し当番表をライアンに見せた。
父の名前が書かれた欄には、今度は「相談役」とあった。
「仕事を奪ったわけじゃないよ」とフィルは慌てて言った。
ライアンは表を受け取り、鍋洗いの担当を指さした。
「ここ、二人じゃ足りないだろ」
フィルは顔を赤くして人数を書き直す。
「ほら、まだ父さんが必要だ」
ライアンが笑うと、フィルも笑った。
ただし、修正した当番表に署名したのはフィル自身だった。
ライアンはその手元を見守り、明日の朝は少し遅く起きようと決めた。
夜、百一脚の椅子の一つが空いたままになっていた。
遅番の見習いが共同厨房から戻っていないのだ。
ライアンは自分の椀を持ち、扉のそばで待った。
「父さん、先に食べて」
「今日は待つ役目をする」
やがて見習いが帰ってきた。
誰かが椅子を引き、別の誰かが温かい椀を渡した。
ライアンは何も指示しなかった。
けれど自分の居場所がなくなったわけではないと、はっきり分かった。
フィルは、父の席が空いたままにならなかったことを見て、ほっと笑った。




