第四十四話 大聖女が怒った日、王都の病院が一斉に門を開いた
廃鉱山から救出された二十三人の子供たちが、王都中央病院に運ばれた。
三人は自力で歩けず、一人は咳をするたびに胸を押さえた。
「入院枠がありません」
事務長が差し出した一覧には、空床が二つあった。
だが欄外に「貴族専用」と書かれている。
セーラは紙を見つめた。
「空いているのに、使えないの?」
「規則です。寄付金で維持している病室ですから」
「なら、規則を変える手続きを始めて。今夜は私の責任で緊急使用します」
「院長の承認が必要です」
「連絡して。承認を待つ間に、呼吸が苦しい子の処置は止めない」
セーラは声を荒らげなかった。
けれど、そばにいた看護師サナは、彼女が本当に怒っていると分かった。
病床を空ければ済む話でもなかった。
「夜勤は二人です。二十三人を増やしたら、今いる患者まで危険になります」
サナの指摘に、セーラは頷いた。
「その通りね。周辺の施療院に応援を頼んで。歩ける子はまず温かい場所で休ませる。重症者は私と当直医が診る」
待合室では、寄付をした商人が怒鳴っていた。
「私は三か月も予約を待っている! なぜ見知らぬ子供が先なんだ!」
セーラは男の前に立った。
「今、呼吸が止まりかけている子がいます。あなたも同じ状態なら、先に診ます」
「金を出した意味がないではないか」
「寄付はありがたいです。でも、診察の順番を買うためのお金にはできません」
男は黙り、付き添いの女性が頷いた。
診察台では、フィルが妹の名を繰り返していた。
「ネルは? あいつは別の荷車に乗せられたんだ」
「捜索隊に伝えてある。今は君の体を診させて」
「俺が寝たら、忘れられる」
セーラは紙を一枚取り出した。
『ネル。
青い襟。
兄フィルが捜している』
そう書いてフィルに見せ、捜索担当へ渡す控えも作った。
「君が眠っても、探す仕事は止まらない」
フィルは文字を確かめ、ようやく横になった。
深夜、院長が病院へ戻ってきた。
「規則を無視して、何人も受け入れたそうだね」
「規則が患者を危険にするなら、見直す必要があります」
「では明日、同じ数の患者が来たらどうする?」
セーラは答えを用意していた。
「この病院だけで抱えません。重症度に応じた受け入れ先と、病床の空き情報を共有します。患者を断る場合は、理由と紹介先を記録します」
院長は長く考えた。
「王都の全病院に協力を求めよう。しかし、人員と薬の不足は隠すな」
「はい。できないことを隠したら、患者が一番困ります」
翌朝、王都の病院と施療院の門に、新しい掲示が並んだ。
『救急患者は身分を問わず状態で判断します。
受け入れできない場合は、搬送先を案内します』
サナは掲示の下に、各施療院の連絡担当と夜間の受け入れ方法を書き足した。
「これがなければ、行き先を案内するだけで終わります」
セーラは新しい一覧を手に、救急車の御者へ確認した。
「道が塞がったら、どこへ知らせる?」
御者は別の施療院を指した。
答えられなかった経路は、その場で修正した。
門が開いても、すべての病気が治るわけではない。
薬も人手も足りなかった。
セーラは帰宅を待ってもらう人の名前まで記録した。
診療室を出ると、フィルが眠っていた。
枕元には、ネルの特徴を書いた控えが置かれている。
サナが囁いた。
「大聖女様、今日は一度も大声を出しませんでしたね」
セーラは疲れた顔で笑った。
「怒っているからこそ、明日も使える仕組みにしないと」
窓の外では、別の病院へ向かう馬車が静かに走り出していた。
その日の午後、病院の中庭に臨時の診察台が三つ運び込まれた。
「門を開けたら、廊下がいっぱいになりました」
サナは受付簿を抱え、セーラを呼び止めた。
列の先頭にいるのは廃鉱山から救われた子供ではなく、足を引きずる老女だった。
老女は順番を譲ろうとしていたが、靴の中に血が滲んでいた。
「待っている人を全員同じ列に置いてはいけないわ」
セーラは診察を必要とする急ぎ具合を見分ける担当を決め、患者ごとに札を渡した。
文字を読めない人にも分かるよう、札には色と印を付けた。
ただし色だけで病気を決めつけず、容体が変われば何度でも診直す。
一人の看護師が小声で言った。
「貴族の患者が、先に診ろと……」
「症状を聞いて。危険なら先に診る。危険でないなら待ってもらう。それだけよ」
貴族の男は最初、侮辱されたと顔を赤くした。
だが、隣の少年が咳き込んで呼吸を乱すのを見ると、持っていた毛布を差し出した。
「私の部屋で使う予定だったものだ。洗ってある」
セーラは礼を言い、毛布の状態を確認してから受け取った。
怒鳴り合っていた者たちの間に、ようやく人が通れる道ができた。
夜になって、救急搬送を引き受ける施療院から断りの返事が届いた。
病床はあっても、当直の医師がいないという。
セーラは返事を責めなかった。
代わりに、診察ができる医師の所在と、夜明けまで患者を安全に見守れる場所を別々に確認した。
「門を開けたことを、勝利にしないで」
サナが驚いて顔を上げる。
「門を通った人が、ちゃんと診てもらえるまでが仕事よ」
翌朝、昨日の老女が杖をついて戻ってきた。
足の手当てをした看護師へ、小さな袋を差し出す。
中身は乾燥させた薬草だった。
「これしかないけれど」
「十分です。でも、今日はご自分の足を休めて」
老女は笑った。
病院の門には、前夜より長い列ができていた。
セーラはそれを見て、今度は怒らなかった。
人が助けを求められる場所になった証拠だ。
けれど列の長さを誇るつもりもなかった。
列を短くするための仕事が、ここから始まるのだから。
夜勤の看護師サナは、貴族病室の寝台を運び出すよう命じられたとき、一瞬だけ足を止めた。
「明日、寄付者が抗議に来ます」「そのときは私が説明する」セーラは言った。
「あなたには、今夜の患者を見てほしい」サナは唇を結び、寝台の脚に手を掛けた。
咳き込む少女を移したあと、廊下で父親が頭を下げた。
「代金は、いつか必ず」「今は娘さんの手を握っていてください」サナはそう答えた。
朝になれば会計と規則の問題が待っている。
それでも、少女が息を整えるまでの時間を買うために、今夜ここにいる者たちが動いた。
夕方の申し送りで、サナは昨日断られた患者の名前を読み上げた。
受け入れ先が見つかった人には印を付け、まだ決まらない人は次の担当者へ引き継ぐ。
セーラは一人の名が二度読まれたことに気づいた。
別の病院へ移したと思われていた子供が、実際には家族と待合室に残っていたのだ。
「名簿を作っただけでは、救ったことにならない」セーラは自分の筆で欄を訂正した。
サナは深く頷き、搬送先の受領確認まで一枚の紙で追えるように書式を直した。
門を開くという決断は一日でできた。
だが、開いた門の向こうで誰も取り残さないためには、翌日も、その次の日も確認を続けなければならなかった。
その確認表は、翌朝の当直にも引き継がれた。




