第四十話 父さんが倒れた日、世界中の王が同じ手紙を受け取った
ライアンが倒れたのは、食堂の朝の仕込み中だった。
床に落ちた木匙の音に、セーラが振り向いた。
父は鍋のそばに膝をつき、返事をしない。
「父さん!」
セーラは呼吸と脈を確かめ、すぐに医師を呼んだ。
治癒魔法で痛みを消しても、長年の疲労や年齢そのものをなかったことにはできない。
百人の子供たちに届いた知らせは、戦場のどんな報告より短かった。
『父さんが倒れた。
今は安静が必要』
ガイアは軍の命令書を閉じた。
マリナは取引の予定を延期した。
世界が動いても、父の枕元には一度に一人しか座れなかった。
医師テオはセーラに診察記録を渡した。
「魔法で症状を抑えても、休養なしでは繰り返します」
セーラは父の枕元で拳を握った。
誰より多くの命を癒やしてきた自分が、父に必要な睡眠を与えることさえできない。
ライアンの手がわずかに動き、彼女はようやく息をついた。
ガイアが全軍へ帰還命令を出しかけたとき、マリナが止めた。
「みんなが持ち場を離れたら、父さんが一番悲しむ」
百人は順番を決め、緊急時の連絡網を作った。
王たちへ送る手紙も、奇跡の治療を求めるものではない。
食堂と施療院を支える人手を、無理のない範囲で頼むものにした。
ライアンが倒れたと聞き、各国の王宮が騒然となった。
ガイアは軍を動かそうとし、マリナは交易路を止めかけた。
セーラが二人を叱った。
「父さんは、そんなこと望まない」
診察したテオは過労と肺の炎症を告げ、安静が必要だと説明した。
ライアンは枕元で苦笑した。
「俺一人のために世界を止めるな」
百人は交代で看病し、手紙を送ることにした。
回復しかけたある朝、宰相の印を押した密書が届く。
そこには、孤児の救済金が再び消えていると書かれていた。
医師テオはライアンの病室の前に札を掛けた。
『面会は短時間、一度に一人』。
それを見たガイアが眉をひそめた。
「世界中の王が見舞いに来ると言っている」
「お断りしてください」
若い医師の声は震えていたが、引かなかった。
「患者に必要なのは称賛ではなく休息です」
セーラはテオの判断を支持した。
治癒魔法で一時的に楽にできても、過労を繰り返せば同じことになる。
マリナは父の仕事を調べた。
炊き出しの仕入れ、孤児院の相談、旅人の宿泊費。
善意で引き受けた小さな用事が、毎日何十件も積み重なっていた。
「父さんは、誰にも頼んでいなかったのね」
百人は相談して仕事を分けた。
断るべき依頼には断りの返事を出し、専門の担当者を雇い、費用の出どころも決めた。
ライアンは寝台から抗議した。
「俺がやったほうが早い」
「その言葉を、私たちは昔から聞いてきた」
セーラは椅子に腰を下ろした。
「今度は私たちに任せて。父さんがしてくれたみたいに」
ライアンは黙って目を閉じた。
守られる側になるのは、想像以上に難しかった。
数日後、病室で若い医師テオはライアンに尋ねた。
そんな小さな循環が生まれた。
数日後、ライアンは寝台の上で百通の返事を読んだ。
どれも立派な演説ではない。
『今日はちゃんと食べました』『無理な夜更かしをやめます』『父さんも休んで』
世界中の王へ送られた手紙も、命令ではなかった。
『救援を必要とする人の仕事を、私一人の名に頼らせないでほしい。
現場の人を支えてほしい』
セーラは最後の一枚を畳んだ。
「父さん、今度は私たちの言うことを聞いて」
「……しばらく休むよ」
その返事を聞いて、彼女はようやく泣いた。
医師テオはライアンの寝台のそばに椅子を置いた。
「しばらくは、仕事を他の方に任せてください」
「食堂の仕込みくらいなら」
「その『くらい』
を積み重ねた結果です」
ライアンは言い返せなかった。
扉の向こうでは、子供たちが交代の順番を相談している。
最初に入ってきたガイアは、軍の書類を持っていなかった。
代わりに、幼いころ父が使っていた欠けた木匙を置く。
「昔、父さんが寝込んだとき、俺たちは何もできなかった」
「そんなことない。水を運んでくれた」
「今度は、もっとできる」
マリナは食堂の支払いを引き受け、ノアは家の段差を直した。
セーラは診療記録をつけ、他の子供たちは訪問時間を短く区切った。
「百人も来たら、休めないだろ」
ライアンが笑うと、セーラは真顔で答えた。
「だから百人で決めたの。一日に会えるのは二人まで」
父は初めて、守られる側の約束に従った。
ライアンの病室には、百人分の花束を置く場所がなかった。
セーラは廊下に立て札を出した。
『面会は一日二人まで。
食事と睡眠を優先』
ガイアは最初、不満そうに腕を組んだ。
「軍を率いる俺でも駄目か」
「軍を率いているなら、規則を守って」
セーラの一言で、ガイアは静かに椅子へ座った。
マリナは食堂の支払いを引き受け、ノアは段差を直し、ほかの子供たちは交代で鍋を洗った。
ライアンが起き上がろうとすると、若い医師テオが止めた。
その夜、セーラはライアンの寝台の横に帳面を置いた。
そこには、父が一人で引き受けていた仕事が細かく並んでいる。
「全部、私たちが代わるの?」
ガイアが尋ねると、セーラは首を振った。
「誰か一人が代わったら、また同じことになる」
マリナが資金の欄を、ノアが連絡の欄を引き受けた。
決裁が必要なことは三人で確認し、緊急の相談先も決めた。
ライアンしか知らなかった取引先の連絡先は、本人の了承を得て共同の帳面に移した。
ライアンが目を覚ましたとき、机の上には新しい当番表があった。
「俺の仕事がなくなったな」
「違うわ。父さんの仕事は、ちゃんと休んで、また一緒にご飯を食べること」
セーラが言うと、ライアンは初めて反論せず、枕に頭を戻した。
「あなたが休む間も、食堂は続きます」
「俺がいなくても?」
「あなたが育てた人たちがいます」
ライアンは目を閉じた。
誰かに任せることも、家族を信じることなのだと、ようやく分かった。
王たちへ送られた手紙には、ライアンの病状を大げさに書かなかった。
『父の代わりに誰か一人を英雄にするのではなく、各地の食堂と診療所を止めないでください』
差出人には百人の子供たちの代表名が並んでいた。
最初に返事を寄こした国王は、見舞いの宝石ではなく、冬の食料輸送の通行料を免除すると約束した。
ライアンがそれを聞いたのは、ようやく起き上がれるようになった日のことだった。
「大げさな手紙を出したな」
「父さんが休むための手紙よ」
セーラは椅子を引いた。
ライアンは苦笑して座り直した。
世界を支える仕事は、一人が倒れて終わるものであってはならなかった。
ライアンが休んだ最初の一週間、食堂の仕入れは一度だけ遅れた。
マリナは遅延を記録し、連絡の順番を改めた。
ライアンは報告を聞いて口を出しかけ、セーラに止められた。
「失敗も私たちに任せて」
二週間目には、仕入れの判断をマリナだけに集中させないため、代行者を二人決めた。
ライアンが復帰したあとも、その表は剥がさなかった。
父が倒れた日だけの応急措置を、誰かが休んでも食堂が開く仕組みに変えるためだった。
次の仕入れの日、代行者の一人が自分の判断で遅延を報告した。
ライアンは口を挟まず、報告を聞いて「助かった」と礼を言った。
三日目の朝、ライアンは寝台の脇に置かれた仕事の帳面を見つけた。
表紙には大きく『父さんは開かない』と書いてある。
「誰が書いた」と尋ねると、セーラが手を上げた。
「全員一致よ」
ライアンは少し悔しそうに笑い、帳面を閉じた。
食堂から届いたのは報告書ではなく、子供たちの手紙だった。
『今日は鍋を焦がしました。
でも夕飯は間に合いました』。
失敗を隠さず知らせてくれることが、今は何よりうれしい。
ライアンは返事に一行だけ書いた。
『焦げた鍋は、俺が元気になったら一緒に磨こう』。
彼は苦笑して、温かいスープを飲んだ。




