第四十一話 父さんの病室に届いた、差出人のない帳簿
病室の扉には、セーラの字で「面会は一度に二人まで」と貼られていた。
ライアンは粥を半分残して、その紙を眺めた。
「俺の家なのに、入る人数まで決められるとはな」
「病室よ。今は私の指示に従って」
セーラが匙を差し出すと、父はおとなしく受け取った。
そこへマリナが、封のない包みを持ってきた。
「差出人は書かれていない。でも、受付に来た青年が、父さんに渡してほしいって」
包みには、救済金の支払い帳簿が入っていた。
マリナは包みを開く前に、受付で受け取った時刻と封の状態を別紙に書いた。
「匿名の資料は便利だけど、誰かが偽物を混ぜたら、無実の人まで疑われる」
セーラは病室の窓を閉め、父に向き直った。
「今夜は休んで。帳簿の数字だけで人を裁かないって約束して」
ライアンはうなずいたが、紙の端に付いた小さな泥の跡が気になった。
二十年前、食料の届かなかった冬に、彼も同じ色の泥を靴につけて倉庫を走り回った。
「金が消えたなら調べる。でも、金を待っていた子が今どこにいるかを先に調べてくれ」
マリナは父の言葉を記録した。
金額の不一致と、人間の所在。
どちらも同じ帳簿から始まるが、確かめ方は違う。
彼女は受領印を写し取り、原本を布で包み直した。
合計、銀貨八万枚。
受領欄には三十七件分の印がある。
だが、受け取った人の署名は一つもなかった。
「偽造か?」
ライアンが尋ねると、マリナは首を振った。
「まだ分からないわ。事務員がまとめて記入することもある。問題は、金が本当に届いたかどうか」
青年は廊下で待っていた。
名をユーディといい、行政院の臨時書記だった。
セーラは彼を椅子に座らせた。
袖口に血がにじんでいる。
「怪我をしているわね」
「戸棚の金具で切りました。帳簿を持ち出したときに」
ユーディは自分から認めた。
「許可なく持ち出しました。処分されるのは覚悟しています。でも、弟の配給まで止められたら……」
「帳簿をどう入手したかも記録する」
マリナは言った。
「ただし、あなたの弟を脅す材料にはさせない。証言者の保護は別に手配するわ」
ユーディの手はまだ震えていた。
彼は受領印の一つを指した。
「この名前の人は、二週間前に亡くなっています。なのに、昨日も金を受け取ったことになっている」
マリナは帳簿を閉じなかった。
「死亡届の写しを確認しましょう。同姓同名かもしれない。間違いなら訂正する。不正なら証拠を残す」
ライアンは病床から身を起こしかけた。
「俺も行く」
「行かない」
セーラが即答した。
「父さんが動けないと、誰も助けられないのかしら」
ライアンは言葉に詰まった。
昔はそうだった。
百人の子供が飢えた夜、動ける大人は自分しかいなかった。
だが今、目の前には病人を診る娘と、帳簿を読む娘がいる。
「……分かった。じゃあ、一つだけ頼む」
「何?」
「調査が終わるまで、配給を止めないでくれ」
マリナは頷いた。
支払い記録と現場の日誌を照らすと、三日間、満額の食料が届いたことになっている。
ところが食堂の記録には、薄い粥しか出せなかったとあった。
マリナは監査院へ原本を預け、写しを別の保管先に置いた。
原本を受け取った監査官は、封印の時刻と立会人二人の名を記録した。
「帳簿を持ち出したユーディの責任も調べます。ただし、証言の真偽と処分は別々に判断します」
マリナは頷いた。
彼が勇気を出したからといって帳簿の数字が正しいとは限らない。
それでも、弟の食事を脅しに使うことだけは許さなかった。
同時に不足分の食料を手配した。
その夜、ユーディはもう一枚の紙を差し出した。
『白樺村 四百二十人』
「ここへの支払いが、いちばん多いんです。でも、地図に村がありません」
マリナの表情が変わった。
「明日、地図と輸送記録を調べるわ」
ライアンはもう口を挟まなかった。
セーラが寝台のそばに戻ると、父は空になった椀を差し出した。
「食べたぞ」
「えらいわね」
「昔は俺が言う側だったんだがな」
セーラは笑い、帳簿を持って病室を出た。
ライアンは扉の向こうで続く足音を聞いた。
自分が寝ていても、子供たちは誰かの明日を守っている。
翌朝、マリナは病院の受付へ戻った。
帳簿を運んだ青年の顔を覚えている者がいないか確かめるためだった。
夜勤の看護師が、受付簿の余白を指した。
「名前を尋ねたら、書くと弟が困ると言われました。だから、渡した物と時刻だけ残したんです」
「それで十分です。名前を書かなかったことを責めたりしません」
マリナは受付簿の写しを取り、青年が置いた包みの紐も保管した。
紐には商会で使う結び目があったが、それだけで勤め先を決めつけるわけにはいかない。
病室へ戻ると、ライアンは窓の外で荷車を引く少年を見ていた。
「昔、俺も名前を隠して食料を運んだことがある」
「どうして?」
「配給を受けた家が、あとで責められないようにな。だが、隠したせいで誰が困っているのか分からなくなったこともある」
マリナは椅子を寄せた。
「今回は帳簿を隠さない。だけど渡した人は守る。両方できるようにするわ」
「頼もしくなったな」
「父さんが病室から出てこなければ、もっと頼もしくなれる」
父は苦笑して布団を引き上げた。
昼過ぎ、監査官から連絡が入った。
帳簿の支払い番号と王庫の記録は一致する。
しかし、受領先の欄だけが、三か月分まとめて同じ筆跡で書かれていた。
「同じ人が代筆した可能性もある」と監査官は言った。
「なら、代筆した理由を確かめましょう。偽造と決めるのはその後です」
マリナは一枚の確認票を作った。
誰が書いたか。
誰が運んだか。
誰が受け取ったか。
そして、食料を待っていた人は実在するのか。
調査の最初の欄に、彼女は赤字で書いた。
『証拠を追う間も、配給は止めない』
その一文を見たライアンは、安心したように目を閉じた。
彼が守りたかったのは帳簿の正しさだけではない。
明日の朝に腹を空かせる子供のほうだった。
病室の窓の外で、配給所の鐘が鳴った。
マリナは帳簿の数字を追う手を止め、父の顔を見た。
「これを渡した人は、きっと怖かったと思う。名前を出せない事情があるんだわ」「だったら、名乗れと迫るな」ライアンは匙を置いた。
「ただし、その人が間違っている可能性も忘れるなよ」マリナは頷いた。
帳簿の写しは二人で照合し、原本には触れた者の名前を残すことにした。
病室の外では、若い職員が配給札を抱えて待っていた。
疑惑のある帳簿を止めれば、明日の配給まで止まる。
マリナは調査用と配給用の記録を分け、職員に言った。
「明日の食事は予定どおり。調べるのは私たちの仕事よ」職員の肩がようやく下がった。
そのことが、今夜の薬より少しだけ、胸を軽くした。




