第五十四話 大聖女が治したかったのは、傷ではなく一枚の配給札だった
少年は、粥の椀を袖の中に隠そうとしていた。
王都西区の施療院。
セーラが腹痛の少年を診ると、長く食事が足りていないことが分かった。
「食べていいのよ」
少年は首を振った。
「妹がいる」
「妹さんにも用意するわ」
「……家は教えない」
少年の目は、傷を見せる患者のものではなかった。
誰かに見つかることを恐れる目だった。
セーラは椅子を引き、少年と同じ高さに座った。
「話さなくても診察は続ける。あなたの分の粥も取り上げない。妹さんのことも、あなたが話せるようになるまで待つわ」
少年はようやく匙を取った。
一口飲み込むと、涙が落ちた。
「前に役人が来た。家を教えたら、配給札に穴を開けられたんだ」
袖から出てきた札には、赤い縁の穴が二つあった。
「穴がある札は無効だって。妹はまだ小さいのに」
セーラは札を奪わず、少年の許可を得て番号を書き写した。
その日のうちに、マリナが配給所の記録を調べた。
穴は一種類ではなかった。
紛失した札の再発行印。
回収した札の再利用防止印。
それから、正当な理由を記録せずに受給停止とされた札。
役人の一人は言った。
「穴があれば止める。規則です」
「何のための穴か、確かめなくても?」
「確かめる時間がありません」
マリナは記録簿を開いた。
「確かめる時間を省いた結果、食べられなくなった人がいるわ」
しかし、すべての札を無条件に有効にすれば、二重受給や記録の混乱も起こりうる。
セーラは診療室で決めた。
「今夜の食事は、札がなくても渡す。配給の資格は別に調べる。空腹の子供に、調査が終わるまで待てとは言えない」
ライアンは頷いた。
「間違った札を直すのは大人の仕事だ。子供に証明させるな」
翌朝、配給所に臨時の窓口ができた。
札の番号だけでなく、過去の受給記録、居住の証言、再発行の履歴を照合する。
停止する場合は理由を書き、別の担当者が確認する。
異議を申し立てる方法も掲示した。
少年の札は、回収業者が再利用防止の穴を開けたものを誤って本人へ返していたと分かった。
受給停止にする理由はなかった。
それでも少年は、新しい札を受け取ろうとしなかった。
「また穴を開けられたら?」
係員が答えに詰まる。
セーラは首を振った。
「私が保証する、では駄目なの。私がいない日にも食べられなきゃ」
マリナが記録簿を係員の前に置いた。
「訂正した日付と理由、確認した二人の名前がここにある。次に止めるなら、根拠を記録して審査を受けてもらうわ」
係員は札を差し出し直した。
「明日も来てください。もし困ったら、この窓口で申し立ててください」
少年は札を握ったまま、しばらく動けなかった。
「……妹も?」
「もちろん」
夕方、少年はナナという妹を連れてきた。
二人分の粥が並ぶと、ナナは兄の顔を見た。
「これ、全部食べていいの?」
少年は一度だけセーラを見た。
セーラが頷くと、彼も頷いた。
「いいんだって」
ナナは椀を抱え、湯気を吸い込んだ。
数日後、施療院の読み書き教室で、少年は最初の文字を書いた。
自分の名ではなく、妹の名だった。
「ナナ」
妹は紙を指でなぞって笑う。
「私の名前だ」
セーラは二人の隣に座った。
治癒の魔法なら、傷を塞ぐことはできる。
しかし、人が明日も食べられると信じられるまでには、約束を守り続ける人が必要だった。
少年は紙を折り、配給札とは別のポケットにしまった。
「これなら、消されてもまた書ける」
新しい札を受け取る前に、少年はもう一つ尋ねた。
「妹が病気になったら、札がなくてもお医者さんに診てもらえる?」
セーラは頷いた。
「診察は配給札と別のものよ」
少年は信じられないという顔をした。
彼にとって、紙一枚の穴は食事だけでなく、大人を頼る資格まで奪う印だった。
マリナは配給所の壁に、文字の読めない人にも分かる絵を掲示させた。
食事の相談、札の再発行、病気の相談。
それぞれの窓口に違う色の印をつける。
数日後、少年は妹を連れてやってきた。
妹は小さな手で札を握っていたが、受付の女性が「今日はしまっておいていいよ」と言うと、驚いたように兄を見上げた。
「ほらね」
少年は初めて、少し得意そうに笑った。
新しい窓口が開いた初日、配給所の前には長い列ができた。
係員は札の穴を確認するたびに、別の帳簿をめくる。
昼を過ぎても、順番はほとんど進まなかった。
「やっぱり、前と同じじゃないか」
列の後ろで老人が呟いた。
マリナは受付の机に座り、何に時間がかかっているのかを数えた。
番号を探す時間。
過去の住所を確認する時間。
本人が読み書きできず、説明を繰り返す時間。
「調査の丁寧さを減らすのではなく、順番を変えましょう」
彼女は係員に、最初の窓口では必要な食事と緊急性だけを確かめるよう提案した。
記録の照合は別の机で行い、待っている人には受付番号と再訪の時刻を渡す。
「札を持っていない人は?」
「名前を聞いて、同じように番号を渡す。確認できないからといって、列の外へ追い出さないで」
午後、少年が妹のナナを連れて現れた。
ナナは小さな袋を胸に抱えていた。
「これ、返さなくちゃいけないの?」
袋の中には、昨日の粥の椀が入っていた。
借りたままでは次の食事をもらえないと思い、洗って持ってきたのだという。
セーラは椀を受け取り、ひびの入った縁を見た。
「返してくれてありがとう。でも、食事をもらうために何かを返す必要はないのよ」
「じゃあ、明日も来ていい?」
「もちろん。お兄ちゃんと一緒でも、一人でも」
ナナは兄の袖を引っ張った。
「お兄ちゃん、聞いた?」
少年は頷いたが、まだ安心しきれない様子だった。
その夜、セーラは配給所の係員と話した。
「規則を守るのが怖くなってきました」
若い係員が言う。
「守ったせいで、あの子たちを追い返したかもしれない」
「規則そのものが悪いわけではないの。間違いに気づいたとき、直せる道がなかったことが問題なのよ」
セーラは、停止を決めた係員と異議を受け付ける係員を分けるよう提案した。
ひとりの判断が、そのまま最後の答えにならないようにするためだった。
数日後、配給所の壁に新しい紙が貼られた。
『札に問題があっても、まず相談してください。
食事が必要な人は申し出てください』
文字を読めない人のために、椀と窓口の絵も添えた。
ナナはその絵を指さして、兄に言った。
「ここなら、私にも分かる」
少年は配給札を確かめる代わりに、妹の手を握った。
セーラはその変化を見逃さなかった。
治したかったのは、札の穴だけではない。
明日もここへ来ていいのだと、子供が信じられることだった。
その日の午後、札を持たない女性が窓口に現れた。
係員は新しい掲示を見て、一度だけ迷ったあと、相談用の椅子へ案内した。
女性は札をなくしたのではなかった。
家主に取り上げられていたのだ。
セーラは医療の記録だけでは解決できないと悟り、マリナに事情を伝えた。
係員は「今日の食事を先に渡してもいいでしょうか」と尋ねた。
「記録を残して渡しましょう」とマリナが答える。
女性は椀を受け取っても、しばらく口をつけなかった。
「あとで返せと言われませんか」
係員は掲示の文面を読み上げ、相談番号を書いた紙を手渡した。
信じてもらうには、同じ約束を明日も守らなければならない。
セーラはその言葉を聞き、ようやく微笑んだ。
翌週、少年は妹を連れて施療院へ来た。
妹は窓口の前で立ち止まり、兄の袖を握る。
「また穴を開けられる?」
担当の係員は新しい札を差し出した。
「今日は二人分です。明日も必要なら、ここへ来てください」
少年は札を受け取ったが、すぐには信じなかった。
セーラはそれでいいと思った。
約束を一度守っただけでは、奪われた信頼は戻らない。
兄妹が翌日も同じ窓口で食事を受け取れたとき、少年は初めて札を袖の中ではなく、胸の前で持った。




