第五十三話 閉ざされた村の門に、父さんの名前が書かれていた
北のアーベル村の門には、二枚の札が掛かっていた。
『疫病の疑いにつき通行禁止』
その下に、炭で書かれた文字。
『ライアン父さんなら、きっと来る』
ライアンは足を止めた。
自分の名を呼ぶ子供が、この村にいるとは知らなかった。
門の向こうから咳が聞こえる。
続いて、幼い子供の泣き声。
見張りの若い兵士は、槍を持つ手を震わせていた。
「入村は許可できません。上からの命令です。ですが、薬と食料を門の外から渡すことまで禁じられてはいません」
「なら、誰の命令か教えてくれ」
兵士が差し出した命令書を見て、セーラが顔を上げた。
「封鎖命令の日付が、最初の発熱より五日前です」
疫病が発生する前から、村を閉じる準備がされていた。
ガイアが門を見上げた。
彼の兵なら、数分で突破できる。
だがライアンは首を振った。
「中に病人がいるなら、むやみに人を行き来させるわけにはいかない。まず医者を通す道を作ろう」
セーラは村医者と門越しに記録を照合した。
発熱や腹痛は確認できる。
だが原因は分からず、感染症の可能性も消えていない。
「医療班だけ先に入ります。患者を分けて診察し、食料は接触を減らして受け渡す。結果は書面に残します」
兵士は黙ったままだった。
「妹が中にいるんです」
ようやく出た声は、ひどくかすれていた。
「熱があると聞きました。でも門を開ければ、私が罰せられる」
ライアンは兵士の肩を叩かなかった。
簡単に『大丈夫だ』
とも言わなかった。
「上官を呼んでくれ。お前一人に責任を背負わせない」
待つ間、ノアは水路を調べた。
上流で泥と汚物が流れ込み、井戸の水も濁っている。
魔法で水を清めても、流れ込む原因を放置すれば元に戻る。
「僕が全部直せば……」
ノアが杖を上げると、門の内側から村の大工が叫んだ。
「急に凍った土を温めるな! 石組みが割れる!」
世界最高の魔導師は、慌てて杖を下ろした。
「……教えてください。どう直すのがいいですか」
大工はしばらく驚いた顔をしてから、排水溝の位置を指さした。
夕方、上官の立ち会いのもと、医療班が村に入った。
診察と安全な水の確保が進むまで、往来の制限は続ける。
だが、門の隙間から粥と薬が運び込まれた。
若い兵士の妹は衰弱していたが、セーラの呼びかけに目を開けた。
「お兄ちゃん、まだ門にいる?」
「いるよ」
兵士は妹の手を握った。
彼は初めて、槍を置いても村を守れると知った。
村長はライアンに古い帳面を渡した。
封鎖された日、届かなかった食料、亡くなった人、産まれた子供。
それから、村が救済所の閉鎖に反対する署名を集めていたこと。
「疫病を口実に、黙らされたのかもしれません」
村長は言った。
「でも、まだ決めつけないでください。調べて、残してほしいんです」
ライアンは頷いた。
命令書の写しと診療記録を預かり、正式な調査を求めると約束した。
門を出るとき、彼は炭の文字に指を触れた。
「誰が書いたんだ?」
村長が答える。
「村の子供たちです。昔、あなたに育てられた娘が、この村で先生をしていてね。困ったら『父さんなら来る』
と話していたんです」
ライアンは文字を消さなかった。
「待たせて、悪かった」
翌朝、門には新しい掲示が増えた。
『封鎖中も、診療と食料の申請を受け付けます。
拒否するときは理由と担当者を記録します』
門の内側で粥を配ると、最初に椀を差し出したのは病人ではなく、見張りの兵士の妹だった。
少女は兄の姿を見つけても駆け寄らない。
医療班から、しばらく距離を取るように言われていたからだ。
「兄ちゃん、怒られる?」
「怒られるかもしれない」
兵士は答えた。
「でも、もうお前を見ないふりはしない」
ライアンは二人の間に椀を置いた。
大きな英雄が門を破った話なら、明日には王都中へ広まっただろう。
けれど、この村で必要だったのは、門を守る兵士が助けを求めても罰だけを恐れずに済む仕組みだった。
セーラは診察記録を村に残し、役人には隔離の根拠と解除条件を掲示するよう求めた。
村人はようやく、自分たちがいつまで待つべきなのかを知った。
村の診療所には、診察を待つ人の名が紙片に書かれていた。
セーラがその紙を見て、村医者に尋ねる。
「熱のある人と、腹痛だけの人を同じ部屋に集めていますか」
「ほかに部屋がないんです」
「なら、納屋を借りましょう。換気ができる場所と、暖を取れる場所を分けたい」
村医者は頷いたが、納屋の持ち主は首を横に振った。
「病人を入れたら、春の種を置けなくなる」
ライアンは持ち主を責めなかった。
納屋の隅には、冬を越すための麦袋が積まれている。
「種を先に別の倉へ移そう。運ぶ人は俺たちが出す。損が出たら記録して補償を相談する」
納屋の主人はしばらく黙り、やがて扉を開けた。
「子供の熱が下がるなら、空けるよ。ただし、春までに元に戻してくれ」
「約束する。紙にも残そう」
見張りの兵士は、妹の名前が診察簿に書かれるのを見つめていた。
「僕が命令に逆らって門を開けたら、妹だけは助かったでしょうか」
セーラは筆を止めた。
「分からないわ。ほかの人を危険にさらした可能性もある。でも、助けを呼ぶ道まで閉じる必要はなかった」
兵士は唇を噛んだ。
「僕は毎晩、門の向こうの声を聞いていました」
「その声を、記録にしてくれる?」
セーラは空白の用紙を差し出した。
兵士は最初の夜の日付を書き、次に何人が水を求めたかを思い出して書いた。
最後の行だけ、なかなか筆が進まなかった。
『妹が私の名前を呼んだ。
返事をしなかった』
その文字を見て、ライアンは何も言わずに用紙の端を押さえた。
夕刻、上官が到着した。
兵士の違反を問う前に、ライアンは診療記録と命令書を並べる。
「この命令が必要だった理由を調べてほしい。必要な隔離なら守る。だが、食料も医者も止める命令なら、誰が責任を持つのか明らかにしてくれ」
上官はすぐには答えられなかった。
村を閉じる文書はあっても、門の内側で何が起きているか報告する欄がなかったからだ。
「明朝から、村の状況を毎日受け取ります」
「村の人にも結果を伝えてくれ」
「……承知しました」
翌日、門の外に置かれた掲示板に、最初の報告が貼られた。
患者数、診察を終えた人数、届いた麦袋、次の検査日。
数字は小さくても、村人たちは何度も読み返した。
門に書かれた父さんの名前は、助けが必ず来るという魔法ではない。
助けを求める声を誰かが受け取り、返事をするという約束なのだと、ライアンは知った。
「村を閉じるなら、村にいる人の話を聞く窓口も必要です」
門番の兵士が上官へ申し出た。
声は震えていたが、今度は目をそらさなかった。
上官は掲示板の前に立ち、村医者へ報告書の書き方を尋ねた。
医者は言った。
「熱のある人だけでなく、水を汲めない家も記録したい」
セーラは項目を増やした。
診察を受けられる人数と、食事を作れる人数は同じではない。
ライアンは門の外に積まれた薪を見て、運ぶ手順を村の代表と決めた。
門を開けるか閉じるかの二択ではなく、守りながら届ける仕事が始まっていた。
すべての道が開いたわけではない。
だが、助けを求める道だけは、もう閉じさせない。




