第四十八話 消えた三十人の子供を追って、国境の雪原へ向かった
北街道の終わりで、雪は車輪の跡を飲み込んでいた。
出発前、エマは救護袋の中身を三度確かめた。
乾いた布、湯を入れた革袋、予備の手袋。
以前なら、救助の現場へ一番に駆けつけることだけを考えていた。
だが今は、戻ってきた子をどこで温め、誰が名前を聞き、誰が家族を探すのかまで決めておかなければならない。
「三十人を見つけても、連れ帰れなかったら救助じゃない」
弟のエルが荷車の車輪を叩いて答えた。
「だから帰りの馬も休ませてる。姉さんは先へ行くことばかり考えるから」
エマは言い返しかけ、笑った。
二人が同じ方向を向くために、同じことを考える必要はなかった。
「三台とも、ここを通ったはずです」
案内人マーヤが雪を掘ると、鉄の縁が欠けた車輪の跡が現れた。
救済本部で記録した荷車の傷と一致する。
ガイアは手帳に時刻を書いた。
「ここから先は、二人一組。帰還時刻を越えたら追跡を打ち切る」
エマが顔を上げた。
「打ち切る? 三十人が向こうにいるのに?」
双子の弟エルが答えた。
「救助隊まで遭難したら、明日探す人がいなくなる」
エマは唇を噛んだ。
「分かってる。でも、あと少しで追いつけるかもしれない」
「だからこそ、戻れる道を残そう」
ガイアは二人に縄を渡した。
雪原へ出る前、マーヤは宿場の壁に一枚の紙を貼っていた。
追跡隊の人数、帰還予定、最後に通る道。
どれも敵に知られたくない情報だったが、救助隊が戻らないとき、探す側に必要な情報でもあった。
「隠すべきことと、残すべきことは違います」
マーヤは地図の写しを宿場の責任者へ渡した。
エマはその紙を見て、昔の自分なら笑っていたと思った。
勇敢なら必ず帰れる。
そう信じたかった。
だが、雪に埋もれた子供たちも、きっと帰るつもりで家を出たのだ。
「私が戻らなかったら、弟を一人で行かせないで」
エマが言うと、エルは顔をしかめた。
「姉さんも同じ。僕が戻らなくても、一人で探しに来ないで」
二人は互いの手袋を引っ張り、結び目を確かめた。
その約束は臆病だから交わしたのではない。
助けるために、助ける人間が生きて帰る必要があった。
一行は風下の尾根を進んだ。
途中、崩れた小屋で母子が震えていた。
子供は靴を失い、母親は足をくじいている。
エマが雪原の先を見た。
「荷車はまだ遠くへ行ってない。ここで止まれば……」
エルは母子に毛布を掛けた。
「置いていけない」
二人の意見は割れた。
ガイアは捜索隊を分けた。
救護班は母子を宿場へ運び、追跡班は定めた帰還時刻まで先へ進む。
「誰かを助けるために、別の誰かを見捨てたことにはしない」
ガイアはそう言っても、全員を救えると約束はしなかった。
夕刻、雪に埋もれた荷車が一台見つかった。
車内は空だった。
座席の下には子供用の手袋があり、荷台には青い鳥の印が描かれている。
フィルが描き直した、ネルの服の印と同じ形だった。
「ネルがここにいた可能性が高い」
エマは手袋を握りしめた。
「まだ近い!」
ちょうどそのとき、山の向こうで黒い煙が上がった。
マーヤが顔色を変える。
「この風で火を使うのは危険です。雪の下に古い炭坑道があります」
ガイアは追跡を続けるか迷った。
帰還時刻まで、あと四十分。
ガイアは砂時計を裏返し、マーヤへ渡した。
「風向きが変わったら、この時刻より前でも撤退を知らせてくれ」
「見つけた子がいたら?」
「安全に運び出せる人数と道を確かめる。間に合わなければ位置を残して援軍を待つ」
エマは悔しそうに顔を伏せた。
だが、標識を立てるための杭を自分で握った。
「煙の位置を確かめる。救出できるなら救出する。ただし、全員で突っ込むな」
彼らは標識を立て、宿場へ伝令を走らせた。
煙の近くには二台目の荷車が横転していた。
周囲に小さな足跡が散っている。
何人分かは分からない。
火は荷台へ燃え移り始めていた。
エマが叫んだ。
「誰かいる!」
車輪の下から、かすかな声が返った。
「……助けて」
ガイアは膝をつき、火の回り方を確かめた。
「エル、消火班を呼べ。エマ、声をかけ続けろ。板を外す前に、中に何人いるか聞くんだ」
雪が強くなった。
追っていた三十人が全員ここにいる保証はない。
それでも、目の前の一人を救う手順だけは、間違えたくなかった。
ガイアが荷車の下を覗くと、少年の声は途切れがちだった。
「名前を言えるか」
「……リオ」
エマが思わず前へ出たが、エルが腕をつかんだ。
燃えている板を不用意に引けば、荷台が崩れて子供を押しつぶす。
「先に支える。姉さん、こっちの梁を見て」
二人は荷車の傾きを確かめ、持ってきた短い丸太を支えに差し込んだ。
雪の中で何度も練習した作業だった。
けれど本番では、指先が震えた。
「大丈夫、聞こえてるよ」
エマは板越しに声をかけた。
「返事できなくてもいい。こっちはずっと話してるから」
少年は小さく咳をした。
「女の子が……寒いって」
「毛布を持ってる。少し待って」
消火班が雪と水を運び、火の勢いを弱めた。
エルは板の釘を抜く位置を一つずつ指示した。
力任せにこじ開けるより時間はかかる。
しかし、その時間を惜しんで子供を傷つけるわけにはいかない。
やがて隙間が広がり、小さな手が見えた。
エマはその手を握りたい衝動をこらえた。
引っ張れば、狭いところで肩を痛めるかもしれない。
「もう少しで通れる道ができる。今はそのままでいて」
救護班が担架を並べるころ、マーヤが谷の向こうを指した。
雪の上に別の車輪跡が残っている。
「一台じゃない。もう一台、北へ向かった」
ガイアは跡を見つめた。
ここで追えば、目の前の救助に必要な人手が減る。
「場所を記録して、宿場へ伝令を出せ。追跡隊は交代要員が来てから動かす」
エマは悔しさを飲み込んだ。
追いたい気持ちは誰より強い。
だが、目の前の子供を運び出す手を離すわけにはいかなかった。
「姉さん、支えをもう一本」
エルの声で、彼女は我に返った。
「分かった」
二人は肩を並べて板を支えた。
英雄の名を呼ばれるようになっても、誰かを救うのは地味な作業の積み重ねだ。
釘を一本抜き、支えを一本増やし、次の人が安全に手を伸ばせるようにする。
板の向こうから、かすかに声がした。
「……まだ、いる?」
「いるよ」
エマは今度こそ、迷わず答えた。
エマは救助用の縄を結び直し、弟エルに端を持たせた。
「この結び目が緩んだら、合図して」「姉さんが先に飛び込まないならね」軽口に二人は短く笑った。
だが板の下から二度目の声が聞こえたとき、笑みは消えた。
声は一人分しかない。
「ほかの子は?」エマが問うと、長い沈黙のあとに「眠ってる」と返ってきた。
エマは焦りを押し込み、声を落とした。
「今から板を動かす。音がしても、そこにいてね」エルが支えを固定し、兵士が雪を掘り下げた。
誰かを安心させる言葉と、実際に安全な出口を作る仕事。
その二つを同時に進めなければ、約束は空っぽになる。
「ここにいる。置いていかない」




