第五十二話 小麦の値段が三倍になった町で、大商人の娘が店を閉めた
王都南市場で、パンが銅貨二枚から六枚になった。
「子供が二人いるんだ。六枚も出せるか!」
老人が声を荒らげても、パン屋のオルガは何も言い返せなかった。
小麦粉の仕入れ値が上がり、薪代も払えない。
値札を下げれば、明日から窯を閉めるしかない。
そこへマリナが来た。
大商会を率いる彼女なら、値上がりした小麦を買い占めて利益を得ることもできる。
だが彼女は店先の列を見て、商会の扉に一枚の紙を貼った。
『本日、一般取引を休止。
荷車と倉庫を食料輸送に振り向けます』
従業員たちがざわめいた。
「お嬢様、今日の売り上げがなくなれば、給金は?」
「通常の給金は払うわ。運送を引き受ける人には別に手当も出す」
「そんなことをしたら、商会が損をします」
「ええ。だから何日も続けられるやり方を考えるのよ」
マリナは帳簿を三冊並べた。
小麦を扱う三つの問屋が、同じ朝に値を上げている。
ガイアが眉をひそめた。
「三軒とも取り締まればいい」
「まだ駄目。橋が落ちて荷が来ない店もある。悪事と不足を混ぜたら、正直な商人まで潰れる」
調べると、一軒目は橋の崩落で輸送が止まっていた。
二軒目は倉庫に在庫を隠していた。
三軒目は不足の噂に便乗し、帳簿の数字を書き換えていた。
開店の前夜、オルガは売れ残ったパンを数えた。
昨日までなら、売れなかった理由を客の貧しさだけに求めただろう。
しかし帳簿には、別の数字が並んでいた。
粉の仕入れが遅れた日、窯の火を落とした時間、客が列を離れた時刻。
「高くなったから売れない、だけじゃないんですね」
若い職人が言った。
「高くなったうえに、いつ買えるか分からないから来なくなったんだよ」
オルガは明日の焼き上がり予定を黒板に書いた。
予定が変われば書き直す。
余裕のある分だけ予約を受ける。
売り切れたら、隣の炊き出しの場所を案内する。
そのどれも、金貨を山ほど積むような派手な策ではなかった。
「閉める方が簡単だったね」
オルガは黒板の字を拭き直した。
「でも、ここを閉めたら、あの老人は明日どこへ行くんだろう」
職人は返事の代わりに、翌朝の薪を窯の横へ積んだ。
マリナは証拠を保全して役所へ渡し、橋の迂回路に荷車を回した。
違法な在庫隠しの疑いがある分については、調査を求めた。
剣で小麦は増えない。
噂を叩き潰しても、パンは焼けない。
昼過ぎ、オルガの窯に最初の粉袋が届いた。
「これで安く売れますか」
マリナの問いに、オルガは首を振った。
「粉だけ安くても、職人の給金が払えません」
マリナはその場で計算を始めた。
粉、薪、塩、運搬費、職人の賃金。
どれも削れば誰かの夕食が消える。
「子供と高齢者の分は基金で差額を補う。店には通常の代金が入る。補助額と在庫は毎朝掲示する。それなら?」
オルガは指で数字を追い、ようやく頷いた。
「明日も窯に火を入れられます」
しかし夕刻、補助の対象にならない老人が店の前で立ち止まった。
握った銅貨は三枚。
まだ新しい仕組みは動いていない。
オルガは焼き上がったパンを一つ差し出した。
「今夜の分は、私が引き受ける。明日からは契約で続けるよ」
老人は銅貨三枚を払った。
オルガは受け取り、釣り銭の代わりに小さな焼き菓子を添えた。
マリナはその光景を見ていた。
「私は店を閉めて、人を助けたつもりだった」
隣にいたライアンが尋ねる。
「違ったのか?」
「店を開け続けられるようにする方が、ずっと難しいのね」
ライアンは昔の黒パンを思い出すように笑った。
「腹は、明日も減るからな」
次の朝、オルガの店には新しい値札が出た。
価格の横には、粉の仕入れ値と補助の仕組みが書かれていた。
列の最後にいた老人が、昨日と同じ銅貨三枚を差し出す。
今度は誰か一人の善意ではなく、店が続くための約束でパンが渡された。
翌日の仕入れ会議で、マリナは補助金の帳簿を店主たちの前に広げた。
「一週間分の予算しかないの?」
オルガの問いに、マリナは頷いた。
「基金を無限に使えると思わせたら、八日目に店が潰れるわ。だから期限を決めて、毎日数字を公表する」
若い粉屋が遠慮がちに手を挙げた。
「うちには借金があります。安く卸せと言われたら、従業員を減らすしかありません」
「安くしろとは言わない。あなたの仕入れと運送費を確認させて。正当な費用は払う」
マリナがそう答えると、粉屋は驚いたように帳簿を差し出した。
三つの問屋のうち、在庫を隠していた店には、隠匿分の販売を命じる前に保管状況を調べた。
袋の底には湿気がたまり、一部は食用に適さなかった。
ガイアが眉をひそめる。
「全部運べば済む話ではないのか」
「傷んだ粉を配ったら、今度は病人が出るわ」
マリナは検品に立ち会う人を二人ずつ決め、使える袋と廃棄する袋を別の場所へ運ばせた。
隠していた問屋の主人は、処分を恐れて顔を伏せた。
「罪は調べる。でも、今日ここで袋の数をごまかしたら、子供の食事までごまかすことになる」
主人は震える手で鍵を渡した。
午後、オルガの店では焼き上がりを知らせる鐘が鳴った。
列の先頭にいた母親が、子供の手を握って尋ねる。
「明日も、この値段で買えますか」
オルガは一瞬言葉に詰まった。
以前なら「大丈夫」と言って客を安心させたかった。
だが今は、根拠のない約束の怖さを知っている。
「明日の価格は夕方に掲示します。変わるときは、理由も書きます」
母親は少し残念そうにしたが、値札の隣の黒板を読んで頷いた。
「分からないことを、分からないと言ってくれるんですね」
その言葉に、オルガは胸が詰まった。
日暮れ前、マリナは荷車の帰着を待っていた。
商会を閉めたことで失った売上を計算すると、帳簿には赤い数字が並ぶ。
父から受け継いだ商会を守りたい気持ちと、今夜の食卓を守りたい気持ちが、同じ紙の上でぶつかっていた。
ライアンが隣に立つ。
「無理をさせていないか」
「無理はしている。でも、誰にも言わずに無理を続けるのは違うわ」
マリナは従業員に来週の予定を伝え、運送の負担を他の商会にも分担してもらう交渉を始めた。
一軒の善意を仕組みに変えなければ、救えるのは今日の客だけだ。
オルガの窯から漂うパンの匂いを嗅ぎながら、彼女はようやく、店を閉めた理由と再び開く理由がつながった気がした。
翌朝、オルガの店に小麦を積んだ荷車が着いた。
だが袋の一つが湿っている。
御者は「使える分だけでも」と言ったが、オルガは粉を指でつまみ、首を振った。
「傷んだ粉を混ぜたら、今朝は売れても明日から誰も来なくなる」
マリナは損失を商会の帳簿に記し、倉庫の屋根を点検させた。
従業員の青年が小声で尋ねた。
「お嬢様、これでは赤字が増えます」
マリナは破れた袋を示した。
「損を隠せば、誰かが腹を壊す。損を記録すれば、次の荷を守れる」
オルガは焼き上がった最初のパンを半分に切り、値段を確かめに来た母親へ見せた。
「今日の値札は、ここに書いたとおりです」
母親はパンを買い、釣り銭を数えてからようやく笑った。
マリナの商会はまだ閉まっていた。
けれど、街の窯には一つずつ火が戻り始めていた。




